SENSAIまさの備忘録

繊細気質まさの過去を振り返る

これまでのこと19 就活顛末記2

 会社に着くと,驚いた。意外に多くの同級生がいたのだ。いよいよ,試験が始まった。能力テストは特に問題なし。専門の試験は,準備をしていかなかったので,あまりできなかった。続いて,性格テストである。私は,尖った自分を評価してもらおうという考えに取りつかれていた。自分の性格を誇張しようと,意識的に回答した。普通に考えたら,その回答は負の評価にしかならないだろう。気が小さい。失敗するといつまでもウジウジする。緊張しやすい。文系人間である。仕事に意欲はない。退社後に好きなことをしたい。ありとあらゆる負の側面を,いやというほど際立たせた。これは,目立つなぁと,一人悦に入っていたのである。採点担当は,結果を見てびっくりしたのではないか。調べたわけではないが,恐らくこのような回答をしたのは,日本広しといえども,私だけであったと確信している。もっとも,最近,素の自分を見せようとする学生に出会った。当時も,私と同じことを考える学生が居たかもしれない。

 一方,面接で一番苦労したのは,その会社を選んだ理由である。慌てて考えたのが「御社の創業者は人を使うのが上手である。私をうまく生かしてくれるのではないかと思った」である。会社そのものに対する,思い入れがまったく感じられない。そもそも「どんな仕事をしたいのか」に触れていない。果ては,大学では一桁台の成績だとか,尊敬する人物は,ウィトゲンシュタイン(独語ではヴィ…)だなどと,あらぬ嘘までついている。そして「それにしては,専門の成績が良くないね」と返される始末である。「正直に,ありのままの自分を見せる」筈だった。しかし,所々に邪念が入り,自分をよく見せようとした。なんとも情けない話である。

 

 帰りの特急で,中学校の同級生とばったり会った。背は低いが,運動神経の良い男子である。中学では,バスケットボールをやっていた。とても優しい子だった。一緒に座って,彼の壮絶なこれまでを驚きを持って聞いた。彼は,高校を出て理容師になった。理容チェーン店の本店で修業した。弟子時代,カットの修行のため,毎日夜中までトイレットペーパーをはさみで切る練習をした。また,理容大会に同僚が出場した。モデルになったのは、店長であった。そして,焦りから店長の耳を切ってしまった。同僚は慌てたが,店長は「黙ってそのまま続けろ」と言ったそうだ。トルコ風呂に贔屓のトルコ嬢がいて通い詰めた。私は,そういった,刺激的な経験談を拝聴した。私の知らない,社会人生活の苦労話を聞いて,自分の能天気ぶりを大変反省した。就活の話をしたとき「まさなら大丈夫だよ」と優しく言ってくれたのが印象に残っている。今回の入社試験は,恥ずべきことで,考え直さなければならない筈であった。しかし,私はそれに気づいていない。しかも,同級生の言葉を真に受けて,ひょっとすると会社に受かるかもしれないと思うのだった。

 

 帰ってしばらくして,A教授室に呼ばれた。入社試験は,不合格であった。「成績等は問題ないが,性格が…」と言われたそうだ。「君,何をしたんだね」と聞かれたが,性格検査の件は言うことは出来なかった。今思えば,性格だけではなく,専門試験や面接も含めて,総合的に評価されたのであろう。私の入社試験に対する考え方は,明らかに間違いである。しかし,その時私は大変落胆し,大きな精神的ショックを受けた。会社のお眼鏡にかなわない場合は仕方がない。さっさと次に進む筈であった。しかし,自分自身を騙していたようだ。周りと違う人間ほど,会社は興味を持ってくれると確信していた。その自信が,折れてしまったのである。

 次の日,傷を癒す間もなく,私は,就職担当のB教授に呼び出された。落胆していた私は,これからのことなど考えられなかった。B教授の,今後どうするつもりかという質問にはっきり答えることが出来なかったのである。B教授は,いらいらし,私を叱り始めた。叱られると,ますます縮こまってしまう。話をしているうちに,地元に残るのはどうか,という流れになった。そこで,実家近くの会社はどうかという話になった。大手電機メーカーが100%出資している会社である。しかし,すでに推薦期間を過ぎている。B教授は,その場で会社に確認の電話をした。残念ながら「すでに地元大学の修士学生を採用する予定」と言ってきた。教授は,「本学の学生はモノが違うのに」と不機嫌そうに言った。

 さて,改めて,受ける会社をどこにするか悩んだ。B教授は業を煮やして「ここにしましょう」と押付けがましく言った。全く名前の聞いたことのないCという会社であった。しかも,事業所のある場所は,かなり田舎である。私は返答を渋っていたが,結局,何日か後に試験を受けに行くことになった。C社は創業間もない会社だ。独自の先端的な,集積回路を設計,製作する会社である。B教授は,電子回路工学が専門であった。そのため,C社が直々に求人に来ていたのであろう。

