SENSAIまさの備忘録

繊細気質まさの過去を振り返る

これまでのこと6 祖父のこと

 私が生まれた時,すでに父方の祖父は他界していた。父が生まれて間もなく事故で亡くなったという。祖母は,ずいぶん苦労して父を育てた。その後,祖母は私の知っている祖父と一緒に暮らし,男子を一人生んでいる。二人は籍を入れていない。祖母が,姓が変わるのを嫌がったそうだ。それほど,亡くなった祖父が好きだった。

 私の知っている祖父は,唐傘職人だった。もちろん私がそれと分かるようになった時期には,もう引退していた。若い頃の写真を見ると,なかなかおしゃれな人である。しかし,私が覚えているのは,シャツにステテコ姿だ。おしゃれで多彩な趣味は,タネ違いの叔父に引き継がれている。祖父はタバコが好きで,キセルでよく吸っていた。また,夕飯前に,コップ一杯の焼酎を飲むのが楽しみだった。祖母のことを「ばさま」と呼んでいた。本来の性格はよく知らないが,子供には優しかった。私が悪さしても,文句は母に行くのであった。私の家族は,師走の30日に杵,臼を使って本格的な餅つきをするのが恒例行事であった。その日は朝早くから起き,高揚してそわそわしている祖父を覚えている。

 

父母と東北の太平洋側に住んでいた時,祖父が時々遊びに来て,泊まっていった。私の記憶は,幼稚園に入る前後である。祖父の住んでいる街は,山に囲まれた盆地だった。だから遊びに来たときは,海に行くことが多かった。よく行く海岸は,砂浜にきつい傾斜があった。あるとき,海岸の傾斜に負けて,私が海に落ちそうになった。祖父は慌てて私を抱えた。私は大声で「痛い,痛い」と叫んだ。祖父が掴んだ脇腹のあたりに出来物が出来ていたのである。当時,よく出来物が出来た。栄養不足のためだったのか。出来物が膿むため,母は膿を指で絞って出そうとする。これが強烈に痛かった。「ほれ,ほれ」と母は,ニュルリと出てくる膿を見て言うが,私は痛くて,それどころではなかった。

もっと穏やかな海岸では,祖父とカニや貝をとって遊んだ。波が洗う砂浜の,所々に穴があいている。そこに小枝を入れてやると,それが動く。中にカニが入っているのだ。外側から小枝に向かって砂を掘って行くと,カニがたまらず出てくるのである。また,海に入って,足先でツイストを踊る。すると,貝が足に当たるのを感じる。そこで,足を動かさないようにして,手を入れて足の下の砂の中にいる貝を掴み取るのである。大きな蛤が取れた。私は幼稚園前で背が小さいので,手を入れるとあごのところまで海水面が来る。そこで,時々大きな波が来ると,顔が水につかり,足が動いてしまって,どこに貝がいたのか分からなくなるのであった。

 

 祖父は,唐傘職人であった。祖父と祖母の住んでいた平屋の古い家には,梁に売れ残った唐傘がぶら下げてあった。私が物心つく頃には,すでに廃業し,唐傘を作るときに使う器具や機械はすべて,奥の物置に押し込められていた。父は,戦後すぐのまだ職がないころ,唐傘作りを手伝ったと言っていた。職人気質で,気に入らない仕事はしない,金が入ったら,仕事をしない。そんなことで,祖母はいつもお金に困っていたようだ。父が独り立ちしてから,祖父は引退した。その後,父は,実家に帰って来た。祖父達は,祖母の親戚が買ってくれた平屋の家に住んでいた。その家の裏は広い庭になっており,父はその庭に,新しい家を建てた。祖父と祖母は,古い平屋にそのまま居て,明るいときだけ新しい家で過ごした。

食べるのに困らなくなった祖父は,小遣い稼ぎにアルバイトをしていた。トタン屋根に,真っ黒なコールタールを塗る仕事である。真夏のカンカン照りの日が,絶好の塗装日和なのであった。麦わら帽子をかぶり,お決まりのステテコ姿で,黙々とタールを塗っていく。現代人なら,熱射病ですぐ倒れたであろう。

 

