SENSAIまさの備忘録

繊細気質まさの過去を振り返る

これまでのこと14 工学博士とB先生 Ⅳ

これまでのこと13からのつづき…

 

 その後,機会があればA大学に寄って,B先生とお話しさせてもらった。難しい問題もまだ残っていたのである。B先生に教えを乞うていた初期の頃,研究室は,会社の人や高専の先生,大学院博士課程の学生などたくさんの人で大賑わいであった。しかし,私が博士号をもらった頃から,様子が変わっていった。B先生が教授とけんかをしたという。教授が別のテーマをやるように言ったが,先生は拒否したらしい。先生いわく「や―,教授から,お前は最低の助教授だと言われたからねー」

また,博士課程の男子学生が一人いた。彼は,最初の頃,B先生の手法で研究し,論文も出していた。それが,B先生が教授とぎくしゃくし出した辺りから,手のひらを返したように,別の手法で勝手に解析を始めた。それは,世界でトレンドになっていた手法であった。彼は,B先生とコンタクトすらしなくなったという。その後,博士課程を中退して,助手になったが,博士論文を出すことができなかった。結局,B先生の計らいで,先生の手法でやった過去の論文を集めて,博士号を得た。情けない奴だと思う。笑止千万である。

 その後,B先生は不遇をかこった。教授は,定年前に病気で亡くなったが,B先生を教授に推す声は聞こえず,別の教授の下についた。そして結局,助教授のまま定年を迎えた。私は,定年前に何度かB先生のもとを訪れた。この頃は,片隅の先生の小部屋で近況報告をするだけだった。そこは悲しいほどに,ひっそりとしていた。時折,思い出したように修士課程の学生が訪ねて来た。あとは誰ともコンタクトがないように見えた。

 

 B先生が定年後,教え子で一番若いN君が,先生を囲んでの謝恩会,懇親会を開いた。B先生が用事で東京に来るというので,東京に集まったのである。教え子は在京の人が多いので,都合がよかった。6~7人が集まり,現況報告など,話に花が咲いた。また,N君が先生の論文をまとめて,製本しハードカバーの冊子にしていることを報告した。実は,この集まりのかなり前からそういう話をしていた。しかし,論文別刷りをそのまま製本して多数製作するのは著作権上問題があり,滞っていた。普通,著作権は,掲載された雑誌や学会にあった。そこで,すべてをコピーし,私的利用ということで,先生に1冊だけ進呈することになった。その後,宴会が始まった。B先生に対する理不尽な扱いを憤慨し,全員ぐでんぐでんに酔うほど飲んだ。私も酩酊状態でホテルに帰った。

 

 

 それから数年後,その連絡は突然だった。

 

「B先生がお亡くなりになりました。すでに,通夜,葬儀は執り行われました」

 

死因は心筋梗塞である。70歳の若さ,定年からわずか5年後のことであった。直前まで,毎日欠かさず犬の散歩をやっていた。それも,健脚のB先生のことである,1度散歩に出ると2時間も帰ってこなかった。予期しない急逝で,家族も最初は,信じられなかったと聞く。急いで手紙を添えて香典を送った。お返しは不要と書いたが,奥様から丁寧な返事とお返しが送られてきた。

 B先生のお宅にお参りに行きたかったが,なかなか時間が取れなかった。2年ほどたって,ようやく行くことができた。奥様に連絡して,家に伺った。奥様は,年の差がある幼馴染と聞いていた。小柄で痩せた方である。私は,位牌の前で「先生,遅くなりました。やっと来ることができました」と大きな声で言った。それを聞いて,奥様は感激したらしい。

そのあと,奥様と直接話をした。前日まで至って元気であったという。奥様は,娘さんのことで東京に出かけた。その日の夜,先生は体調が悪くなり,自分で救急車を呼んだ。そしてそのまま玄関で倒れていたそうだ。保険証や財布などを持ち,身支度を整えたままで…。

いつも一緒に散歩をしていた犬は,その日からひと月ご飯を食べなかったという。

 

ずいぶん長く奥様にお話を聞いた。ふと見ると,奥様のわきの下がどんどん濡れてきている。ああ,強く緊張しているんだなあと思った。私と同じ性格の人なのかもしれない。それとも,B先生を思い出してのことだったのだろうか。

これまでのこと13 工学博士とB先生 Ⅲ

これまでのこと12からのつづき…

 

 さて,そうこうしているうちに4~5年が過ぎた。それまでに12編の論文が採録されていた。ちょうどそのタイミングで先生から電話があり,そろそろ纏めてはどうかという催促だった。すなわち,論文博士の申請をしてはどうかということだ。パソコンのワープロソフトが普及し始めたころで,「一太郎」というソフトが流行っていた。しかしそれは文字だけしか扱えなかった。つまり,図を描いたりそれを文章間に挿入したりすることができなかった。したがって,図は手書きである。また,和文と英文の両刀使いではなく,英文は和文のフォントで半角英数文字を入力するだけであった。それでも,完全な手書きよりも何倍も便利だったので,慣れないワープロを使って一生懸命作った。

