SENSAIまさの備忘録

繊細気質まさの過去を振り返る

これまでのこと8 献血

 私は,まだ20代の頃,日本海側に住んでいた。県庁所在地であるが,それほど賑やかでもなく,冬はめっぽう寒かった。都市活性化のため,あちこちに大きな道路を建設中であった。それは,開通まで約30年を要した。道路ができる頃には,日本で最も人口減の激しい地方となったのだから皮肉である。

 

 勤め始めたころ,会社に程近い,専用の宿舎に1人で住んでいた。平屋の一軒家である。勝手口から右手に和室が四畳半,六畳,四畳半と3つ並んでおり,左手がトイレ,台所,風呂場が並んでいる。これだけ書くと,1人住まいでは贅沢に聞こえる。しかし,昭和40年頃にできた,ブロック造りの古い宿舎だった。コンクリートブロックには断熱材が入っていないため,冬の寒さはきつかった。昼間でも,台所の水道が凍り付くことがあった。さらに防水性が悪いため,冬に部屋を暖めると壁が汗をかくのである。そのため,ちょっとほっておくとすぐカビが生えた。しかもトイレは肥溜め式で,これも油断するとハエの巣窟になるのであった。

 

 県庁所在地といっても,以前は独立した港町で,市街地から北に,かなり離れた場所にあった。海岸に近いこともあり,砂地である。3部屋続きの外側が庭になっていた。完全な砂地である。雑草が生えない代わりに,一般の内陸の植物も育たない。車の車輪が砂にはまってしまうこともあった。

 

 同僚の上司が,親戚に手術を予定している人がいると言った。その地域の慣習で,手術をするときは,何人かの献血をお願いされるということだった。そこで,若い私に献血を頼みに来たのである。血液型は何でもよく,とにかく人数だけを指定されているらしい。私はそれまで,献血をしたことがなかった。なにぶん気の弱い人間である。必要もないのに,針を腕に刺すなど,考えたくもなかった。しかし,今回は上司の頼みである。断るわけにはいかない。その上司自身は,採血しないとのこと。なんでも,恐怖で気を失いそうになるそうだ。それはないだろうと思った。

 当日は,上司の車で送ってもらった。場所は市内にある保健所である。建物の中に入り,採血する部屋に行く。ベッドに横になって腕を出し,採血してもらうのである。手を出すところに仕切りがあり,向こう側に採血用の機器があった。採血中は,それが見えないようにしてあった。私は,左手を出し,袖をまくった。右手は,テニスでラケットを持つ方なので,注射のときはいつも避けている。チクッとして,しばらく待てば…,と比較的気楽に待っていた。

 

 仕切りの向こうから,注射器が見えた。私は,ドキッとした。「ふ,太い…!」思ったより,針が太いのである。嫌な予感がした。「刺しますよ,手を結んでください」女の声がした。ブスッと来て,またドキッとした。痛い!かなり血管が痛いのである。こんな痛い採血は初めてだ。「はい手を開いて,ゆっくり結んだり,開いたりしてください」私は指図通りにしたが,とにかく痛い。叩かれたり,つねったりした痛さではなく,痛苦しいのである。のちにワクチンを打つ経験をするが,その針の細さと,打った時の痛みの少なさに驚いたものだ。

 

 「早く終わらないかな…」そう思っていると,逆に非常に長く感じることは,だれでも経験するものだ。だんだん緊張して,冷や汗が出てきた。わきの下は,汗でびっしょりだ。そのうち世界がくるくる回り始めだ。「オー痛い」まいってしまった。かなりしばらくして(私の体感時間では),「終了です」という声がして,針が引き抜かれた。抜くときも痛い。

 ホッとしたつかの間,急に気分が悪くなってきた。緊張による精神作用であろう。私は看護師に言って,しばらくそのまま寝かせておいてもらった。心臓が弱々しく鼓動し,気を失いそうになりなる。その間,不整脈まで起きた。何分か横になり,やっと気持ちが収まってきた。パニック障害といわれるものであろう。

 

 私は,大学生の時,2度同様のパニックに陥った。一度目は,1年生の時。夜に不整脈で目覚め,その後何分かに1回不整脈が起きるので,パニックになった。初めてだった。当時体育会系のテニス部に入って活動しており,冬にシーズンオフとなってしばらくしてからだった。活動的だった季節から,冬になって急に運動をしなくなったためではないかと思っている。翌日,慌てて実家に帰り,病院へ行った。しかし,特に知見はなかった。緊張で,心拍数がかなり高かったために,不整脈も出る暇がなかったのであろう。心電図に異常はなかった。

 もう1度は,3年生の時。やはり3日程テニスをきつくやった次の日,休みのときだった。どうも気分が晴れない。昼になったので,近くの食堂へ行って注文した。混んでいたせいかなかなか注文したものが来なかった。そのうち,スーッと気を失いそうになった。心臓が止まるような感じである。私は慌てて注文を取り消し,アパートに帰った。帰ってからも,同じ症状が続いた。仕方なく同じアパートの友人を呼び,病院に連れて行ってもらった。このときもまた,心電図に異常は現れなかった。

 

 当時,まだ精神的な病が,そういう資質を持った人だけでなく,普通の人にも起きるということの認識がなかった。当時の精神科は,やけによくしゃべる人や自殺未遂の人,精神薄弱の人が通う場所だった。精神障害というにはグレーな人がいることの認識や発達障害などという言葉はまだ普及していなかった。何はともあれ,上司に笑われて,その日は帰ったのである。

 

 その後勤めてから,何度か精神科を訪れた。しかし,問診や処方薬に効き目はなかった。ところが,ある雪の多かった冬に,ひどい精神障害に陥った。朝,車で出勤する。圧雪時は,例年の冬よりもはるかに混んだ。それは,その前の年からスパイクタイヤが禁止になり,スタッドレスタイヤで雪道を走らなければならなかったからである。スタッドレスタイヤの制動能力は,スパイクタイヤに比べ極端に低かった。したがって,道路は非常に滑りやすかった。普段は20分ほどで到着する勤務先に,1時間かかっても着かなかった。到着しても,緊張による疲れが酷く,1時間ほど休息しないと,仕事を始めることができない。

 そうしているうちに,朝起きるとすぐに緊張感に襲われ,一日中緊迫感が取れなくなってしまった。そこで慌てて,医者に駆け込んだのである。その結果,精神安定薬を処方され,以来,薬を止めることができなくなった。実はその薬によって,私の性格が,かなり変わった。そのことについては,また別の機会に述べたい。

 