 祖父は,釣りが好きだった。住居が内陸にあり,四方を山に囲まれているので,釣りに行くのは,主に沼であった。なぜか,清流釣りはしなかった。朝早く,渡世人のような日傘をかぶり,釣り道具を付けた自転車をこいで,釣りに行くのである。フナやコイ,ナマズなどを釣ってきた。釣り道具は,作れるものはすべて手作りである。唐傘職人だったこともあって,手先はたいそう器用であった。ごく稀に,父と私とともに,車で遠方の沼に行くこともあった。また,山菜取りも好きであった。こちらは,かなり距離がある場所が中心なので,父と一緒であった。蕨や笹竹の子,フキやミズ,フキノトウ,ぜんまい,たらの芽など多種多様であった。祖父は,そのうち,キノコにはまりだした。趣味が高じて,本格的に本を買ってきて研究しだした。そうしていると,近所の人たちが,採って来たキノコが食べられるものか,聞きに来るようになった。

 

 手先が器用で,いろいろな大工道具を持っていたから大変である。何故なら,小,中学生の私の工作を見ると,黙っていられないのである。私は,1センチくらいの厚さの板に,直径10センチくらいの,丸い穴をあけようと苦戦していた。そのとき,祖父がさっとやって来て,道具を出す。コンパスのような恰好をして,コンバスなら鉛筆を挟む部分に,先端が鋭い刃が挟まっている道具である。軸を円の中心に置き,刃の部分をぐりぐりと回すと,見事な真円の穴が開くのである。しかし,これは学校で顰蹙を買った。皆苦労して糸鋸で穴を空けて来るのであるから,きれいに出来るはずがない。私の作品を見て,親に手伝ってもらっただろうと,盛んに揶揄されるのであった。したがって,どんなに上手に出来ても,祖父に手伝ってもらうのは,誠に嫌であった。

 

 祖父は,晩飯の前にコップ一杯の焼酎を飲む。その時,私はよく祖父と五目並べをやった。祖父の話では,将棋も指したことがあるが,相手に八百長(と祖父は言っていた)されてから,一切やらなくなった。囲碁はできないが,五目並べならばうまい,と言って私に教えた。毎晩やっているうちに,小学校も高学年になると,私の方がもっぱら勝つようになった。

 

 私は高校一年生で,期末試験が半ばを迎えた土曜日だった。その日の試験が終わって,昼すぎに帰宅した。次週の試験科目の準備には,少し余裕があった。そこで,帰り際に貸本屋によって,気晴らしに漫画を借りた。小春日和の気持ちのいい日だった。家に着くと,玄関にやけに靴が並んでいる。町内会でもやっているのかなどと,暢気に構えて家に入った。

 

 「ただいま」と玄関に入ると,なかなか騒々しい。何だろうと思っていると,母が奥の部屋から出てきた。私は驚いた。母が,泣いているのである。「じいちゃんが死んだの」と言う。私は,言っていることが呑み込めなかった。昨日まで,いや今朝まで普通に元気だったのだ。心不全だった。長く吸っていたたばこが原因だったのではないかと,私は思っている。1階は,8畳の茶の間と隣り合った6畳の居間を仕切っているふすまを抜いて,大部屋にしてあった。どちらの畳の部屋である。当時の一般の日本家屋は,大人数に対応できるようにしてあった。冠婚葬祭で親類縁者や隣近所が集まってくるからだ。近所のおばさんたちが,忙しく立ち回っていた。当時は,町内(隣組?)で,祝い事や葬祭のための盆や茶わんその他食事に必要なものを,それぞれ手分けして持っていた。隣組で冠婚葬祭があると,みんなそれを持ち寄り,旅館のような様相を呈してくるのである。

 

私は,学生服のまま,座敷に上がり,中を見た。布団が一床敷いてあった。布団には誰かが入っている。顔を白い顔隠しが覆っている。私は亡骸の横にある座布団に座った。しかし,何をしていいかわからない。顔隠しをとるという発想がなかった。緊張して,じっと座っていたが,その後どうしたか記憶にない。

 

私は,内向的で知り合いに挨拶することができなかった。私の「意識」が独り歩きし,天井から,座敷を眺めている。僕がぎこちなく遺体の横に座っており,近所のおばさんたちが忙しく立ち回り,祖父の息子(叔父)や友人が悲しんで,思い出話をしているのを,天井からじっと見つめているのだった。

 

当然,その後の期末試験は散々だった。