 しばらくしてから,試験をやるというので大学へ出かけた。あらかじめ英語とドイツ語の科学,工学に関する内容の文章を訳してくるように言われた。本来ならば,教室で時間を制限して行うのであろうが,前もってやってこいということだ。手抜きである。私は,大学で勉強した第2外国語は仏語であったが,先生の講座の教授(博士論文審査の委員長)がドイツ語しか知らんというので,仕方がない。仏語の専門用語は,ほぼ英語と同じである。それでドイツ語を甘く見ていたが,専門用語が英語とは全く異なるうえ,単語がどんどんくっついていくので,ちんぷんかんぷんだった。英語はファインマンの通俗書の一部であった。私は著書をすでに和訳で読んでいたので,それがすぐわかった。ドイツ語は,モータに関するものだった。専門外であるし,必死に辞書と格闘したが,何が何だかわからない。何とか訳したけれども,自分で読んでもわけが分からないものになってしまった。他の人に聞くこともできたはずなのに,それをしなかった。試験だということで,意地になっていたのかもしれない。提出する時,教授の先生に「英語はファインマンの著書ですね」と言ったら,不愉快な顔をされた。教授は「しまった,簡単すぎたか」と思ったのであろう。審査委員会は,教授を審査委員長として,全部で4人の委員で構成された。

 さて,その日午後から審査が行われた。最初に私が審査委員および学科の全教授の先生方を前に研究発表を行い,その質疑応答,そして最後に参加した先生方全員で審議というスケジュールである。研究発表後の質疑で,審査委員ではない先生が奥歯にものが挟まった言い方の質問をした。私はその意味が分からず,何度か聞き返した。たまらず審査委員の先生の一人が「世界でだれも提案していない新しい手法だということですね?」と言ったので「そうです」と答えた。質問した先生が「そういってくれればいいんだ」という顔をするから「それならば,はっきりそう質問してくれよ」と思った。

 いよいよ審議に入る。審査委員長の教授に,学科の図書室で待っているように言われた。同じ階の階段の向こうに図書室があった。審議を行っている部屋から50mほどしか離れていない。中に入ると司書の女の人がいたので,事情を話して入り口近くの机の一角に座った。ところが,いつまでたっても連絡が来ない。1時間以上経つ頃には,さすがに退屈になってきた。女の人が気の毒がって,わざわざお茶を入れてくれた。それからまたしばらくたって,廊下で話し声が聞こえた。委員長の教授の声がする「彼はどこにいる?あれーいないな」何を言っている。自分が,図書室で待てと言ったのだ。急いで,廊下に出た。教授が私を見つけて「大丈夫だから」と言った。

 B先生の部屋で話を聞いた。私には英文論文が幾つかあったが,いずれも日本の論文誌で,格付けが低い。B先生はそれを知らなかったという。米国の雑誌には掲載されなかったことも忘れていたらしい。審議ではその点について,委員以外の参加者が難色を示し,会議が長引くことになった。結局,審査委員の先生方の助力で合格となった。ただし,早いうちに,海外のしかるべき論文誌に投稿し掲載されること,という条件付きの合格である。私には取り立てて人望がないにもかかわらず,委員の先生方が一生懸命擁護してくれた。私は,大変恐縮してしまった。

 さて,試験の前に,ひそかに耳打ちされていた。それは,論博の審査委員の先生方には,お礼として菓子折りと百貨店の商品券を差し上げることだ。現金ではあまりに生々しいので,商品券でということである。あくまで慣例としてであり,文章化されている訳ではない。しかし,先生方は何の得にもならない審査委員を引き受け,面倒な書類作成や会議の招集などを行うのであるから,申請側としては,何かお礼をしたいと思うのは当然の気持ちであろう。その額は全く想像できなかったので,以前その大学から論博をもらった方々何人かに密かに打診した。どの方もなんとも歯切れが悪かった記憶がある。規則化されていないのであるから,当然のことであろう。それらを準備して,学位授与式に臨み,各委員の先生の部屋を回って歩いた。先生方それぞれに,海外の論文誌に必ず投稿し発表するようにと言われた。しかし,もらってしまえばこちらのものである。この歳になるまで,約束を果たしていない。背信行為の極みだ。

 6月に,学位授与式があった。私は,「工学博士」という呼び名の最後の受領者になった。この後,称号の日本表記が「博士(工学)」に変わるのである。括弧の中に専門分野(文学,理学,医学など)が入る。その帰り,地元で世話になった人達に,生鮮品を直送したり,土産をたくさん買ったりした。私は,対人緊張しやすく,人付き合いがうまくできない。ところが私には,自己顕示欲が強く,お調子者という正反対の性格も同居する。そのため,人に会えば委縮したにも拘らず,鼻っ柱の強い人間,明るい人柄と誤解されることがあった。そんなことだから,授与式が終わり,帰りの飛行機を待つ間,私は喜びを押し殺し,勇んでいた。

 

「こんな学位記なんぞ無くたっていいんだ。称号がなくても,いい研究をして賞賛を得る」

 

つづく

これまでのこと12 工学博士とB先生 Ⅱ

これまでのこと11からのつづき…

 

