SENSAIまさの備忘録

繊細気質まさの過去を振り返る

これまでのこと18 就活顛末記1

 私は,大学の工学部4年生になった。いよいよ,就活をしなければならない。私が工学部を選んだのは,まことにいい加減な理由からだ。その原因は,小さい頃に遡る。

 

 私は,漫画が好きだった。幼稚園の頃には字が読めるようになったので,小学館の学年シリーズを毎月買ってもらった。特に漫画を好んで読んだ。小学校に入るとすぐ,歯医者の長男と友達になった。彼は,自分で漫画を描いていた。将来は漫画家になるんだと,自負していた。鉛筆書きの他愛ないものである。しかし,僕はびっくりした。小学校1年生で,自分の職業を決めているのだ。(もちろん彼は,歯医者の跡取り息子である。どこで折り合いをつけたのかわからないが,結局父親の歯科医院を継いだ。)彼に感化されて,自分もこっそり漫画を描くようになった。漫画家になるなど,これまで考えもしなかった。しかし,彼のおかげで,もしかすると自分もなれるのではないか思ったのだ。お気に入りの漫画家がいた。その絵が好きだった。自分の絵は,その作家の絵と酷似するようになる。ありがちなことだ。中学になると,漫画家もそうだが,ストーリーの巧みな作家も好きになる。描く漫画も,マニアックなものになった。中学では,さすがに真剣にプロを目指す輩も出てきた。(彼は,高校を出るとすぐ,有名漫画家のアシスタントになった。そして,21歳で,少年ジャンプに連載を始めた。私は,大変衝撃を受けた。)私も,ペンとインクで書くようになる。ところが,ストーリーの大枠はできるが,最後まで絵を描き切ることが出来ない。描いているうちに,自分の絵が気に入らなくなり,途中で止めてしまうのだ。全く,根気がないのである。友人でもいて,一緒に描くなどすればよかったのだが,私は一人を好んだ。

 中学も卒業間近の頃,学校誌に何か書かなければならなくなった。仕方がないので,漫画用にメモしておいたショートストーリーを,小説仕立てにして提出した。題目が思いつかなかったため,空白にしておいた。しばらくして,学校で,国語の先生が私のところへ来た。「表題を○○にしたから」と言う。私は,こわばった笑顔で,いい加減に頷いた。何のことかすぐにはわからなかった。しばらくして,提出した小説のことだとわかった。「○○?なんでそうなるのか,よくわからないなぁ」と思った。当時,永島慎二の「漫画家残酷物語」に入れ込んでいた。それをまねて,青春の挫折やペーソスなどを題材にした,漫画のストーリーを色々考えていた。また,簡単なことを,わざと回りくどい言い方をして,哲学的雰囲気を出すのに凝っていた。それが,色濃く出た,ショートショートである。これは,冊子になったときに,評判が良かった。学校誌に小説など描く輩はいなかったので,珍しかったのであろう。それを見た,文学好きの男子生徒が,私に話しかけてきた。それから,彼とは大の仲良しになった。それ以来,彼とは,べったりとなり,高校1年まで続いた。しかし,彼が高校2年で転校してからは,親しい友人を作る気も起きず,ほとんど一人になった。

 高校生になると,ますます絵が描けなくなった。理想が高すぎて,つたない自分の画力に落胆した。せっせと下書きをするが,ペン入れを2ページもすれば気に入らなくて,止めてしまう。ストーリーも大人びたものが好きになった。また,中学での学校誌以来,文学に興味を持った。しかし,いかんせん,集中力が持続しない。言い換えれば,ワクワク感が,文章を読むことによる疲労で萎えてしまう。芥川賞受賞作品のような,単行本一冊が,私には,大長編に感じられるのであった。それから,哲学に興味を持った。ちょこちょこ勉強していたところ,倫理社会に簡単な哲学者の紹介が出て来て,倫社が好きになった。これだけは,勉強せずとも,点が取れた。

 