 さて,それから何年かして,また,献血をすることになった。理由は,前回と同じである。今度は別の上司だった。10人の献血が必要とのことで,声がかかった。私は嫌だったが,世話になっている上司の願いでは,断るわけにいかない。同じように献血を頼まれた人たちのうち数人と,上司の車に乗って,目的地へ向かった。今回は,赤十字病院であった。広い天井の高い部屋に集められ,問診のようなものが始まった。ずいぶん古い建物だなぁ,などとぼんやりしていたら,私の番になった。机の向こうに座っていたのは,やせぎすの,細い目が吊り上がったナースだった。おばさんナースは言った。

 

「何か,既往症はありますか?」

「いえ,ありません」

「手術をしたことがありますか?」

「ないです」

「現在,薬を飲んでいますか?」

「… ええ,緊張を和らげるものを飲んでいます」

間髪を入れずに,ナースは言った。

「どうもありがとうございました」

 

ナースおばさんは,歯磨きセットを私の前に出した。

 

「…え?」

 

私は,とっさに意味が分からなかった。「おひきとりください」と言われて,あ,用事がないということか,と合点した。薬剤を常用しているものからは,献血を受けないということだ。そのようなことは,私は全く知らなかった。

 

 帰りの車の中で,「すみません役に立たなくて」と詫びた。「いいんだ,いいんだ,ありがと」と上司は言った。大変男気のある,優しい上司だった。私は,車の中で,とても居心地の悪い思いをしながら,家に向かった。

 

献血なんか,二度とするものか」

これまでのこと7 父のこと

 父の父,すなわち私の祖父は,満鉄に勤めていた。しかし,祖父は,父が生まれてすぐ,事故で亡くなった。祖母が一人で育てることになる。したがって,少年期は,かなり貧乏な生活を送った。祖母が働いている日中は,田舎の農家に預けられた。朝,祖母が,別れ際に小遣いとして50円を父に渡して,仕事に行くのだが,祖母がいなくなると,預けられた先の母親からとられてしまった。だからと言って,いじめられたわけではない。普通に可愛がってもらったようだ。成人後も,育ての親達との交流があったことからわかる。

 しかし祖母の収入では,父は高等小学校を出てすぐに働かなければならなかった。父の人格は,そのころまでに作られたものが大きいと思う。とにかく,自分でお金を稼いで,少しでも妻や子供に苦労をさせたくない,という気持ちが強かった。もし,祖父が生きていれば,旧制中学,更に旧制高校,大学へ入ることも夢ではなかったろう。そうすれば,全く違った人生だったに違いない。勿論,そうであったら,私はこの世にいなかった。

 

 父は,大正13年正月の生まれである。したがって,海軍に徴兵された時は,二十歳であった。呉で軍艦の操作法を学んでいたと聞く。父は,戦争の話は一切しなかった。一度だけ,戦争の様子を聞いたことがある。後学のため,と言ったら,「ほぅ」というような顔をして,少しだけ話してくれた。内容は以下のようなものであった。

 呉の軍港に配属されたときは,終戦も間近だった。明るいうちは,米軍の戦闘機が飛んできて,艦船に向けて盛んに射撃をしてきた。父は,駆逐艦の機関砲(と言ったかどうか定かではない。聞いた感じでは,機銃のようなイメージだった)を任されていた。機銃操者が倒れれば,倒れた操者を振り落として,操作を変わる。しかし,甲板も機銃の取手も,血のりでべったりである。鮮血は非常に滑る。甲板を走るのも大変だったし,機銃の取手が滑って,操作できない。片方の手をもう一方の手で,雑巾を握って水を絞り落とすように,手に付いた血を落として,機銃をつかんだ。

 これだけでも,壮絶である。これまで,そのような経験をしていることを全く感じなかったので,この話を聞いて,大変驚いた。聞いたのは,これ1回だけである。恐らく,よく耳にする,上官のしごきにもあっただろう。それでもよく,戦後,自衛官(当時,警察予備隊)になったものだと,これを書いていて思う。最後まで,体の姿勢がきちんとしていたのは,訓練のたまものだろう。

 

 召集の前と復員のあと,自衛官になるまで,父が何をしていたのか知らない。警察予備隊が発足した時に,すぐ試験を受けたようだ。自衛隊に入隊して,生活が安定した。母と結婚し,いくつかの駐屯地を回って,最後は実家の近くの駐屯地に落ち着いた。近くと言っても,約20kmあり,最初は朝早く電車で,そのうちバイクを使い,最後は自家用車で通った。朝早く目を覚まして,母が真っ暗な中,父の身支度から弁当の用意までして送り出すのを見ていた覚えがある。

 自衛隊は,幹部(少佐以上)以外50歳で定年であった。まだ若い。父は,損保会社に再就職した。再就職した時には,私は大学生で,実家を離れアパートに暮らしていた。したがって,母に聞いた話である。入社したての頃は,若い社員に顎で使われる感じがして,かなりのストレスだったそうである。嘱託も含め,65歳まで務めた。自賠責などをセールスして回ったようだ。会社を辞めた時,たまたま私が実家にいた。その時のお別れのあいさつで,毎年本社から賞をもらっていたことを話すと,支店長がびっくりしていたそうである。仕事はできる人だった。

 

 私が小さい頃の父の記憶は,微かに残っている程度である。それは,私が幼稚園に入る前後からである。日曜日には,私をいろいろ連れ出してくれたようだ。実家の祖父(祖母は再婚していた),祖母が遊びに来た時,海や公園などあちこちに行った覚えがある。関東や新潟にいる,母方の親せきを回って歩いた記憶もある。朝,卓袱台を囲んで,「明日から幼稚園だね」と言ったのを覚えている。

 電車に乗っていた時のことを,ぼんやりと記憶している。父と私は,立っていた。父は私に英語で1から10まで,教えてくれた。「ワン,ツー,…,テン!」嬉しくて私は,何度も叫んだ。そしてふと「11は何ていうの?」と父に聞いた。父は答えられなかった。周りの乗客は,笑っていた。ぼんやりした記憶である。間違っているかもしれない。

 白黒テレビを近所でいち早く買った。今の上皇の結婚パレードが行われたときである。当時,テレビは,まだ珍しかった。近所中の子供たちが,相撲を見に来たこともある。

 幼稚園前だったと思うが,ある日,夜中に目覚めた。周りを見ると,父も母もいない。小さな私は,怖くなって,泣き出した。そして,外に出て,泣きながら近所を歩き回った。ある家の前で,「あらら」と声がした。その家で,父母はそろって,マージャンをしていたのである。

 