 ここから,B先生の私への思い入れがスタートした。すべてに自信と経験のない私に,表舞台に立たせてくれたきっかけを作ってくれた。さて,私は,せっかく1次元圧電体の計算もしたので,そちらもついでに論文にしたかった。したがって,2本の論文を並行して書いていた。もちろん2次元の計算も必要だったし,他にも仕事があったので,書き終わるのが1か月以上かかってしまった。そのうち,ある学会の全国大会が東京で行われ,そこで先生や先輩らと昼休みに集合した。先生から論文はどうしたと聞かれ,今書いているところだと言うと,先生が急に怒り出し「発表しなければ研究ではない,完璧を求めていては,いつまでたっても発表できない」と言った。それが,いかにも感情的ではなく,ここは怒らなければと考えてのことだと私には読み取れて可笑しかった覚えがある。先生の優しさがにじみ出ている。しばらくして,2編書きあがったので先生に郵送してみてもらった。当時はワープロが出てきたばかりのころで,今のようにメール添付などできなかった。したがって,校閲は印刷した原稿ゲラで行っていたのである。先生は,2編も書いていたのかと言って喜んでくれた。先生からの直しを入れて学会誌に投稿した。

 

 2か月ほどして,査読通知が来た。2編とも条件付き採録だった。条件付き採録とは,査読者(提出論文を採録するかどうかを判断する人。普通,学会員の中から専門性を考えて,任意に選ぶ。誰が査読者かは秘密にされる。)からの,論文に対する疑問に答え,それを論文に反映させれば採録するというものである。先生に電話すると「分かったすぐ行く」と回答。え?すぐ行く?わざわざ?飛行機で?私は,びっくりしてしまった。先生の来訪に,先輩社員と飛行場まで車で迎えに行った。一通り会社で打ち合わせをした後,私の車で名勝地をめぐって歩いた。途中の砂浜で,先輩の持ってきた釣り道具を使い,先生と先輩が小一時間,海釣りをやった。行き当たりばったりなので,先輩の竿に小さなフグがかかっただけだった。夕方になり,先生の泊まるホテルに先生を置いて帰ってきた。あとで考えると,とんでもない接待であった。先生は,お酒が好きであった。夜は,近場の飲み屋街にご招待すべきであったのだ。若い私には,まったく思いつかなかった。苦い思い出である。2編の論文は,幸いにもその後採録となり,私の初めての論文となった。

 

 その後,研究をさらに進め,それをA大学が立地する地方で開催される研究発表会で発表した。その都度,先生には夜の飲み会に誘っていただき,様々な教えを乞うた。先生は健脚で,ちょっとした距離はすべて歩いて行くのであった。それが,またかなりの速足である。私は,仕事以外の時間にテニスを夢中でやっていたので,何とかついていけたが,先輩はヒィヒィ言っていた。

 飲み方も,しらふの時と変わらず愉快で,先生の優しい性格がそのまま出るという感じであった。また,終了後は決して我々に支払いをさせず,おごってくれる。私が払うと何度も言っても,有無を言わせぬ体裁で,気の小さい私はどうしても負けてしまうのであった。

 

 3次元の論文が出た頃,そろそろ外国の権威ある雑誌に投稿しようということになった。チャレンジするのは米国の学会である。それは,電気・電子・通信系をすべて網羅している学会で,個々の専門分野ごとにたくさんの論文誌を発行していた。先生は「電磁波とその応用」に関する学会誌に論文を投稿していた。「振動とその電気系への応用」は,また別雑誌であった。例によって先生いわく,和文誌に発表した論文の例題だけをちょこっと変えて出せばよいと言う。「おいおい,いいのかよ?」と思ったが,そう言うのだから仕方がない。私は記憶力,集中力ともに低レベルなので,英語は大変苦手である。喋る方は,幼稚園の会話程度で,通じれば仕事になった。しかし,リスニングはいつまでも駄目であった。海外に長期間いたことがないことが大きい。

 慣れない英文を書き,先生に見てもらって何とか投稿した。ところが,待てど暮らせど査読結果が来ない。とうとう半年が過ぎようとしたころ,やっと返事が来た。学会での査読結果は,6箇月以内に知らせるという規則があったからギリギリである。結果は不採録だった。理由は,英語が下手でわかりにくい,物理的には何も新しいものがない,ということであった。最後に,解析手法を専門とした他の雑誌に再投稿してはどうかというサジェスチョンがついていた。投稿した雑誌の研究者には,解析手法の新規性,有効性を明確に判定できないという理由である。なるほど,私の論文を理解できる研究者を探すのに相当手こずったということであろう。

 学会誌に採録されるかどうかは,慣れてくると見通しが立つ。しかし今回,先生の知らない雑誌であるから,採録可能性の予測との齟齬があったのである。この件はそれでおしまいとなった。

 

 しかし,これが後でずっしりと効いてくるのである。

 

つづく

これまでのこと11 工学博士とB先生 Ⅰ

 私は,A大学から工学博士の学位を授与された。その時私は30代半ばで,論文博士である。これはB先生との出会いで実現した。先生に巡り逢わなければ,博士号も現在の職位もあり得なかった。以下,煩わしいので敬語を使わない。お許し願いたい。

 

