SENSAIまさの備忘録

繊細気質まさの過去を振り返る

これまでのこと17 山川先生(小学校)Ⅱ

これまでのこと16 からの続き

 

 この話は実話をもとにしたフィクションである。氏名は仮名であり,敬語を省略した。

 

 クラスの男の子の間で,ちょっとした,いけないことが流行った。錠を開ける合鍵づくりである。クラスのガキ大将を中心にした10名ほどの集団だ。あるとき,手先の器用な生徒が,簡単な合鍵を作ったことがきっかけだった。いわゆる南京錠という,持ち運べるハンドバックのような鍵である。南京錠の仕組みは単純で,小学生でも合鍵が作れてしまうのだ。合鍵の作り方は至極簡単だ。比較的柔らかい針金を二つに折る。そのうち一本を,折ったところから,適当な距離で垂直に外側に曲げる。それを今度は,適当な長さで,内側に折り曲げる。そしてまた,残りの一本と平行に曲げる。そうやって,突起を作る。突起の高さは,鍵穴の大きさに合わせる。これが,鍵の中の回転部を回す突起になる。この突起を2つか3つ,高さを種々変えて作れば,たいていの鍵は空くのである。このままでは弱く,鍵を回そうとすると,変形して回せない。そこで,最後の仕上げに金槌で針金をたたき,適当な厚さにつぶすのだ。

 鍵なしで開錠することをピッキングという。現在,これは「特殊開錠用具の所持の禁止等に関する法律ピッキング防止法)」で禁止されている。開錠道具を所持するだけで犯罪である。しかし,私が小学生の頃は,このような法律はなかった。

 私も真似をして合鍵を作り,家にある南京錠を開けて楽しんだ。学級のつわものは,たくさんの鍵を束にして,腰にぶら下げじゃらじゃらいわせ,悦に入っていた。

 

 さて,具合の悪いことに,学校の普段使わない部屋は,すべて単純な南京錠で鍵をかけてあった。木造2階建ての古い校舎である。いたずらっ子たちが,そこに目を付けるのは,至極当然のことだ。誰かが,学校の○○教室の鍵が開いたと自慢した。さあ,それからが大変である。我も我もと各鍵のかかっている部屋にトライし始めた。次々と鍵が開いていく様子は,痛快である。秘密の扉を開ける気分で,ワクワクした。

 その中に,男の子たちが興奮する部屋があった。体育用具が置いてある用具室である。狙うのは始業前の朝だ。先生方も生徒たちも朝は通らない。5~6人の集団で,こっそり部屋へ入り,体操マットを引きずり出して,その上で遊んだ。何回か遊んでいるうちに,ついに先生に見つかってしまった。わいわい騒いで遊んでいれば,見つかるのは時間の問題である。見つけた先生から,山川先生に連絡がいった。

 教室で,ひとしきり怒られたあと,かかわった生徒が教室の前方に立たされた。全部で7~8人の男子生徒たちだ。先生は,数の多さにびっくりしたようだ。またじっくり怒られてから,端から一人一人,罪滅ぼしに何をするか話せと言った。私は,思った。「確かに悪いことだ。しかし,それがどの程度悪いかは,管理する側が決めることではないのか。僕たちに何をするかを聞くのは,お門違いである」そう,私も6年生になり,そういう大人びた考え方ができるようになったのだ。そもそも,各部屋の鍵が,これほど簡単に破られる(しかも小学生に)ことは,管理責任者として失格ではないか。と,今は思うが,その時は,さすがにそこまでは考えなかった。もちろんいけないことである。しかし,なんと可愛いいたずらではないか。物を盗むわけではないのだ。現代の,クラス全体で一人をいじめるような陰湿な行為より,数百倍も健康的だ。いじめ方も堂に入っている。自分がやられたら一番嫌なこと。一番恥ずかしいことを,練りに練ってやる。まるで,マフィアやヤクザではないか。SNSもそれに拍車をかけている。それに比べれば,当時の私たちは,本当に,のびのびとしている。

 各生徒は「用具室を掃除します」「用具室の床を毎日拭きます」など,様々な贖罪のやり方を競った。私は,それはおかしいと思ったので,自分の番が来たとき

「先生のおっしゃる通りにします」

とびくびくしながら小声で言った。先生は,すかさずむっとした口調で,

「なに?先生が悪いっていうのか?」

と言った。私は「え?そんなこと言ってない。何でそう取る?」と思いながら,ドギマギし,体がこわばった。

 この後どうなったかは,まったく覚えていない。もちろん合鍵遊びは終焉となった。

 