 父は,子供が大好きだった。人とのかかわりも上手である。私も子供が好きだが,人付き合いは苦手だ。人と対峙すると,強い緊張感がある。父も,緊張しやすいタイプだったと思う。外出する時は,出発の前に必ずトイレに入った。しかし,人がいるところでは,大きな声で快活にしゃべった。実家は,細い路地に面した,込み入ったところである(いわゆる,昔の隣組状態である)。父は,隣近所の人を見ると,すかさずバカでかい声で,あいさつしていた。それが突然で,とても大きい声だから,私はしょっちゅうびっくりさせられた。相手も,オヤオヤ相変わらずと思っていたことであろう。

 したがって,小学校の頃までは,よく遊んでくれた。野球,キャッチボール,相撲,魚釣り,山菜取り,キャンプ,スキー,小旅行など,ことあるごとに色々な所へ連れて行ってくれた。私は,気の小さい子供だったので,疎ましいこともあったが,今は,感謝している。

 小学4年生,山にハイキングに行ったことを作文した時のことである。父に見せたら,何やらうんちくを垂れてから,おもむろに作文に手を入れ始めた。それまで,私にとって作文イコール日記であった。朝起きたところから始まり,時間通りにストーリーが進んでいくのである。それが,父の手にかかって,激変した。山の上から,山裾を走る電車を見下ろし,その走る音を聞くところから作文が始まるのであった。それが,担任の女先生に,みんなの前でほめられたのである。担任は,国語が専門であった。私は,自分が書いたものではないにもかかわらず,有頂天になった。その時から,私は作文が得意であるという,根拠のない自信を持った。人間とはわからないものである。小学生の時のきっかけは,その子の人生に大きな影響を与える。

 

 父は,80歳になって体調を崩した。めまいがするということだった。病院で検査をするが,しばらく原因が分からなかった。その後,リンパ節が腫れていたことから,悪性リンパ腫と診断された。通常悪性リンパ腫には,抗がん剤治療が行われる。かなり強い副作用で,患者は苦しむが,うまくいけば,寛解の確率が高い。しかし,父の場合は高齢であり,治療のために逆に命を縮める恐れがあった。したがって,父には,がん細胞を少し叩いたら,抗がん剤をしばらく休むという,柔らかい治療をすることにした。

 そのようなことから,父はよくなったり,悪くなったりを繰り返しながら,徐々に弱っていった。恰幅の良かった体が,やせ細ってずっと背が小さくなったように見えるのだった。一時退院した時は,私の家に住まい,母と一緒にディサービスに通った。母も,思うように体が動かず,一人で父の面倒を見ることは難しかったからである。私は,その時,父の住む街にはいなかった。したがって,父は,家を離れなければならなかった。それでも父は,持ち前の陽気さで,たちまち,集まりの場の人気者になった。

 そんな父も,ベッドから起き上がれない日が来た。酸素マスクをつけ,息苦しいそうであった。しかし,父のことであるから,常に弱音は吐かなかった。最期まで,凛としていたのである。最期は病院で,母と家内に看取られて亡くなった。自分で建てた家で,死なせてやりたかったと思う。私は親不孝者であるから,案の定,臨終に立ち会えなかった。私は,どうも人に対する愛情が薄い。両親が亡くなった時も,特に悲しくはなかった。逆に,葬式などあとのことを考えて,緊張を覚えるのであった。

 

 通夜の晩,私は父の棺桶の前にいた。私は…

 

 父のデスマスクを,一生懸命手帳にデッサンしていたのだった。何か突き動かされるように,一心不乱に…

 

 さらに,上さんに止めろと言われながら,棺桶の中の父の顔を写真に撮ったりした。信じられないことをしたものである。通夜の喪主のあいさつも,テンションが高かった。親戚一同のひんしゅくを買ったに違いない。しかし,私は,ちっとも意に介さなかったのである。困ったことに,私は,父が死んで,躁転したのだった。双極性疾患の軽躁状態のようになったのである。精神薬を常用していたためだったのではないかと思う。

 

 薬を飲むことで,私が私でなくなった。いや,それも私なのか。ただ,父が火葬によってこの世から消えてしまうのがとても残念で,遺体をいとおしく感じたのは確かである。それは,私にとって大きな救いだった。

これまでのこと6 祖父のこと

 私が生まれた時,すでに父方の祖父は他界していた。父が生まれて間もなく事故で亡くなったという。祖母は,ずいぶん苦労して父を育てた。その後,祖母は私の知っている祖父と一緒に暮らし,男子を一人生んでいる。二人は籍を入れていない。祖母が,姓が変わるのを嫌がったそうだ。それほど,亡くなった祖父が好きだった。

 私の知っている祖父は,唐傘職人だった。もちろん私がそれと分かるようになった時期には,もう引退していた。若い頃の写真を見ると,なかなかおしゃれな人である。しかし,私が覚えているのは,シャツにステテコ姿だ。おしゃれで多彩な趣味は,タネ違いの叔父に引き継がれている。祖父はタバコが好きで,キセルでよく吸っていた。また,夕飯前に,コップ一杯の焼酎を飲むのが楽しみだった。祖母のことを「ばさま」と呼んでいた。本来の性格はよく知らないが,子供には優しかった。私が悪さしても,文句は母に行くのであった。私の家族は,師走の30日に杵,臼を使って本格的な餅つきをするのが恒例行事であった。その日は朝早くから起き,高揚してそわそわしている祖父を覚えている。

 

父母と東北の太平洋側に住んでいた時,祖父が時々遊びに来て,泊まっていった。私の記憶は,幼稚園に入る前後である。祖父の住んでいる街は,山に囲まれた盆地だった。だから遊びに来たときは,海に行くことが多かった。よく行く海岸は,砂浜にきつい傾斜があった。あるとき,海岸の傾斜に負けて,私が海に落ちそうになった。祖父は慌てて私を抱えた。私は大声で「痛い,痛い」と叫んだ。祖父が掴んだ脇腹のあたりに出来物が出来ていたのである。当時,よく出来物が出来た。栄養不足のためだったのか。出来物が膿むため,母は膿を指で絞って出そうとする。これが強烈に痛かった。「ほれ,ほれ」と母は,ニュルリと出てくる膿を見て言うが,私は痛くて,それどころではなかった。

もっと穏やかな海岸では,祖父とカニや貝をとって遊んだ。波が洗う砂浜の,所々に穴があいている。そこに小枝を入れてやると,それが動く。中にカニが入っているのだ。外側から小枝に向かって砂を掘って行くと,カニがたまらず出てくるのである。また,海に入って,足先でツイストを踊る。すると,貝が足に当たるのを感じる。そこで,足を動かさないようにして,手を入れて足の下の砂の中にいる貝を掴み取るのである。大きな蛤が取れた。私は幼稚園前で背が小さいので,手を入れるとあごのところまで海水面が来る。そこで,時々大きな波が来ると,顔が水につかり,足が動いてしまって,どこに貝がいたのか分からなくなるのであった。