 その5年ほど前から,会社で固体の振動解析をやっていた。新製品の振動を解析する必要に迫られたのである。特に,振動が時間を追ってどう変化していくかを知りたかった。振動が1方向のみの場合(1次元振動)は,解析的に答えを求めることができる。私は,電気的等価回路(抵抗,コンデンサ,コイルといった回路素子をつないだもの)で振動を表し,その等価回路を解く,という手順で計算した。励振源として圧電体を使っていた。圧電体というのは,電界をかけると寸法が変わる,力を加えると電圧が発生する固体である。電気入力で振動を起こすので,振動側も電気回路で表すと大変扱いやすいのである。しかし,振動が2次元,3次元になると,計算機で近似的に問題を解くしか方法がない。そこで,よく利用される近似解析法をいくつか試してみた。が,しっくりこない。実はどの方法でも解析はできるのである。しかし,そのほとんどは理論が難しく,相当大きなプログラムを書かないと解析できない。中には簡便な方法もあったけれども,精度が心配だった。私には数値解析の経験がないから,各々の手法の精度や注意点がよく分からなかった。

 

 そうこうしているうちに時間が切迫してきた。「これは,専門家に聞くのが一番手っ取り早いな」と考えていた。そこにA大学出身の先輩社員が,私のやりたいことを知って,こう言ってくれた。「電磁波の分野で面白い解析方法を提唱している先生がいる。最近すごい勢いで論文を書いているので,一度聞きにいかないか」私は,固体の振動(地震の揺れと同じ)を解析しており,その揺れは,固体中の圧力とひずみが作る波がもとになっている。電磁波も電界と磁界が作る同じ波であり,原理に変わりはない。私は,渡りに船という気持ちで,地方で開催される学会の研究発表会へ出かけた。そこで,その先生と指導学生が研究発表を行うからである。気の小さい私にとっては,大英断だった。

 

 B先生は,気さくな人だった。若干小太りながらがっしりした体格である。垢抜けしていないところが好感を持てた。挨拶を交わしたのは,夜の懇親会である。研究発表会の初日終了後に,近くの高台に建っているレストランで開催された。話を聞いたが,どうも要点がつかめない。失礼だが,馬力はあるけれどもクリアな頭脳の人ではないなと思った。さっぱりわからず,これは論文にあたってみるしかないと思った。困ったのは,B先生がこう言ったことだ。「私は弾性波(固体中の揺れの波)の知識がないので,あなたが一から作りなさい」えーっ,これは参った。会社人間の常で,基礎的なことはどうでもいいのである。使えるかどうか,どうやればいいのかさえ聞けば,それで良いのだ。

 

 会社に戻ってすぐ,B先生の論文を熟読した。計算の基本概念は,私が1次元波動で使っていたものを2次元,3次元に拡張したものだった。すなわち,読者には難しいかもしれないが,波動場(波が伝わる空間)を電気的等価回路で表現し,その回路を上手に計算するのである。2次元,3次元の等価回路は,空間的な近似である。電気回路を計算する方法は色々ある。その中でも先生の計算方法が個性的で,単純明快なのだ。したがってこの手法は,今まで勉強してきた私の知識がそのまま利用できた。偶然というには不思議な出会いである。思い返すと運命的だが,そのときはそう感じる余裕はなかった。私は早速,圧電体の1次元振動の解析に適用した。その電気的等価回路に,先生のユニークな計算法を使ってみたのである。このおかげで計算が非常に楽になり,学会発表も行った。また先生に連絡し,この考え方でよいか確認した。

 

 さて今度は2次元,3次元の理論化である。どう等価回路で表現するかが問題だ。あとは,B先生の計算法を機械的に適用すればよい。同じ波動でも,電磁波と弾性波は,その構成式がかなり異なる。したがって,そう簡単ではない。しばらくは,その問題ばかり考えていた。そういう時にセレンデピティは起こるものだ。会社のトイレから出て廊下を歩いているときに,ピンとひらめいたのである。私は早速A大学へ赴き,B先生と議論した。先生は慣れたもので,それをよりすっきりしたものに書き直してくれた。ちょうどその時,電気関係学会支部連合大会の講演申し込み最終日だった。先生は,ちょうどいいと言って,一緒に来ていた先輩社員とともに,申込用紙を手に入れるから,ここで書いて出すように言った。まずは手始めに2次元の場合を公表しようということである。申込用紙は,B4,1枚のレジュメを描くものであった。当時は手書きである。図を描くイラスト用のペンもなければ,解析,実験結果も手元にない。ひどいことを言うものである。私は等価回路の図を書き込めばよいので,まだましだった。先輩社員などは,実験結果を思い出しながら,フリーハンドで図に書き込んだ。私は,驚いてしまった。研究発表や論文というコト,モノに対するイメージが破壊された。ただ,これは行き過ぎだろうと今は思う。

 

 これがB先生のやり方だった。一区切りついたら,考えず研究発表をし,できるだけ早く論文にするのである。とにかく発表しなければ,研究はその意味を持たないという考え方であった。それが行き過ぎると,先の研究会の「締め切り当日申し込み」のようになるのである。もっとも,しばらくして慣れてくると,学会の人の顔も覚えてきた。それで,ひどい時には,締め切り当日に電話し,次の日の朝でもいいか聞いて出したりした。人間,慣れは怖いものである。いよいよ,この解析手法の初めての発表の日,私は,急いで計算し,データを持って行った。正直五里霧中で,データの正当性を確認するまでには至らなかった。だが,何とか数値データを持って行ったことで,B先生は喜んだ。まだしっくりいかないけれどもと思ったが,どうも先輩が先生に,私はまじめで優秀だと吹き込んでくれていたようだ。B先生が先輩に「その通りだね」と囁いていた。先生は,発表後,2次元の場合について,学会誌に投稿するよう私に言った。

