SENSAIまさの備忘録

繊細気質まさの過去を振り返る

これまでのこと14 工学博士とB先生 Ⅳ

これまでのこと13からのつづき…

 

 その後,機会があればA大学に寄って,B先生とお話しさせてもらった。難しい問題もまだ残っていたのである。B先生に教えを乞うていた初期の頃,研究室は,会社の人や高専の先生,大学院博士課程の学生などたくさんの人で大賑わいであった。しかし,私が博士号をもらった頃から,様子が変わっていった。B先生が教授とけんかをしたという。教授が別のテーマをやるように言ったが,先生は拒否したらしい。先生いわく「や―,教授から,お前は最低の助教授だと言われたからねー」

また,博士課程の男子学生が一人いた。彼は,最初の頃,B先生の手法で研究し,論文も出していた。それが,B先生が教授とぎくしゃくし出した辺りから,手のひらを返したように,別の手法で勝手に解析を始めた。それは,世界でトレンドになっていた手法であった。彼は,B先生とコンタクトすらしなくなったという。その後,博士課程を中退して,助手になったが,博士論文を出すことができなかった。結局,B先生の計らいで,先生の手法でやった過去の論文を集めて,博士号を得た。情けない奴だと思う。笑止千万である。

 その後,B先生は不遇をかこった。教授は,定年前に病気で亡くなったが,B先生を教授に推す声は聞こえず,別の教授の下についた。そして結局,助教授のまま定年を迎えた。私は,定年前に何度かB先生のもとを訪れた。この頃は,片隅の先生の小部屋で近況報告をするだけだった。そこは悲しいほどに,ひっそりとしていた。時折,思い出したように修士課程の学生が訪ねて来た。あとは誰ともコンタクトがないように見えた。

 

 B先生が定年後,教え子で一番若いN君が,先生を囲んでの謝恩会,懇親会を開いた。B先生が用事で東京に来るというので,東京に集まったのである。教え子は在京の人が多いので,都合がよかった。6~7人が集まり,現況報告など,話に花が咲いた。また,N君が先生の論文をまとめて,製本しハードカバーの冊子にしていることを報告した。実は,この集まりのかなり前からそういう話をしていた。しかし,論文別刷りをそのまま製本して多数製作するのは著作権上問題があり,滞っていた。普通,著作権は,掲載された雑誌や学会にあった。そこで,すべてをコピーし,私的利用ということで,先生に1冊だけ進呈することになった。その後,宴会が始まった。B先生に対する理不尽な扱いを憤慨し,全員ぐでんぐでんに酔うほど飲んだ。私も酩酊状態でホテルに帰った。

 

 

 それから数年後,その連絡は突然だった。

 

「B先生がお亡くなりになりました。すでに,通夜,葬儀は執り行われました」

 

死因は心筋梗塞である。70歳の若さ,定年からわずか5年後のことであった。直前まで,毎日欠かさず犬の散歩をやっていた。それも,健脚のB先生のことである,1度散歩に出ると2時間も帰ってこなかった。予期しない急逝で,家族も最初は,信じられなかったと聞く。急いで手紙を添えて香典を送った。お返しは不要と書いたが,奥様から丁寧な返事とお返しが送られてきた。

 B先生のお宅にお参りに行きたかったが,なかなか時間が取れなかった。2年ほどたって,ようやく行くことができた。奥様に連絡して,家に伺った。奥様は,年の差がある幼馴染と聞いていた。小柄で痩せた方である。私は,位牌の前で「先生,遅くなりました。やっと来ることができました」と大きな声で言った。それを聞いて,奥様は感激したらしい。

そのあと,奥様と直接話をした。前日まで至って元気であったという。奥様は,娘さんのことで東京に出かけた。その日の夜,先生は体調が悪くなり,自分で救急車を呼んだ。そしてそのまま玄関で倒れていたそうだ。保険証や財布などを持ち,身支度を整えたままで…。

いつも一緒に散歩をしていた犬は,その日からひと月ご飯を食べなかったという。

 

ずいぶん長く奥様にお話を聞いた。ふと見ると,奥様のわきの下がどんどん濡れてきている。ああ,強く緊張しているんだなあと思った。私と同じ性格の人なのかもしれない。それとも,B先生を思い出してのことだったのだろうか。