 

 祖父は,唐傘職人であった。祖父と祖母の住んでいた平屋の古い家には,梁に売れ残った唐傘がぶら下げてあった。私が物心つく頃には,すでに廃業し,唐傘を作るときに使う器具や機械はすべて,奥の物置に押し込められていた。父は,戦後すぐのまだ職がないころ,唐傘作りを手伝ったと言っていた。職人気質で,気に入らない仕事はしない,金が入ったら,仕事をしない。そんなことで,祖母はいつもお金に困っていたようだ。父が独り立ちしてから,祖父は引退した。その後,父は,実家に帰って来た。祖父達は,祖母の親戚が買ってくれた平屋の家に住んでいた。その家の裏は広い庭になっており,父はその庭に,新しい家を建てた。祖父と祖母は,古い平屋にそのまま居て,明るいときだけ新しい家で過ごした。

食べるのに困らなくなった祖父は,小遣い稼ぎにアルバイトをしていた。トタン屋根に,真っ黒なコールタールを塗る仕事である。真夏のカンカン照りの日が,絶好の塗装日和なのであった。麦わら帽子をかぶり,お決まりのステテコ姿で,黙々とタールを塗っていく。現代人なら,熱射病ですぐ倒れたであろう。

 

 祖父は,釣りが好きだった。住居が内陸にあり,四方を山に囲まれているので,釣りに行くのは,主に沼であった。なぜか,清流釣りはしなかった。朝早く,渡世人のような日傘をかぶり,釣り道具を付けた自転車をこいで,釣りに行くのである。フナやコイ,ナマズなどを釣ってきた。釣り道具は,作れるものはすべて手作りである。唐傘職人だったこともあって,手先はたいそう器用であった。ごく稀に,父と私とともに,車で遠方の沼に行くこともあった。また,山菜取りも好きであった。こちらは,かなり距離がある場所が中心なので,父と一緒であった。蕨や笹竹の子,フキやミズ,フキノトウ,ぜんまい,たらの芽など多種多様であった。祖父は,そのうち,キノコにはまりだした。趣味が高じて,本格的に本を買ってきて研究しだした。そうしていると,近所の人たちが,採って来たキノコが食べられるものか,聞きに来るようになった。

 

 手先が器用で,いろいろな大工道具を持っていたから大変である。何故なら,小,中学生の私の工作を見ると,黙っていられないのである。私は,1センチくらいの厚さの板に,直径10センチくらいの,丸い穴をあけようと苦戦していた。そのとき,祖父がさっとやって来て,道具を出す。コンパスのような恰好をして,コンバスなら鉛筆を挟む部分に,先端が鋭い刃が挟まっている道具である。軸を円の中心に置き,刃の部分をぐりぐりと回すと,見事な真円の穴が開くのである。しかし,これは学校で顰蹙を買った。皆苦労して糸鋸で穴を空けて来るのであるから,きれいに出来るはずがない。私の作品を見て,親に手伝ってもらっただろうと,盛んに揶揄されるのであった。したがって,どんなに上手に出来ても,祖父に手伝ってもらうのは,誠に嫌であった。

 

 祖父は,晩飯の前にコップ一杯の焼酎を飲む。その時,私はよく祖父と五目並べをやった。祖父の話では,将棋も指したことがあるが,相手に八百長(と祖父は言っていた)されてから,一切やらなくなった。囲碁はできないが,五目並べならばうまい,と言って私に教えた。毎晩やっているうちに,小学校も高学年になると,私の方がもっぱら勝つようになった。

 

 私は高校一年生で,期末試験が半ばを迎えた土曜日だった。その日の試験が終わって,昼すぎに帰宅した。次週の試験科目の準備には,少し余裕があった。そこで,帰り際に貸本屋によって,気晴らしに漫画を借りた。小春日和の気持ちのいい日だった。家に着くと,玄関にやけに靴が並んでいる。町内会でもやっているのかなどと,暢気に構えて家に入った。

 

 「ただいま」と玄関に入ると,なかなか騒々しい。何だろうと思っていると,母が奥の部屋から出てきた。私は驚いた。母が,泣いているのである。「じいちゃんが死んだの」と言う。私は,言っていることが呑み込めなかった。昨日まで,いや今朝まで普通に元気だったのだ。心不全だった。長く吸っていたたばこが原因だったのではないかと,私は思っている。1階は,8畳の茶の間と隣り合った6畳の居間を仕切っているふすまを抜いて,大部屋にしてあった。どちらの畳の部屋である。当時の一般の日本家屋は,大人数に対応できるようにしてあった。冠婚葬祭で親類縁者や隣近所が集まってくるからだ。近所のおばさんたちが,忙しく立ち回っていた。当時は,町内(隣組?)で,祝い事や葬祭のための盆や茶わんその他食事に必要なものを,それぞれ手分けして持っていた。隣組で冠婚葬祭があると,みんなそれを持ち寄り,旅館のような様相を呈してくるのである。

 

私は,学生服のまま,座敷に上がり,中を見た。布団が一床敷いてあった。布団には誰かが入っている。顔を白い顔隠しが覆っている。私は亡骸の横にある座布団に座った。しかし,何をしていいかわからない。顔隠しをとるという発想がなかった。緊張して,じっと座っていたが,その後どうしたか記憶にない。

 

私は,内向的で知り合いに挨拶することができなかった。私の「意識」が独り歩きし,天井から,座敷を眺めている。僕がぎこちなく遺体の横に座っており,近所のおばさんたちが忙しく立ち回り,祖父の息子(叔父)や友人が悲しんで,思い出話をしているのを,天井からじっと見つめているのだった。

 

当然,その後の期末試験は散々だった。

これまでのこと5 母のこと

 母は,日本海側の海岸に近い雪国の出身である。言葉は,京風だった。父は,東北の内陸に住んでいて,生粋の東北弁である。母は,嫁いできてから大分経って,会話のアクセントは東北なまりになった。しかし,発音は京風のままだった。いわゆる「なまる」ことができなかった。

 

 私の父は自衛官だった。私は北海道のある町で生まれた。そこに自衛隊の駐屯地があり,父が赴任していたからである。私を生んだとき,母は28歳であった。母は悪阻(つわり)が酷く,生まれるまで自分の実家の妹に手伝いに来てもらった。また,乳の出が悪く,医者が,がりがりに痩せた私を見てミルクを飲ませるように言った。しかし,私は哺乳瓶についたゴムの乳首が嫌で,なかなか飲まなかったと聞いている。まるっと禿げ上がった赤ん坊のころの写真が残っていたが,今はもうない。母親と,小学校のシーソーに乗っている写真も覚えている。