 

つづく

これまでのこと10 くすり Ⅱ

 精神科には一度行ったことがある。10年以上前だ。常に,胸につかえがあるように感じるためだった。話を聞いてもらい,薬も処方されたが,特によくなることはなかった。今思えば,緊張による心臓からの警告だった。その経験もあって,今回の診察は(これまでのこと9参照)それほど期待してはいなかった。そして問診を受け,新たな薬を処方された。安定剤の類と思われる。その時から,徐々に私の性格が変わった。

 

 最初に強く感じたのは,東京出張の帰り,羽田空港へ行くモノレールの中だった。私は,途中で居眠りをし,終点で隣の客に起こされたのである。私は,衝撃を受けた。これまで,乗り物内で居眠りをしたことが一度もなかったのである。それは長距離の電車であっても同じだった。そういえば,出張先でたまたま出会った同僚と茶店で会話したとき,違和感を覚えたのである。私は,人に何か話しかけようとするとき,いつも少し緊迫感を感じる。しかし,その時,まったくそれがなかったのである。したがって,いつになく多弁だった。緊張で頭が凍り付かないので,次々と話題が出てくるのである。

 

 その後は失敗の連続である。上司の客人を昼,私の車で空港へ迎えに行くことになった。しかし,私は午前中からテニスに夢中で,そのことをすっかり忘れ,すっぽかしてしまったのである。これまでの私には,まったく考えられない失態である。そういう約束をしたときは,朝からソワソワするのが,私の常であった。

 

 平常の業務においても,行動が全く変わってしまった。これまでは,電話をすることが苦手であった。相手に失礼ではないか。忙しいのではないか。いないのではないか等々,心配してすぐには電話できなかった。しかし,今や電話をしようと思ったらすぐに,受話器を握って相手の電話番号のボタンを押しているのである。

 

 女性とも普通に話せるようになり,てらいが無くなった。果ては,スーパーのレジや会社の食堂のおばさん,お姉さんにまで,へらへらと話しかけるのである。数人が集まる場所では,女性のために,ちょっとした花を人数分買って行って,配る始末である。これまで想像もできない仕業だ。こうすると喜んでくれるだろうなと考えることはあった。しかし,周りの目と花をあげる相手の気持ちをあれこれ考えると緊張し,そんなことは絶対できなかった。それが,周囲が全く気にならず,やりたいことを躊躇(ためら)わずにやってしまうのである。

 

 車の運転もかなりの緊張を強いられた。知らない土地を運転するのは気おくれがした。また,近くであっても,入ったことのない小道を行くことはできなかった。運転が終わると,ほっと胸をなでおろしたものである。しかし,今や自由自在である。通ったことのない路地をスイスイ走り,近道を見つけたりする。携帯をかけながら(道交法違反である),行ったことのない知り合いの家に向かう。

 

 それから10年ほどは,これまでと別人の「私」が活躍することとなった。人の話などを聞くにつれ,躁状態に近いように思う。しかし,ギャンブルにはまるとか無秩序に買い物をするといった,我に返ると困ったことになっているということはなかった。やはり,対人緊張が解けたことから,愉快な気分になったと判断していいだろう。

 

 これまでの緊張ばかりする私には,ありえないエピソードがある。私は,そのころ近所のテニスクラブに入った。会員権を持った正式な会員ではなく,安い年会費を払えば,土日,祝日に自由に行って無料でテニスを楽しむことができる資格である。そこは,40歳代以上の人たちが集う憩いの場となっていた。オムニコートが,並んで4面あった。これまでの私は,どぎまぎしながら時間をかけて仲間に入るのだが,周囲の人々が好意的に接してくれたこともあって,すぐに仲良くなった。そこには,同じ会社の上司もいた。渡辺さんという。バリトンのいい声をしている紳士である。私は,すっとぼけた,子供キャラで行動していた。だから,私を呼ぶときはいつも「君」である。その点,渡辺氏は「さん」づけて呼ばれる。40を越えて「君」はないだろうと思ったが,それは,意外に気に入っていた。

何かの話題で周囲が笑い,ちょっと会話の空いた時,私はぽつんと言った。

 

「渡辺さんは「さん」で呼ばれるのに,どうして僕は「君」なのかなぁ?」

 

一瞬の間をおいて,みなどっと笑った。私は,自分でも愉快な奴だと思った。自分のことなのに。従来の自分であれば,そんなことは言わない。言ったとしても,周りに真面目に取られてしまったであろう。おそらく,かける言葉がないはずだ。

 

 私は,人付き合いの良い,面倒見の良い人物になっていた。反対に,言うべきでないことを何も考えずに発言し,相手を傷つけることもあった。さて,前述のテニスクラブの他に会社のテニス同好会にも顔を出していた。若い人が多く,事務系の若い女性も多かったので,楽しかった。あるとき,女の子の一人がもうすぐ誕生日だということを聞き,ならば近しい人たちでフランス料理のフルコースを堪能しようということになった。私は早速,遠藤君という若い男子社員とともに会社の近所を探索した。有名店のフルコースでは,値段がかなり張る。若い人たちの給料では,有名店は無理である。そこで,足も便利な,近場に店はないかと考えたのである。