 さて,そのようなことから,自分は文系だと思っていた。しかし,大学文系を出たとして,どんな職業があるのだろう。私には,そのとき「営業」しか思いつかなかった。私の性格では,営業職は容易ではない。緊張しやすいこと,一人が好きなことは自覚していた。もし,しっかりした社会人に将来を相談できれば,職業の選択や進学意欲が大きく変わっていただろう。しかし,大人に相談することなど,考えつかなかった。一方,私はなぜか,数学でいい点が取れた。高校数学などは,ルールに縛られたクイズのような感覚だった。本当の数学は,もっとずっと奥が深い。むしろ,哲学である。数学同好会の同級生がいた。彼らは,数学オリンピックのような問題に挑戦していた。それは,自分には無理だと思った。どう解答を導くのか,皆目わからない。また,数学は集中力の持続が最も重要なことは明らかだった。いずれにせよ,高校数学は苦手ではない。そこで私は,理系,特に就職が良さそうな工学部に行こうと考えた。エンジニアなら,何か物を作っていればいいだろう。対人関係に気を使わなくてもよさそうだ。そして,会社が終わる夕方5時から,好きな漫画や文学,哲学をやろう,と考えた。もちろん,今思えば,浅はかな考えである。エンジニアであっても,対人関係は重要であり,商品の研究,開発は,片手間にやれるものではない。そもそも残業が多いし,退社したらへとへとである。とにかく,私は,ものを知らない。同級生が理学部を受験すると聞いて,「理学部なんて行って,就職はできるの?」と彼に言った。大学は,就職予備校と思っていたのだ。

 

 前置きが長くなった。そういうわけで,何とか大学工学部4年生となった。当時,文系の友人たちは,今と変わらない就活をやっていた。しかし,工学部では,ほとんど推薦制だった。各企業に人数割り当てがあって,早い者勝ちであった。もちろん,中には自由応募の人もいた。私が配属された研究室の先輩は,希望する会社に入社できなかったため,留年して再挑戦した。研究室の教員たちを相手に,何度も面接の練習をしていたのを覚えている。私は,何となく大手電機メーカーを希望した。誰もが知っている,大手だからという単純な理由である。また,ほかの学生があまり話題にしない会社ということもあった。学生にとって,行きたいと思うトレンディーな会社は,競争が激しい。それは嫌だった。研究室(卒業研究で所属していた)のA教授に申し出たところ,幸い推薦してもらえることとなった。

 就活の準備は,何もしなかった。それは,以下のような不遜な考えからである。「ありもしないことを,面接で言っても後が心配である。地の私を見てもらい,会社が判断すればよい。これぞ,まさにマッチングである」何しろ,その会社を選んだ理由が,さもない理由だ。だから「会社で何をしたいのか」「なぜその会社でなければならないのか」という,まさに就活の肝の部分を,まったく考えなかった。今でも,そういう学生がいて,エントリシートを出した段階で落とされている。実は,私は会社を過大評価していた。つまり「性格テスト」「能力試験」「専門科目のテスト」それと「面接」でちょっと話をすれば,会社は何でもお見通しであろうと思っていたのである。今なら,私も多少社会経験を積んでいる。短時間の試験や面接で,人ひとりのことが全て分かる筈がない。

 さて,いよいよ試験の日が来た。試験は,東京で行われた。移動手段は自分で準備した。旅費が支給されたかどうか,記憶していない。試験の前日に出かけて,宿泊場所は会社が用意した。かなり古風な旅館であった。次の日,私は仕立て下ろしのスーツを着て,会社へ出かけた。当時は,リクルートスーツなどは無く,各人各様のスーツを着ていった。私は,明るいグレーの縦縞のスーツである。今は,みな真っ黒なスーツを着ていて,集団になっていると不気味である。当時の方が,健全な気がする。実は,私はこれまで長髪であった。学生のことである。床屋に行くのが面倒なので,自分で適当に切っていた。長髪と言っても,襟足の生え際でそろえる程度の長さである。さて,就活ということで,リクルートカットにした。そうしたら,A教授が,さっぱりした私を見て,絶句した。別人のように思えたようである。絶句された私の方が,逆に驚いた。

 

                                 つづく