 

 北海道は1年で転居した。東北の太平洋側の駐屯地そばに住んだ。2軒長屋が平行に2つあり,4家族が住んでいた。3歳くらいまでは,記憶がない。写真をいくつか覚えている。ニッカポッカのようなズボンをはいて立っているもの。まだよだれかけをかけて,猫の首をつかんで笑っているもの。花見に行った時に母と父と一緒に撮ったもの(父は制服だった)。3枚しか覚えていない。

 

 何歳のときかわからないが忘れられない記憶がある。私は,車が回る,大きめの自動車のおもちゃ(木製?)の前面にひもを付けて,引きずって歩いている。石ころがごろごろしている土の道路だ。しばらく歩くと駐屯地と住宅地の境にある堤防に上がる。堤防の上を,また,たらたらと歩いた。夕方になって,家に帰ると,母にえらく叱られた。自動車の前輪の一つが取れてなくなっていたのである。私は,探して来いと言われ,さっきまで歩いてきた道を,自動車の車が落ちていないか見まわしながら,とぼとぼと歩いた。夕日が強く印象に残っている。車は見つからなかった。その後どうしたかはまったく記憶にない。

 

 ちょっと外へ出ると,一面田んぼだった。母とイナゴを取りに行ったのを覚えている。いなごの佃煮を作るのである。当時,田んぼには,鳥よけのビニールのテープが長く張りめくらされていた。5ミリ幅で,片面は赤,もう一方の面は白い。風になびいて,きらきらするのが,鳥よけに効果的だったのだろう。ベルトの無くなった,腕時計のおもちゃがあった。母は,そのテープを適当な長さに切って,お手製のベルトを付けてくれたのを覚えている。また,赤とんぼがたくさん飛んだ。それを採ってきて乾燥させ,粉状にした。そして,のどの痛みに効くと言ってその乾燥トンボを飲まされた。私は,風邪を引くとすぐ,扁桃腺が腫れるのであった。

 

 当時,昭和30年代,まだ「おこもさん」がいてよく家に来た。乞食である。ある日,母と私の二人だけで家にいた日,「おこもさん」が戸をたたいた。母は,急いで私とトイレの前に隠れた。戸は鍵がかかっていた。外で「おこもさん」が叫んでいた。「いるのはわかってんだ。居留守使ってるべ?!」母は,私の顔を見てニコッと笑った。

 

 母は洋裁が好きだった。機械編みを習いに行き,自分で私のセータなどを編んでくれた。私も編み物教室について行った。砂利道を,一緒に手をつないで歩いて帰る場面を覚えている。毛糸を機械編みする際,編み終わった毛糸が機械から垂れ下がって来る。その編み終わった毛糸は,自然に縮んで,編み機の邪魔になる。また,編み上りがよくわからない。そのため,縮んだ毛糸生地の部分を複数の重りで下に引っ張り,ぴんと張る。その重りが,3×3×5cmの直方体の金属で,端に毛糸にぶら下げるための金属の手がついている。重りの部分はごつごつしていて黒い金属,熊手のような手の部分は,銀色に光っている。金属は恐らく鉄が使われていたと考える。それがずっしり重く,自動車に見えなくもなかったので,私は何個か使ってよく一人遊びをした。

 

 バナナを買ってもらって,なめながら食べたのを覚えている。私が,水疱瘡にかかったからである。当時,バナナはたいそう高価であった。私は,かじって食べるのがあまりにも惜しく,いつまでもなめていたのである。夏であった。縁側が開け放ってあり,外を通りかかった近所の女の子に,「あ,バナナ食べてる」と指をさされた記憶がある。

 

 母の郷里には,何度か行ったことがある。母方の祖父は,藍染め職人であった。古いかやぶきの平屋で,かなり大きい。私が小さかったから,大きく感じたのかもしれない。天井は,驚くほど高かった。大きな太い梁が,そのまま見える。家には,猫が居ついていた。猫は,いつも祖父の膝の上でのんびりしていた。大きな囲炉裏があり,そこで食事をするのである。食事が終わると,祖父は茶碗にお湯を入れ,口をゆすぐ。そして,そのままガラガラとうがいをする。そのとき,私はびっくりした。祖父は,それをごくんと飲み込んだのだ。

 

 

 町の病院の,緊急処置室。入院設備のある小さなビル。今,目の前のベッドで,母が臨終を迎えている。母はそのとき82歳だった。しかし,むくみでふっくらしており,もっと若く見えた。血圧は大きく下がり,心拍も遅い。私は,ベッドの横で佇んでいる。状況が,現実として呑み込めていない。不安感はあるが,浮ついた感覚である。何をしていいかわからない。特に,医者,看護師,家内の目が気になる。

 

 私は,このままではおかしい,何かするべきだとうっすら考えた。そして,母の肩に手をやり,軽くたたきながら,がんばってと心でつぶやき,母の顔を見つめていた。しばらくして,血圧が急に下がりだした。そして,心停止。顔がすっと土色に変わった。医者と看護師が「○○さん,がんばって」と蘇生を試みるが,もうびくとも動かなかった。私は,それをただ見つめているだけだった。

 

 私は,早速,職場へ電話するためにスマホをポケットから取り出した。忌引きをとるためだ。そう,僕は親不孝な「変な」やつなのだ。

これまでのこと4 勉君(小学校)

 私の通う小学校のそばに日本庭園があった。昭和40年前後である。庭園は正方形で,高さ1.5メートルくらいのカラタチの垣根で周囲をおおわれていた。入口から敷地に入ると,砂利を敷き詰めた30坪ほどの庭があり,正面に,お稽古事やサークル活動に利用される木造平屋の日本家屋があった。広い和室や茶室がある.庭の左手がかなり広い日本庭園の入り口になっている。公園の一辺は,60~70mで,ほぼ正方形の日本庭園である。中央に湧水から水を引いて作った(と思う)大きな池,左手にその池から水が流入するように作られた小さな細長い池があった。池の周囲は直径50センチほどの上が平らな自然の石で囲われていた。入り口を正方形の右下隅とすると,対角線の角から左下隅にかけて2~3メートル小高くなっており,大きな池と小さな池の間付近は大きな岩で崖のように造園されている。そして,崖から降りたところが池の間の水路になっていた。水路付近には,古い松が植えられており,折れ曲がって,小さな池の上に枝が覆いかぶさっている。枝は,枝折れ防止用の支柱で支えられていた。