 間もなく,ネットや人の話から,近くに新しい店が開店したことを知った。早速,遠藤君と車で出かけた。ビル街へ車で行くことは,これまで大変苦手だった。駐車場があるかどうかわからず心配だからである。しかし,例によって全く気にせず出発した。比較的古いビルの3階だった。近いところに駐車場が2台分あるのを聞き,自動車をそこに止めた。囲碁,将棋クラブをやっているオーナーが,ビルの一角が空いたので,洋食屋をやり始めたところだった。オーナーと交渉した結果,宣伝効果を期待して,格安でフランス料理のフルコースディナーをやってもらえることになった。

 当日は,女性の友人を加えて4人で誕生祝をやった。ディナーは最高だった。最後のデザートもこれまで味わったことのない素晴らしいものだった。オーナーに厚く礼を言い,終了となった。その後,女性の友人を除く3人で,近所の茶店で談笑した。その時,何の話からか忘れたが,私の娘の話になり,小さい頃はかわいいだけだったが,そろそろ思春期だという話をした。女性は生理が始まるから大変だ。私は,女の子に軽い気持ちで聞いた。

「○○は,生理いつだった?」

遠藤君は,すかさず「それは,セクハラですよ~」と私をいさめた。私も,謝った。その場は特に波風もたたず,楽しくしゃべって解散した。

 

 次の日,女性からのメールを見て驚愕し戦慄が走った。

 

「あなたのいったことばですごくふかいでしたよくかんがえましたがわたしはあなたのいったことをゆるすことはできません」

これまでのこと9 くすり Ⅰ

 私は人前で緊張する。誰でも同じというかもしれない。そうではないのである。言わば対人恐怖症だ。ただ,病気の名前でひとくくりにできない。それは,個人個人で症状が異なるからだ。これが,様々な局面で私の生活に影響する。電話や茶飲み話といった個人とのかかわりから,講演,講義といった大勢を前にするものまで大きく影響するのである。また,車の運転など,それ自身は人間にかかわらないが,何か起きた時に他人の迷惑になるだろうというものも含まれる。

 大勢の聴衆の前で講演することがある。観客の目が怖い。緊張が高まる。強い胸の圧迫感がある。頭脳は岩のように硬く,ニューロンを走るイオンは空回りして進まない。考えながらしゃべってはいる。だが,話の途中で色々な異なる発想や考えが浮かんでこない。通り一辺倒のつまらない内容で終わる。簡単に言えば,バカになるのである。また,汗もかく。最初はわきの下がぐっしょりぬれ,しまいには,上半身全体が汗でびっしょり濡れる。頭から,汗がしたたり落ちてくる。当然,ろくな講演にはならない。

 専門講座の講師になる場合も同じである。人数が多くなると,見られていることが怖い。おおよそ講演の時と同じになる。この状況で特徴的なのは,計算をするときである。単純な四則演算で,とんでもない計算ミスをするのである。よく知っている計算手順も,間違えるときがある。

 心許せる人と茶飲み話をしているときも,その性格が出てくる。最初の30分程度は楽しく会話をしている。しかし,それ以上長くなると,徐々に楽しさが緊張感に変わってくる。自分でも,何をしゃべっているのかわからなくなる。わきの下がびっしょり汗でぬれる。ある上司が,私を気に入っていた。彼は,私の父親と同じ年齢で,私と大学の同窓である。ときどき職場の私のもとを訪ねて来て,お茶を飲んでいく。それが,話し出すと長い。私も最初は楽しんでおしゃべりしているが,さすがに1時間を超すと,アウトである。早く帰ってくれ,という気分になるが,彼はお構いなしだ。

 私を訪ねてきた人に,悪い顔をできない。知らない相手からの電話もそうである。したがって,訪問販売やキャッチセールスに捕まると,追い返すのに四苦八苦した。嫌だと一言いえば,それで済むのである。しかし,それが出来ない。だらだらと説明を聞いているが,上の空である。

 私は,大学に入学してすぐにテニス部に入部した。半月ほどして,新入生歓迎会があった。最初は自己紹介である。自己紹介後,何か一芸披露せよということである。仕方がないから,桜田淳子の「くっくくっくー」を,手ぶりを入れて真似しようと思った(古い話で恐縮である。知らない方にはお詫び申し上げる)。さて,私の番になったのでやったが,微妙な雰囲気である。自分でもわかる。緊張してやっているので全く可笑しくないのである。また周囲の人たちは,はやし立てるにも,私の気の弱そうな様子を見て,何も言えないのである。私の場合は,いつもこうだ。緊張状態で何かを始めても,吹っ切れないのである。脳の回路がぎくしゃくして,うまく働かなくなる。

 以上,私の生来の性格が表れた具体例をいくつか示した。それが影響して,社会生活での不便さを感じることがある。大きいのは,人脈ができないことである。人と接するのを嫌うから,相手と必要な時以外話しをしない。したがって,その人から繋がる人脈を自分のものにできない。その結果,人づてに伝わる非公式な情報が全く入ってこない。周りのみんなが知っていることを自分だけが知らなかった,ということがよくある。

