SENSAIまさの備忘録

繊細気質まさの過去を振り返る

これまでのこと7 父のこと

 父の父,すなわち私の祖父は,満鉄に勤めていた。しかし,祖父は,父が生まれてすぐ,事故で亡くなった。祖母が一人で育てることになる。したがって,少年期は,かなり貧乏な生活を送った。祖母が働いている日中は,田舎の農家に預けられた。朝,祖母が,別れ際に小遣いとして50円を父に渡して,仕事に行くのだが,祖母がいなくなると,預けられた先の母親からとられてしまった。だからと言って,いじめられたわけではない。普通に可愛がってもらったようだ。成人後も,育ての親達との交流があったことからわかる。

 しかし祖母の収入では,父は高等小学校を出てすぐに働かなければならなかった。父の人格は,そのころまでに作られたものが大きいと思う。とにかく,自分でお金を稼いで,少しでも妻や子供に苦労をさせたくない,という気持ちが強かった。もし,祖父が生きていれば,旧制中学,更に旧制高校,大学へ入ることも夢ではなかったろう。そうすれば,全く違った人生だったに違いない。勿論,そうであったら,私はこの世にいなかった。

 

 父は,大正13年正月の生まれである。したがって,海軍に徴兵された時は,二十歳であった。呉で軍艦の操作法を学んでいたと聞く。父は,戦争の話は一切しなかった。一度だけ,戦争の様子を聞いたことがある。後学のため,と言ったら,「ほぅ」というような顔をして,少しだけ話してくれた。内容は以下のようなものであった。

 呉の軍港に配属されたときは,終戦も間近だった。明るいうちは,米軍の戦闘機が飛んできて,艦船に向けて盛んに射撃をしてきた。父は,駆逐艦の機関砲(と言ったかどうか定かではない。聞いた感じでは,機銃のようなイメージだった)を任されていた。機銃操者が倒れれば,倒れた操者を振り落として,操作を変わる。しかし,甲板も機銃の取手も,血のりでべったりである。鮮血は非常に滑る。甲板を走るのも大変だったし,機銃の取手が滑って,操作できない。片方の手をもう一方の手で,雑巾を握って水を絞り落とすように,手に付いた血を落として,機銃をつかんだ。

 これだけでも,壮絶である。これまで,そのような経験をしていることを全く感じなかったので,この話を聞いて,大変驚いた。聞いたのは,これ1回だけである。恐らく,よく耳にする,上官のしごきにもあっただろう。それでもよく,戦後,自衛官(当時,警察予備隊)になったものだと,これを書いていて思う。最後まで,体の姿勢がきちんとしていたのは,訓練のたまものだろう。

 

 召集の前と復員のあと,自衛官になるまで,父が何をしていたのか知らない。警察予備隊が発足した時に,すぐ試験を受けたようだ。自衛隊に入隊して,生活が安定した。母と結婚し,いくつかの駐屯地を回って,最後は実家の近くの駐屯地に落ち着いた。近くと言っても,約20kmあり,最初は朝早く電車で,そのうちバイクを使い,最後は自家用車で通った。朝早く目を覚まして,母が真っ暗な中,父の身支度から弁当の用意までして送り出すのを見ていた覚えがある。

 自衛隊は,幹部(少佐以上)以外50歳で定年であった。まだ若い。父は,損保会社に再就職した。再就職した時には,私は大学生で,実家を離れアパートに暮らしていた。したがって,母に聞いた話である。入社したての頃は,若い社員に顎で使われる感じがして,かなりのストレスだったそうである。嘱託も含め,65歳まで務めた。自賠責などをセールスして回ったようだ。会社を辞めた時,たまたま私が実家にいた。その時のお別れのあいさつで,毎年本社から賞をもらっていたことを話すと,支店長がびっくりしていたそうである。仕事はできる人だった。

 

 私が小さい頃の父の記憶は,微かに残っている程度である。それは,私が幼稚園に入る前後からである。日曜日には,私をいろいろ連れ出してくれたようだ。実家の祖父(祖母は再婚していた),祖母が遊びに来た時,海や公園などあちこちに行った覚えがある。関東や新潟にいる,母方の親せきを回って歩いた記憶もある。朝,卓袱台を囲んで,「明日から幼稚園だね」と言ったのを覚えている。

 電車に乗っていた時のことを,ぼんやりと記憶している。父と私は,立っていた。父は私に英語で1から10まで,教えてくれた。「ワン,ツー,…,テン!」嬉しくて私は,何度も叫んだ。そしてふと「11は何ていうの?」と父に聞いた。父は答えられなかった。周りの乗客は,笑っていた。ぼんやりした記憶である。間違っているかもしれない。