 当時のその日本庭園は,小さい子から小学生まで,近所の子供たちの格好の遊び場だった。トンボやセミ、蝶など様々な昆虫がいる.大きな池があるのでフナ,コイなどの魚、ヤゴや水生昆虫がいる。カラタチの垣根があるのでアゲハの幼虫がいる。ザリガニ,タニシなど,とにかく子供が大好きな生きものがそろっている。様々な種類の落葉樹が生い茂り,かくれんぼ,鬼ごっこ,“だるまさんがころんだ”などやり放題だ。放課後小学生が三々五々集まってくる。一方では魚釣り,一方ではザリガニ取り,方や鬼ごっこやかくれんぼ。また,水中をすくう網(潮干狩りで使う柄のついた網のようなもの)で,池の底の泥ごとすくい取り,池をかこっている石の上に泥をまき散らし,ヤゴやゲンゴロウ,小魚がいないか,その泥をかき混ぜる。池の周囲のほとんどの石は,泥で真っ黒になり,次の日は乾いて真っ白になった。庭は子供たちと共に生きていた。

 今は,きちんと清掃され,木々も剪定され,魚釣りなどしようものなら,管理人がすごい形相で飛んでくる。生命感のない箱庭になってしまった。

 

 小学校の低学年のとき,田中務君という同級生とよく遊んだ。優しい,いい子だった。彼は,家族と金物屋の裏の貸家に住んでいた。そこは,私の家と近かった。父親が音楽教師で,本人もチェロを習っていた。当時,田舎の街では,大変珍しい。

 

 私は,一人っ子で,わがままだった。一方、非常に憶病で、相手が強ければ服従し,弱ければ居丈高になった。年上や大人が苦手で,目を合わせることができなかった。大人から見ると,まことに可愛げのない,嫌な子供だったろう。勉君は,相手に合わせてくれる性格だった。したがって,二人で遊ぶときは私がすべて指図する格好になった。

 

 勉君とは,先述の日本庭園でよく遊んだ。もちろん勉君の他にも同級生などが一緒だった。あるときは,思い思いに宝物を持ち寄って,庭園のあまり人の寄ってこない場所に埋めた。そして,宝の地図と称して,なぞなぞの形で,その場所を探し当てる巻物を作った。

 

 家では,こたつを横にし,こたつかけを上からかぶせて,中に入り,戦車ごっこをしたのを覚えている。真っ暗な中で,運転や砲弾を打つ真似事をするのは,なかなか面白かった。私が指示を出し,勉君は,敵情視察に行かされたり,撃たれて怪我人になったりした。子供たちは,今も昔も自分たちで遊びを作る。

 

 テレビはほとんどの家にあり,少年少女漫画雑誌も週刊誌,月刊誌共に大量に出版され,プラモデルなども流行っていた。しかし,私の記憶に鮮明に残っているのは,外で遊んだ記憶ばかりである。同級生や,近所の上下クラスの小学生,また,中学生のお兄ちゃんたちと野球をしたり,庭園で遊んだり,近くの山へ虫取りに出かけたり,家の前の舗装されていない小路で遊んだ。仲よく遊ぶだけではない。意地悪をしたり,されたりした。

 

 勉君とは,4年生からクラスが変わり,そのまま遊ばなくなった。勉君が地元の新聞に載ったのは5年生の時だ。アメリカの男子留学生が,教生(近所の大学からの教育実習生かと思うが,なぜ外国人がいたのか記憶がない)として学校に来ていた。新聞の写真は,勉君を中心にして,彼が自分の学帽を,かがんだ留学生の頭にちょこんと乗せている場面を撮ったものだった。周囲を同級生がたくさん囲んでいる。みんな笑顔だ。私はそれを見て,うらやましく,また妬ましく思ったものだ。

 

 ある日,二人で自転車に乗って遊んだ帰りに,勉君の家に寄ることがあった。金物屋に向かって左手側に路地がある。そこを入って突き当たったところが勉君の家であった。借家までの狭い路地を,自転車を押しながら入っていった。金物屋のすぐ裏手に借家がある。通路から見ると,手前に庭が広がっていた。そして,家の左端から,ちょうど狭い通路にかかるように,盆栽の棚が置いてあった。3段ほどあったように思う。通路からの出口を少し塞いでいる。正面に見える縁側に,勉君の父親と祖母らしい人物が見える。私はそれを見て緊張した。勉君が先に通路から出た。それを追って,私が自転車を体の左側にして出た。

 

その時,

 

「こらぁ!」

 

急に父親と思しき男性に怒鳴られた。私は,最初何が起きたのか分からなかった。後ろを見ると,棚から何かが落ちていた。盆栽の鉢の一つが落ちたのだ。どうも,自転車のスタンドが鉢に引っ掛かって落ちたらしい。私の頭は真っ白になった。声だけがエコーのように聞こえる。どういう教育をしているんだ。親の顔が見たいわ。いいんだ,いいんだ,心配すねで(おばあちゃんの声)。いいんだ,いいんだ(勉君の声)。私は,下を向いたまま,硬直した。人の声だけが聞こえてくるが,頭の中は真っ白だ。

 私だけが,暗闇の中に浮いている。自転車にしっかりつかまり,下を向いて黙っている。父親の声だけが聞こえる。どんな教育をしているんだ。謝ることもできないのか。

 

 その後,どうやってその場を抜け出したのか,私にはまったく記憶にない。

これまでのこと3 転園(幼稚園)

 今回は,私が幼稚園時代の話である。いかんせん記憶の曖昧な部分があるので,時系列など内容に過誤があるかもしれない。その点は,ご容赦願いたい。私は,幼稚園の2年目,すなわち6歳で転園した。父が転勤で,その実家に住むことになったからである。

 

 私は5歳で,田舎の幼稚園に入った。そこは,海に近かった。園舎は,神社の敷地の中である。その神社の神主が園長をしていた。60年も前であるが,この園は今日まだ存続している。ただ,場所が変わっている。私が入園した頃は,園舎は,社殿の広い前庭にあった。それは,神社に向かって左手にあり,社務所と棟続きになっていた。園舎の反対側には,ブランコや滑り台などの遊具があって,私たちは,社殿前の広い庭で遊んだ。ときには,社殿の裏,山手側に回って遊ぶこともあった。社殿裏山は竹林である。もちろん怒られたに違いない。現在,園舎は境内の外にある。当時の先生は,おばあさんと中年の女性の2人だった。

 

