SENSAIまさの備忘録

繊細気質まさの過去を振り返る

これまでのこと13 工学博士とB先生 Ⅲ

これまでのこと12からのつづき…

 

 さて,そうこうしているうちに4~5年が過ぎた。それまでに12編の論文が採録されていた。ちょうどそのタイミングで先生から電話があり,そろそろ纏めてはどうかという催促だった。すなわち,論文博士の申請をしてはどうかということだ。パソコンのワープロソフトが普及し始めたころで,「一太郎」というソフトが流行っていた。しかしそれは文字だけしか扱えなかった。つまり,図を描いたりそれを文章間に挿入したりすることができなかった。したがって,図は手書きである。また,和文と英文の両刀使いではなく,英文は和文のフォントで半角英数文字を入力するだけであった。それでも,完全な手書きよりも何倍も便利だったので,慣れないワープロを使って一生懸命作った。

 しばらくしてから,試験をやるというので大学へ出かけた。あらかじめ英語とドイツ語の科学,工学に関する内容の文章を訳してくるように言われた。本来ならば,教室で時間を制限して行うのであろうが,前もってやってこいということだ。手抜きである。私は,大学で勉強した第2外国語は仏語であったが,先生の講座の教授(博士論文審査の委員長)がドイツ語しか知らんというので,仕方がない。仏語の専門用語は,ほぼ英語と同じである。それでドイツ語を甘く見ていたが,専門用語が英語とは全く異なるうえ,単語がどんどんくっついていくので,ちんぷんかんぷんだった。英語はファインマンの通俗書の一部であった。私は著書をすでに和訳で読んでいたので,それがすぐわかった。ドイツ語は,モータに関するものだった。専門外であるし,必死に辞書と格闘したが,何が何だかわからない。何とか訳したけれども,自分で読んでもわけが分からないものになってしまった。他の人に聞くこともできたはずなのに,それをしなかった。試験だということで,意地になっていたのかもしれない。提出する時,教授の先生に「英語はファインマンの著書ですね」と言ったら,不愉快な顔をされた。教授は「しまった,簡単すぎたか」と思ったのであろう。審査委員会は,教授を審査委員長として,全部で4人の委員で構成された。

 さて,その日午後から審査が行われた。最初に私が審査委員および学科の全教授の先生方を前に研究発表を行い,その質疑応答,そして最後に参加した先生方全員で審議というスケジュールである。研究発表後の質疑で,審査委員ではない先生が奥歯にものが挟まった言い方の質問をした。私はその意味が分からず,何度か聞き返した。たまらず審査委員の先生の一人が「世界でだれも提案していない新しい手法だということですね?」と言ったので「そうです」と答えた。質問した先生が「そういってくれればいいんだ」という顔をするから「それならば,はっきりそう質問してくれよ」と思った。

 いよいよ審議に入る。審査委員長の教授に,学科の図書室で待っているように言われた。同じ階の階段の向こうに図書室があった。審議を行っている部屋から50mほどしか離れていない。中に入ると司書の女の人がいたので,事情を話して入り口近くの机の一角に座った。ところが,いつまでたっても連絡が来ない。1時間以上経つ頃には,さすがに退屈になってきた。女の人が気の毒がって,わざわざお茶を入れてくれた。それからまたしばらくたって,廊下で話し声が聞こえた。委員長の教授の声がする「彼はどこにいる?あれーいないな」何を言っている。自分が,図書室で待てと言ったのだ。急いで,廊下に出た。教授が私を見つけて「大丈夫だから」と言った。

 B先生の部屋で話を聞いた。私には英文論文が幾つかあったが,いずれも日本の論文誌で,格付けが低い。B先生はそれを知らなかったという。米国の雑誌には掲載されなかったことも忘れていたらしい。審議ではその点について,委員以外の参加者が難色を示し,会議が長引くことになった。結局,審査委員の先生方の助力で合格となった。ただし,早いうちに,海外のしかるべき論文誌に投稿し掲載されること,という条件付きの合格である。私には取り立てて人望がないにもかかわらず,委員の先生方が一生懸命擁護してくれた。私は,大変恐縮してしまった。

 さて,試験の前に,ひそかに耳打ちされていた。それは,論博の審査委員の先生方には,お礼として菓子折りと百貨店の商品券を差し上げることだ。現金ではあまりに生々しいので,商品券でということである。あくまで慣例としてであり,文章化されている訳ではない。しかし,先生方は何の得にもならない審査委員を引き受け,面倒な書類作成や会議の招集などを行うのであるから,申請側としては,何かお礼をしたいと思うのは当然の気持ちであろう。その額は全く想像できなかったので,以前その大学から論博をもらった方々何人かに密かに打診した。どの方もなんとも歯切れが悪かった記憶がある。規則化されていないのであるから,当然のことであろう。それらを準備して,学位授与式に臨み,各委員の先生の部屋を回って歩いた。先生方それぞれに,海外の論文誌に必ず投稿し発表するようにと言われた。しかし,もらってしまえばこちらのものである。この歳になるまで,約束を果たしていない。背信行為の極みだ。

 6月に,学位授与式があった。私は,「工学博士」という呼び名の最後の受領者になった。この後,称号の日本表記が「博士(工学)」に変わるのである。括弧の中に専門分野(文学,理学,医学など)が入る。その帰り,地元で世話になった人達に,生鮮品を直送したり,土産をたくさん買ったりした。私は,対人緊張しやすく,人付き合いがうまくできない。ところが私には,自己顕示欲が強く,お調子者という正反対の性格も同居する。そのため,人に会えば委縮したにも拘らず,鼻っ柱の強い人間,明るい人柄と誤解されることがあった。そんなことだから,授与式が終わり,帰りの飛行機を待つ間,私は喜びを押し殺し,勇んでいた。

 

「こんな学位記なんぞ無くたっていいんだ。称号がなくても,いい研究をして賞賛を得る」

 

つづく