 

 勤めて10年以上過ぎた,冬のことだった。前年度から,スパイクタイヤが積雪のあるところ以外では走行禁止となった。仙台のように雪が少ない地域では,スパイクによってアスファルトが削られ,土埃,粉塵がひどいためだ。代わりにスタッドレスタイヤを履くように,という指導である。しかし,当時のスタッドレスタイヤは,スノータイヤに毛が生えた程度のものだった。したがって,凍った路面では,制動性能がひどく悪い。施行初年度は,雪が少なく,スタッドレスタイヤでもさほど危険を感じることはなかった。しかし,2年目はひどかった。タイヤが滑るから,朝の通勤帯は猛ラッシュである。勤務先まで,1時間以上かかった。当時は,まだマニュアル車が主体である。1時間「半クラッチ」でいると,到着するころには,左足がプルプル震えた。また,勤務先に到着してからも,1時間程度休まないと仕事にならないほど精神的に疲れた。

 当然,危険な目や事故にもあった。真冬のある日は,宿直明けだった。車に乗ってすぐに,路地から本通りに出る三叉路がある。朝早くに雪が降ったようだ。路地に新雪が積もっている。新雪ならば,ブレーキが効く。安心して路地を通り,本通りに出ようとした。間もなく三叉路というところで,軽くブレーキを踏んだ。その瞬間,はっとした。タイヤがロックしたのである。そうなると,どうしようもない。自動車が滑るに任せるだけである。顔面から血の気が引いたまま,ハンドルを固く握りしめた。車の先端が本通りにかかった。私は,もう駄目だと思った。その時,すとんと車体が下がって止まった。側溝にかぶせてある金属の網蓋にタイヤがかかったのである。九死に一生を得た。路地の路面を確認すると,新雪は薄く,その下は圧雪が凍ってつるつるになっていた。

 ほかにもいくつか怖い目に会った。そうしたある日の朝,目が覚めた瞬間から緊張を感じ,心臓がどきどきした。通勤中も異常に疲れる。やむを得ず,医者に行くことにした。

 

 精神科には,このときから10年以上前に,一度行ったことがある。常に胸につかえがあるように感じるためだった。話を聞いてもらい,薬も処方されたが,特によくなることはなかった。今思えば,緊張による心臓からの警告だった。その経験もあって,それほど期待してはいなかった。そして問診を受け,新たな薬を処方された。

 

 その時から,徐々に私の性格が変わったのだ。・・・つづく

これまでのこと8 献血

 私は,まだ20代の頃,日本海側に住んでいた。県庁所在地であるが,それほど賑やかでもなく,冬はめっぽう寒かった。都市活性化のため,あちこちに大きな道路を建設中であった。それは,開通まで約30年を要した。道路ができる頃には,日本で最も人口減の激しい地方となったのだから皮肉である。

 

 勤め始めたころ,会社に程近い,専用の宿舎に1人で住んでいた。平屋の一軒家である。勝手口から右手に和室が四畳半,六畳,四畳半と3つ並んでおり,左手がトイレ,台所,風呂場が並んでいる。これだけ書くと,1人住まいでは贅沢に聞こえる。しかし,昭和40年頃にできた,ブロック造りの古い宿舎だった。コンクリートブロックには断熱材が入っていないため,冬の寒さはきつかった。昼間でも,台所の水道が凍り付くことがあった。さらに防水性が悪いため,冬に部屋を暖めると壁が汗をかくのである。そのため,ちょっとほっておくとすぐカビが生えた。しかもトイレは肥溜め式で,これも油断するとハエの巣窟になるのであった。

 

 県庁所在地といっても,以前は独立した港町で,市街地から北に,かなり離れた場所にあった。海岸に近いこともあり,砂地である。3部屋続きの外側が庭になっていた。完全な砂地である。雑草が生えない代わりに,一般の内陸の植物も育たない。車の車輪が砂にはまってしまうこともあった。

 

 同僚の上司が,親戚に手術を予定している人がいると言った。その地域の慣習で,手術をするときは,何人かの献血をお願いされるということだった。そこで,若い私に献血を頼みに来たのである。血液型は何でもよく,とにかく人数だけを指定されているらしい。私はそれまで,献血をしたことがなかった。なにぶん気の弱い人間である。必要もないのに,針を腕に刺すなど,考えたくもなかった。しかし,今回は上司の頼みである。断るわけにはいかない。その上司自身は,採血しないとのこと。なんでも,恐怖で気を失いそうになるそうだ。それはないだろうと思った。

 当日は,上司の車で送ってもらった。場所は市内にある保健所である。建物の中に入り,採血する部屋に行く。ベッドに横になって腕を出し,採血してもらうのである。手を出すところに仕切りがあり,向こう側に採血用の機器があった。採血中は,それが見えないようにしてあった。私は,左手を出し,袖をまくった。右手は,テニスでラケットを持つ方なので,注射のときはいつも避けている。チクッとして,しばらく待てば…,と比較的気楽に待っていた。

 