 私の家のそばには,何kmにも渡る長い堀がある。それは,あたかも川のようであった。運河は,荷物を港まで運ぶために作られた。江戸時代から明治初期にかけて,海岸線に沿って所々に作られたが,明治中期にそれらが一続きにされた。幅は15mほど(現在の資料による)だが,その当時,実際に運河として使われていたかどうかはわからない。これが,大潮のときに台風が近づいたりすると,すぐに氾濫するのである。水浸しの家の前で,長靴を履き,三輪車をこいでいたことを覚えている。三輪車の車輪半分くらいが水につかった。

 家を出るとすぐに,堀に沿って走る道路に出る。その道路を右手に向かい,少し歩くと,木製の橋がある。住民の便のために架けられた,小さなものである。もう2~300m歩くと,バスも走る大きな道路と繋がっている立派な橋がある。木の橋に行く途中,右手に魚粉を使った肥料工場がある。そこは,ひどい匂いを発していた。臭いなぁと思いながら歩いた記憶がある。橋の欄干の隙間は広く,子供が余裕で抜けることができた。また,床には,砂利の混じった土が盛ってある。中央が盛り上がり,欄干側に低くなっている。それが私にはたいそう怖く,堀に落ちないように,真ん中を歩くようにした。ある日,終業(というのが幼稚園にあるのかどうか知らないが)のとき,周りの園児が騒いでいた。しかし,なぜか私だけ座って大人しくしていた。理由など分からない。「送辞などを読まされた」と母から聞いているので,早熟な変わり者だったのだろう。園の先生がそれを見て,私だけ早く帰ってよいと言った。私は一人で,家までの道を歩いて帰った。途中,橋を渡る。いい天気だった。ひょいと堀を見ると,ひょろ長いウナギのような魚が,緑色の水面に浮かびあがり,息を吐いて(吸って?)また潜っていった。それが妙に生々しく記憶に残っている。橋については,この場面以外に覚えていない。何度も渡ったはずだが,不思議なものである。

 

 母に「怪傑ハリマオ」の格好にしてもらった。頭にターバン(母のネッカチーフ?スカーフ?)を巻き,サングラスをしている。手にはおもちゃのピストル。今でいうコスプレである。大いに気に入った私は,颯爽と家の外へ出て,長屋を一周した。したかった。しかし,家の裏手を歩いている時に,向こうから近所のお兄ちゃんが歩いてきた。私は,恥ずかしさのあまり慌ててサングラスとターバンをむしり取った。恥ずかしさといったが,そのときの感情がどういうものか,理解してはいなかった。5歳の子供が,照れを感じたのだとしたら,早熟だったからだろう。そのまま家に帰ったが,母は,たいへん不機嫌になった。私が外に出て,すぐ帰ってきたと思ったらターバンやサングラスを取ってしまっていたからである。ターバンを巻くのに,結構苦労したのだ。その時のコスプレ写真が残っている。察するに,休日で父も家にいたのであろう。写真を撮るのはもっぱら父であった。しかし,私には,母とのやり取りしか記憶に残っていない。

 

 さてこのような毎日であったが,園内で遊んでいたのだから園友とそれなりに仲良くしていたのであろう。というのも,一緒に通園した子供たち以外に顔がほとんど思い浮かばないのである。いわゆる,友人という認識が全く記憶にないのだ。幼いからと言ってしまえばそれまでだが,この後転園してからの周囲の園児への強烈な意識と対照的である。

 

 そして私は,1年その園にいて,翌年4月に父の実家のそばの幼稚園に転園した。そこも神社の神主が園長をしている幼稚園だった。ただ,市街地にあり,神社も幼稚園も,3倍ほど規模が大きい。

 

 まず,最初の衝撃は,先生以外だれ一人近寄ってこないことだった。話しかけてくる園児が一人もいない。私は,まったく園児たちと話をすることなく一日を終える。私の6年の生涯で,これは初めての出来事だった。さみしいとか孤独だとかではなく,強烈な衝撃を受けたのだ。同じ年の子がたくさんいるのに,話しかけるどころか,目を合わせることもしない。動く風景の中に,私一人がぽつんといる感じだった。私は,1年経たずにその園をやめるのだが,その間,他の園児と日常会話をした記憶が全くない。

 

 実は,見て見ぬふりをしていたのだ。それもまた,私には大きな衝撃だった。1㎞ほど歩いたところに教会がある。その教会の隣にかなり広い空き地があった。手入れをしていない公園だったのかもしれないが,覚えていない。ある日,私のクラス全員で,その空き地に虫取りに行った。草がぼうぼうと生えている土地(私有地ではないので公園だったのかと思う)で,パッタの類を素手でとろうというのである。虫かごは持っていた。園児たちは仲良しグループで,空き地に散った。私は勿論,一人である。なかなか見つかるものではないが,暫くして,大きなコオロギを見つけた。急いで手でつかんで虫かごに入れようとしたその時である。さっと数人の男児が私を囲んだ。「○○ちゃん(女の子)は,まだ一匹もとれていないんだ。○○ちゃんにそれをやれ」と脅された。僕も一匹もとれていないんだと言うより先に,コオロギをむしり取られた。私は何が起きたのかよくわからず呆然と立っていた。その時の感情は表現できない。その後,再度バッタを探したがとうとう見つからなかった。家に帰ると,一匹も見つからなかったと強がって見せた。

 

 ある日,全員が工作をすることになった。車輪や様々な形の木片を思い思いに使って,釘で打ち付けて作る(と思うが,金槌を使った記憶がない。接着だったのか?)。木工工作の真似事のような時間である。私は,小さな自動車を作った。完成して,ほっと一息ついたとき,トイレに行きたくなった。作ったものをその辺に置いていくのは危ない。そこで工作机(こんなものが教室にあったか怪しいが)の下に隠していくことにした。トイレから戻って,机の下を覗くと,無い。自動車が忽然と消えている。慌てて周囲を探し回るが,見当たらない。私は途方に暮れた。一緒に探してくれる友達もいない。残っている材料は,薄っぺらい,細長い木片だけだ。仕方がないので,木片を集め,胴体,翼,尾翼にして飛行機らしい形にした。今思えば,私の工作物を分解して部品として使うとは考えにくい。何故なら,皆ほとんど工作物を完成させていたからである。また,分解されたとしても,その残骸すら見当たらなかったのは不思議だ。恐らく,だれか(達?)が隠したものと考える。意地悪をされたのである。

 

 それからしばらくして,保護者参観があった。両親が,そろってやって来た。日曜日だったのだろう。覚えているのは,木工作品が飾られている様子だ。廊下に机が並べてあり,その上に,所狭しと作品が置いてあった。作品には,短冊が貼ってある。それには,題名と作製者の名前が書いてあった。父は目ざとく私の作品を見つけ,おやっという顔をして言った。