 試験当日,C社までの行程を十分下調べし,出発した。東京行きの特急を途中下車し,下車した駅からバスで結構な距離を行く。バスには,数人しか乗っていなかった。いい天気だ。バスはどんどん,山の方へ走っていく。ほどなく,民家がまばらとなり,畑が一面に広がる地域にでた。防風林すらもない,真っ直ぐな一本道である。なんと田舎であることよ。私は,心細くなった。先に受けた会社の入社試験が,東京のど真ん中であったため,なおさら寂しく感じた。そろそろ,目的のバス停に到着するはずだ。緊張して,運転手のアナウンスを待つ。それらしいバス停の名前を言ったので,急いで,降車ボタンを押した。しばらくして,バス停らしき標識が見えた。さて,と思った時,あれ?私の見間違えかと慌てた。バスは止まらずに,バス停を通り過ぎたのである。100mくらい走ってから,運転手が「あっ」と叫んだ。そして,道の左端に寄せて止まった。私は,慌ててお金を払って,降車した。そう,恐らく通常は,そのバス停で降りる客など殆どいないのだ。運転手は,いつもの感覚で素通りしてしまったのだろう。私は,だだっ広い畑の中の一本道に,ポツンと一人取り残された。仕方がないので,とりあえず,通り過ぎたバス停に向かって,とぼとぼ歩き出した。しばらく行くと,工場のような建物が遠くに見える。特に道を間違えることもなく,C社にたどり着いた。遠くから事業所の建物が見える地域である。道に迷うような,込み入った道路などなかった。こぢんまりとした事業所である。小さな,講堂のような部屋に案内された。筆記試験をやったはずだが,ほとんど覚えていない。作文には,また懲りずに,尖ったことを書いたという記憶がある。その後,面接が行われた。しかしこちらも,まったく記憶がない。一通り,入社試験が終わると,どうやって帰るのか聞かれた。「この後の特急で帰る」というと,「用事もあるので,駅まで車で送っていこう」と言われた。願ってもないことである。C社の人(役員と思われる)二人が乗った自家用車に便乗させてもらった。

 

 しばらくして,C社から合格通知が届いた。しかし,私は,その時すでに冷静になっていた。そして,何故C社を受けることになったのか自問自答した。今回の会社選びには,自分の意志が全く反映されていない。B教授に言われるままに,入社試験を受けた。しかも,出来たばかりの小さな会社である。私は,大手電機メーカーを狙っていた。したがって,私にとって,C社に入社することは,痛く自尊心が傷つくことになった。今思えば,なかなか良い会社である。社員200人強の小さな事業所に変わりはないが,40年以上経った今でも続いている。大手精密機器メーカー100%出資で,資本金10億円だ。小さいが,きらりと光る,自分にはもってこいの会社だ。私は,総合電機メーカーの大きな組織では,生きていくことは出来なかっただろう。大きな会社では,自分の好きな仕事ができる訳ではない。また,器の小さい私では,重要なポストに就く可能性は低い。就いたら就いたで,ストレスも半端ではない。しかし,その当時の私は,会社のことなど何も知らない子供であった。

 しばらく考えた後,私は入社を辞退することに決めた。急いで,長い,断りの手紙を書いて郵送した。例によって,自分は文系人間で,哲学をやりたい旨を記した。

 

 そうして,4年生の冬休みが来て,私は実家に帰っていた。夜に突然電話が来た。大学の,研究室からだった。直接卒論の指導してもらっていた,助手の先生からだ。

「君,内定先の会社を断ったのか?」

私は,事の顛末を説明した。

「黙ってそんなことをしたら駄目じゃないか。A先生が先方の社長に,採用に対するお礼の電話をしたら,すでに辞退の手紙が来たと言われたそうだ。急いで,A先生に電話しなさい」

私は,びっくりした。会社の辞退なんて,個人的なことで,大学は関係ないだろうと思っていた。よく考えたら,大学の推薦で受けたのだから,大学の先生に報告すべきだったのだ。私は,急いでA教授に電話をかけた。開口一番「駄目じゃないか,君~」といわれた。あまり怒ることのない先生だったが,今回の件は,かなり戸惑ったようだ。誠に申し訳ないことをした。ちょうど両親もいたので,私の電話の後,母が電話に出て詫びた。実はこの件は,両親にも話していなかったのである。大学も両親も,さぞ驚いたことであろう。

 

 私は結局,その年は就活を行わず,次の年に既卒として改めて就活することにした。私の勝手な思い込みから,初めての就活は,さんざんであった。では,心を入れ替えて,再就活に臨んだのか?いや,まったく反省せず,同じように失敗を繰り返すのである。なんとも情けないことだ。それについては,またの機会に記すことにする。