 私の小学校の各種委員会委員長は,6年生がやることになっていた。各クラスに委員長がいくつか割り振られ,先生が独断で,決めていた。私は,過去の委員をやった経験から,図書委員会の委員長だけは嫌だと思った。その委員会は,うるさいおばさん先生が指導教員だった。その先生は,図書委員会の会議の時,窓際に折りたたみいすを出して,怖い顔をして座っている。そして,会議では,しょっちゅう口をはさみ,委員長が怒られるのであった。また,図書の仕事そのものも,実に面倒なのである。

 山川先生が,委員会の委員長を発表していく。私は,図書委員会委員長だけは,やめてくれと願った。先生が黒板に書きながら言った。

「図書委員会の委員長は…」

私の名前が呼ばれた。目の前が真っ暗になった。私は「なぜ自分の希望を聞いてから,選出してくれないのか」と,腹立たしかった。低学年では,学級委員長以外は,長のつくものはない。大体は,クラスの投票で各委員が選ばれた。学級委員長は,いささか面倒だった。しかし,それ以外は,特に負担に感じるものはなかった。例の図書委員以外は…。私には,たとえ先生であろうと,嫌なものは嫌と思う自我に目覚めていたのだ。では,先生に直訴できなかったのか。小学生で,しかも気の弱い私には,まったくそういう考えは思い浮かばなかった。

 そんな具合だから,私は最初からやる気がなかった。図書委員会の会議の日は,地獄のような気分だった。ほかの委員会は,生徒会議室を使ったり,教室を使ったりしていた。机を並べて,四角く囲い,対面で会議をする。委員長も委員も座って議事を進行する。しかし,図書室の机は,周囲にグルッと5~6人が座れる,長方形の大きなものだった。したがって,大きくて,重く,円卓にできない。机を動かすことなく,委員はその机のまわりに座った。そして,委員長と副委員長は,立って議事進行をやるのである。あのうるさいおばさん先生は,その傍に座って,目を光らせている。

 事前の打ち合わせは全くなかった。移動式の黒板に,その日の会議のテーマが箇条書きに書いてある。それに従って,議事を進行していくのだ。しかし,図書委員の仕事など,まったく記憶にない私には,議事の内容の意味さえつかめない。おばさん先生に,叱責されながらの会議であった。

 何度目かの会議の朝,ついに私は,行動した。会議は放課後行われる。その日の授業は,悶々として何も耳に入らなかった。そして授業が終わった後,私は決心した。今日は,行かない。もろもろの経験から,山川先生のところへ,話に行く気にはなれなかった。しかし,黙って休むのも具合が悪い。そこで,下足箱のある玄関でちょうど出会った,同級生の渡君に,ことづてを頼むことにした。

「渡君,今日は体調が悪いから,図書委員会の会議を休むよ。山川先生に伝えてくれ」

渡君は,きょとんとしていた。

「え?なに?会議?何のことそれ」

私は一通り,私の立場を説明した。渡君は,どうも要点をつかめないでいた。私は「とにかく頼む」と言って,家に帰った。渡君は,どちらかというと,気の小さい生徒である。私は,これは駄目だなと感じた。その日は緊張で,眠れなかった。私が行かない会議は,どうしたろうか。おばさん先生は怒っていることだろう。辛い一夜だった。

 次の日の朝,クラスの朝礼で,開口一番山川先生が言った。

「まさ君,黙って図書委員会を休んだの?連絡しないとダメじゃないか(笑)もう6年生なんだからそれくらいできるだろう」

…それだけだった。この「大した話ではない」という雰囲気は,どこから来るのだろう?

 私は完全に意欲を失った。その後の図書委員の仕事を,さぼりにさぼった。委員が図書館にいるときに着ける腕章まで,返すことを忘れ,大騒ぎになったりした。私はもちろん,返したはずだと嘘をつき続けた。

 

 とうとう2年間,私は山川先生に,呼び出されたり,引き留められたりして,個人的に叱られることはなかった。

 

 先生の中途半端な態度は,どこから来たのだろう。ほかの子に比べれば,大それたことをするような子ではないと思ったのだろうか。それとも,私のことを思って,この子はこういう性格だから,叱らないようにしようと考えてくれたのか。父親は,私の性格を見抜いていた。社会人になって,付け届けなど,うまく立ち回って出世するのは無理だろうと考えていた。心配して,山川先生にそれとなく話をしていたのかもしれない。今となっては,分からない。過去を回想するようになって,ずいぶん前に亡くなった父,母に問うてみたいことがたくさん出てくる。残念ながら,今はもう詮無いことである。

 

 結局,私は先生を嫌いになった。多感な青春に,ほんのわずか足を踏み入れた年代である。小学校5,6年生の2年間は,黒歴史として私の頭に刻み込まれてしまった。

 

 先生には申し訳ないことである。