 

 「なんだ,お前のだけみすぼらしいなぁ」

 

私はその場面を,そして父の言葉を60年経った今も忘れることができない。その日は,やけにいい天気だった。

これまでのこと2 池田さん(社会人)

 私は40歳半ばで,別の会社に移った。前の会社では,年齢構成から昇任が見込めなかったからである。新しい会社で,私は製品試験部に配属された。そこで,池田さんという古参の上司と一緒に仕事をすることになった。池田さんは,会社創業時から在籍しており,定年を間近に控えていた。小柄だが元気いっぱいで,優しい人だった。私は,緊張しやすい性格なので,それは大変ありがたかった。しかし,困ったこともあった。製品試験部には,いくつか実験室がある。池田さんと使うことになった実験室は,主に池田さんが使っていた最も古いものだった。実験室のガラス戸の戸棚には,測定機器がしまってあった。しかし,それらは古く,現在の仕様に耐えるものではなかった。また,それ以外の,中の見えない棚には,何が入っているか全くわからない。さらに,棚の空いている部分には,所狭しと,池田さんお手製のものが大量に,無造作に置いてあった。それらはいったい何に使うのか,ほとんどわからなかった。当面使うものは,池田さんに聞いて何とか確保した。また,必要最低限の測定器は新しく購入してもらった。それ以外のものは,聞くのも面倒なのでそのままにしたが,池田さんが会社を辞めた後,片付けることを考えるとぞっとした。

 

 実験室の件を除けば,私と池田さんの関係は良好だった。池田さんは,役員会の仕事の合間を見ては,私の話を聞いてくれた。時間があれば,お茶を飲み,世間話をした。ある日,私がskypeで,前の会社の同僚で,入社したての若い女性とこっそりビデオ通話をしているとき,池田さんが,いつの間にか隣にいて,話を聞いていた。

「ほう,結構よく映るんだね」

「あ,驚いた。池田さん,す,すみません」

「このカメラで,あなたを写しているの?」

 当時は,ノートパソコンにカメラは搭載されておらず,Wi-Fiもなかった時代である。有線で情報コンセントとデスクトップパソコンをつなぎ,モニタにウェブカメラを接続して使っていた。池田さんは好奇心旺盛で,私からヘッドセットを奪い取ると早速画面に話しかけた。

「○○会社の方?私は,株式会社××の池田と申します。…ええ,ええ,なにもかまいませんよ。彼はうちの会社のことは,まだ何も知りませんから」

 池田さんは,相手が若い女性だとわかると,私にウインクして,小指を立てた。

「い,いや違います。ただの,かつての同僚です」

 私は,慌てて否定した。その後,3人の会話は,大いに弾んだ。

 

 その会話の中で,思わぬことを聞いた。池田さんは,早期の胃がんで手術をしていた。その後4年ほどたっており,定期的に検査を受けているということだった。普段の池田さんは,とても元気で,そんな風には全く見えなかったので,私は大変驚いた。

 

 私は生来,人と話をするのが苦手だった。特に話題がなくなり,会話が途切れる瞬間がたまらなく嫌だった。人間はリラックスしているときに頭が回転する。緊張していると,次の話題が全く思い浮かばない。しかし一方,相手に失礼なことや,相手の欠点を平気で言う一面もあった。何故なのか不思議だった。人一倍,他人によく思われたいくせに。緊張で,相手の気持ちをおしはかる機能がマヒしてしまうのだろうか?それとも,ぼろぼろの自尊心を,そんな方法でしか維持できなかったのだろうか?

 

 また,私は,朝礼で話が出ること以外は,会社の内情を全く知らなかった。つまり,会社の中の人同士のかかわり,確執といった表に出ないことに無知だった。それは,人とこまめにかかわることがなかったからである。一般の冠婚葬祭やあいさつ,言うべきこと,言うべきでないことといった事についても同様であった。

 

 入社してしばらくしてから,池田さんが,時々休むようになった。私は,心配になって,どうしたのか本人に話を聞いた。話を聞いて驚いた。あまり具合がよくないので,手術をした病院で検査を受けたが,異常は見つからなかった。しかし,いつまでたっても,よくならないので,思い切って,別の総合病院で診てもらったところ,胃を切除して縫合したところに,新たながんが見つかった,という。この後しばらく入院し,抗がん剤治療を受ける予定だと話した。その後,池田さんは入退院を繰り返すことになる。体調が悪くても,池田さんの責任感は人一倍だった。池田さんは,あるセミナーの幹事をしていた。自ら会議場を予約し,懇親会場として温泉旅館を手配した。そして,池田さんは自分の車に私を乗せて会場の下見をした。旅館から入浴券をもらったので,私に入って行けという。断ったが,強く勧められて,一人で温泉につかった。温泉からでて,ロビーに来ると,池田さんが,一人ポツンと座っていた。私は,申し訳ない気持ちでいっぱいになった。セミナー当日,池田さんは,開会のあいさつをしたが,それに続く会議には参加できなかった。私は,2階の会議室から,辛そうに車に乗り,帰っていく池田さんを見送った。その後,池田さんは,全く会社へ来なくなった。

 

 そうしたある日,たまたま体調が良いからと言って,池田さんが出社してきた。私は,急いで池田さんの部屋に行った。池田さんは,ひどくやせていた。病気の具合を聞き,最近の会社の様子などを説明し,池田さんがいないと,いろいろ困ることが多いことを話した。そのうち,池田さん出社のうわさを聞きつけて,役員や同僚の人たちが,4~5人一緒に池田さんの部屋に駆け付けた。「大丈夫ですよ。今の薬はよく効くから。」「副作用がきついかもしれないけど,安心ですよ。」「すぐ元気になりますって。」皆それぞれに,池田さんを元気づけた。私も池田さんの体がとても心配だったが,それに加えて,池田さんがいなくなれば,自分一人で実験室の整理をするのは途方もないことのように思えた。みんながそれぞれ,最後にもう一度激励の言葉をかけ,部屋から出ていこうとしたとき,私は心から,力強く言い放ったのだった。

 

 

「池田さん,死んじゃだめですよ」

 

 

 部屋中が一瞬で凍り付き,みな足を止めて,一斉に私を見た。池田さん本人も,戸惑った表情を見せた。私の頭は,真っ白になった。

 

 それから間もなく,池田さんは,奥様と娘さんに看取られて自宅で亡くなった。

    (これは事実をもとにしたフィクションです。登場人物の名前は仮名です。)