 白黒テレビを近所でいち早く買った。今の上皇の結婚パレードが行われたときである。当時,テレビは,まだ珍しかった。近所中の子供たちが,相撲を見に来たこともある。

 幼稚園前だったと思うが,ある日,夜中に目覚めた。周りを見ると,父も母もいない。小さな私は,怖くなって,泣き出した。そして,外に出て,泣きながら近所を歩き回った。ある家の前で,「あらら」と声がした。その家で,父母はそろって,マージャンをしていたのである。

 

 父は,子供が大好きだった。人とのかかわりも上手である。私も子供が好きだが,人付き合いは苦手だ。人と対峙すると,強い緊張感がある。父も,緊張しやすいタイプだったと思う。外出する時は,出発の前に必ずトイレに入った。しかし,人がいるところでは,大きな声で快活にしゃべった。実家は,細い路地に面した,込み入ったところである(いわゆる,昔の隣組状態である)。父は,隣近所の人を見ると,すかさずバカでかい声で,あいさつしていた。それが突然で,とても大きい声だから,私はしょっちゅうびっくりさせられた。相手も,オヤオヤ相変わらずと思っていたことであろう。

 したがって,小学校の頃までは,よく遊んでくれた。野球,キャッチボール,相撲,魚釣り,山菜取り,キャンプ,スキー,小旅行など,ことあるごとに色々な所へ連れて行ってくれた。私は,気の小さい子供だったので,疎ましいこともあったが,今は,感謝している。

 小学4年生,山にハイキングに行ったことを作文した時のことである。父に見せたら,何やらうんちくを垂れてから,おもむろに作文に手を入れ始めた。それまで,私にとって作文イコール日記であった。朝起きたところから始まり,時間通りにストーリーが進んでいくのである。それが,父の手にかかって,激変した。山の上から,山裾を走る電車を見下ろし,その走る音を聞くところから作文が始まるのであった。それが,担任の女先生に,みんなの前でほめられたのである。担任は,国語が専門であった。私は,自分が書いたものではないにもかかわらず,有頂天になった。その時から,私は作文が得意であるという,根拠のない自信を持った。人間とはわからないものである。小学生の時のきっかけは,その子の人生に大きな影響を与える。

 

 父は,80歳になって体調を崩した。めまいがするということだった。病院で検査をするが,しばらく原因が分からなかった。その後,リンパ節が腫れていたことから,悪性リンパ腫と診断された。通常悪性リンパ腫には,抗がん剤治療が行われる。かなり強い副作用で,患者は苦しむが,うまくいけば,寛解の確率が高い。しかし,父の場合は高齢であり,治療のために逆に命を縮める恐れがあった。したがって,父には,がん細胞を少し叩いたら,抗がん剤をしばらく休むという,柔らかい治療をすることにした。

 そのようなことから,父はよくなったり,悪くなったりを繰り返しながら,徐々に弱っていった。恰幅の良かった体が,やせ細ってずっと背が小さくなったように見えるのだった。一時退院した時は,私の家に住まい,母と一緒にディサービスに通った。母も,思うように体が動かず,一人で父の面倒を見ることは難しかったからである。私は,その時,父の住む街にはいなかった。したがって,父は,家を離れなければならなかった。それでも父は,持ち前の陽気さで,たちまち,集まりの場の人気者になった。

 そんな父も,ベッドから起き上がれない日が来た。酸素マスクをつけ,息苦しいそうであった。しかし,父のことであるから,常に弱音は吐かなかった。最期まで,凛としていたのである。最期は病院で,母と家内に看取られて亡くなった。自分で建てた家で,死なせてやりたかったと思う。私は親不孝者であるから,案の定,臨終に立ち会えなかった。私は,どうも人に対する愛情が薄い。両親が亡くなった時も,特に悲しくはなかった。逆に,葬式などあとのことを考えて,緊張を覚えるのであった。

 

 通夜の晩,私は父の棺桶の前にいた。私は…

 

 父のデスマスクを,一生懸命手帳にデッサンしていたのだった。何か突き動かされるように,一心不乱に…

 

 さらに,上さんに止めろと言われながら,棺桶の中の父の顔を写真に撮ったりした。信じられないことをしたものである。通夜の喪主のあいさつも,テンションが高かった。親戚一同のひんしゅくを買ったに違いない。しかし,私は,ちっとも意に介さなかったのである。困ったことに,私は,父が死んで,躁転したのだった。双極性疾患の軽躁状態のようになったのである。精神薬を常用していたためだったのではないかと思う。

 

 薬を飲むことで,私が私でなくなった。いや,それも私なのか。ただ,父が火葬によってこの世から消えてしまうのがとても残念で,遺体をいとおしく感じたのは確かである。それは,私にとって大きな救いだった。