 仕切りの向こうから,注射器が見えた。私は,ドキッとした。「ふ,太い…!」思ったより,針が太いのである。嫌な予感がした。「刺しますよ,手を結んでください」女の声がした。ブスッと来て,またドキッとした。痛い!かなり血管が痛いのである。こんな痛い採血は初めてだ。「はい手を開いて,ゆっくり結んだり,開いたりしてください」私は指図通りにしたが,とにかく痛い。叩かれたり,つねったりした痛さではなく,痛苦しいのである。のちにワクチンを打つ経験をするが,その針の細さと,打った時の痛みの少なさに驚いたものだ。

 

 「早く終わらないかな…」そう思っていると,逆に非常に長く感じることは,だれでも経験するものだ。だんだん緊張して,冷や汗が出てきた。わきの下は,汗でびっしょりだ。そのうち世界がくるくる回り始めだ。「オー痛い」まいってしまった。かなりしばらくして(私の体感時間では),「終了です」という声がして,針が引き抜かれた。抜くときも痛い。

 ホッとしたつかの間,急に気分が悪くなってきた。緊張による精神作用であろう。私は看護師に言って,しばらくそのまま寝かせておいてもらった。心臓が弱々しく鼓動し,気を失いそうになりなる。その間,不整脈まで起きた。何分か横になり,やっと気持ちが収まってきた。パニック障害といわれるものであろう。

 

 私は,大学生の時,2度同様のパニックに陥った。一度目は,1年生の時。夜に不整脈で目覚め,その後何分かに1回不整脈が起きるので,パニックになった。初めてだった。当時体育会系のテニス部に入って活動しており,冬にシーズンオフとなってしばらくしてからだった。活動的だった季節から,冬になって急に運動をしなくなったためではないかと思っている。翌日,慌てて実家に帰り,病院へ行った。しかし,特に知見はなかった。緊張で,心拍数がかなり高かったために,不整脈も出る暇がなかったのであろう。心電図に異常はなかった。

 もう1度は,3年生の時。やはり3日程テニスをきつくやった次の日,休みのときだった。どうも気分が晴れない。昼になったので,近くの食堂へ行って注文した。混んでいたせいかなかなか注文したものが来なかった。そのうち,スーッと気を失いそうになった。心臓が止まるような感じである。私は慌てて注文を取り消し,アパートに帰った。帰ってからも,同じ症状が続いた。仕方なく同じアパートの友人を呼び,病院に連れて行ってもらった。このときもまた,心電図に異常は現れなかった。

 

 当時,まだ精神的な病が,そういう資質を持った人だけでなく,普通の人にも起きるということの認識がなかった。当時の精神科は,やけによくしゃべる人や自殺未遂の人,精神薄弱の人が通う場所だった。精神障害というにはグレーな人がいることの認識や発達障害などという言葉はまだ普及していなかった。何はともあれ,上司に笑われて,その日は帰ったのである。

 

 その後勤めてから,何度か精神科を訪れた。しかし,問診や処方薬に効き目はなかった。ところが,ある雪の多かった冬に,ひどい精神障害に陥った。朝,車で出勤する。圧雪時は,例年の冬よりもはるかに混んだ。それは,その前の年からスパイクタイヤが禁止になり,スタッドレスタイヤで雪道を走らなければならなかったからである。スタッドレスタイヤの制動能力は,スパイクタイヤに比べ極端に低かった。したがって,道路は非常に滑りやすかった。普段は20分ほどで到着する勤務先に,1時間かかっても着かなかった。到着しても,緊張による疲れが酷く,1時間ほど休息しないと,仕事を始めることができない。

 そうしているうちに,朝起きるとすぐに緊張感に襲われ,一日中緊迫感が取れなくなってしまった。そこで慌てて,医者に駆け込んだのである。その結果,精神安定薬を処方され,以来,薬を止めることができなくなった。実はその薬によって,私の性格が,かなり変わった。そのことについては,また別の機会に述べたい。

 

 さて,それから何年かして,また,献血をすることになった。理由は,前回と同じである。今度は別の上司だった。10人の献血が必要とのことで,声がかかった。私は嫌だったが,世話になっている上司の願いでは,断るわけにいかない。同じように献血を頼まれた人たちのうち数人と,上司の車に乗って,目的地へ向かった。今回は,赤十字病院であった。広い天井の高い部屋に集められ,問診のようなものが始まった。ずいぶん古い建物だなぁ,などとぼんやりしていたら,私の番になった。机の向こうに座っていたのは,やせぎすの,細い目が吊り上がったナースだった。おばさんナースは言った。

 

「何か,既往症はありますか?」

「いえ,ありません」

「手術をしたことがありますか?」

「ないです」

「現在,薬を飲んでいますか?」

「… ええ,緊張を和らげるものを飲んでいます」

間髪を入れずに,ナースは言った。

「どうもありがとうございました」

 

ナースおばさんは,歯磨きセットを私の前に出した。

 

「…え?」

 

私は,とっさに意味が分からなかった。「おひきとりください」と言われて,あ,用事がないということか,と合点した。薬剤を常用しているものからは,献血を受けないということだ。そのようなことは,私は全く知らなかった。

 

 帰りの車の中で,「すみません役に立たなくて」と詫びた。「いいんだ,いいんだ,ありがと」と上司は言った。大変男気のある,優しい上司だった。私は,車の中で,とても居心地の悪い思いをしながら,家に向かった。

 

献血なんか,二度とするものか」