SENSAIまさの備忘録

繊細気質まさの過去を振り返る

これまでのこと20 教育実習Ⅰ

 この話は実話をもとにしたフィクションである。氏名は仮名であり,敬語を省略した。

 

 私は,工学部4年生のとき,就活に失敗した。そこで,とりあえず卒業し,翌年度に再度就活を行うことにした。いわゆる「既卒」である。次の就活までに時間があったので,聴講生としていくつかの授業を履修した。理科の教員免許を取得するためだ。高等学校の先生も視野に入れて置こうと思ったのである。言ってみれば「でもしか」だ。理科というのは,工学部だからということである。後に,数学の免許も取っておけばよかったと思った。なぜなら,主要3科目,国,数,英は需要が多いのではないかと考えたからである。しかし,今,調べてみると,意外や主要3科目は倍率が高い。一方,社会,理科はそれほどの倍率ではない。ただし,社会,理科の採用人数は,かなり少ないはずなので,主要3科目に比べ,やはり合格は難しそうである。一方,中学校の工業の免許も取得可能だった。しかし,中学校というと荒れているというイメージがあり,二の足を踏んだ。これは,教育実習に行くことになって,全くの取り越し苦労だったことが分かる。この話は,70年代後半のことである。その時代の中学校は「荒れる中学」のほんの序の口だった。そう,80年代になって,いわゆる「ツッパリ」が大流行するのである。

 さて,教員免許を得るためには,2週間にわたる教育実習が必要だ。私は,桜ケ丘中学校で教育実習をすることに決まった。それは,大規模な新興住宅団地「桜ケ丘」の真ん中にある。綺麗に区画整理がなされ,道路が碁盤の目になっている。母子家庭のような低所得の家族から,弁護士のような高額納税者の家族まで,幅広い所得者層が住んでいた。低所得者用に市営団地(アパート)も建設されている。また,町の中央にはショッピングセンターがある。公設小売市場がつくられ,それに隣接する形で開店した。これは40年以上前の話である。現在ショッピングセンターは寂れ,閉店のうわさもある。理由の一つは,スーパーマーケットの大規模化である。ショッピングセンターは,今のショッピングモールに比べ,かなり見劣りがする。二つ目の理由として,自家用車で移動する時代になり,大駐車場を伴った店舗に人を取られてしまったことがある。

 桜ケ丘は,私の住むアパートと駅を中心に反対側にあった。したがって,中学までの通勤は,バスで1回乗り換えて1時間近くかかった。理科の教育実習担当は,小森先生と,もう一人男の先生である。小森先生は,2年生の学年主任だった。また,実習生一人に一クラスが貼り付けられ,勉強以外の生徒とのかかわりを学ぶことになっていた。私が配属されたクラスは2年2組である。担任は石川先生という女の先生だ。教育実習初日,教員室で校長先生が教育実習生(教生)を紹介した。そして「学校が終わって,手ぶらで帰るようでは駄目だ。常に向上心を持ち,勉強を続けなければならない」と訓示した。なぜか,それはよく覚えている。教生は,各科目数人ずつ約20人いた。指導する先生方も,大変だったであろう。各人に日誌とスケジュール表が配られた。その後,石川先生と共に,2年2組へ挨拶に行った。生徒を前に自己紹介をしたが,何を話したか覚えていない。生徒は,思っていたよりずっと小さく,幼く見えた。石川先生は,毎日の日誌記事に,丁寧な感想を書いてくれた。小森先生も同様である。有り難いことだ。

 理科は,4人の教生がいた。私は工学部出身ということか,土木科の大学院生河合君(同じ年齢)と2人組となった。2人の理科の先生が,2人ずつ受け持つ形である。私と河合君の指導教員は小森先生だ。小森先生は,教育実習の二日目に,授業でやることを説明し,あとは我々に任せきりだった。先生は,空いた時間を使って,家庭訪問や生徒指導に当たっていたのである。任されたのは,主に理科室における実験実習である。教室の座学では,実習に関連のある部分を教えることになった。授業については,実施計画書を作って提出する。それをもとに担当者で会議を開き,内容を詰めた。授業内容を考えるのは,初めてのことだったので,テキストの「虎の巻」を見ながら計画書を書いた。なかなか難しかったことを覚えている。

 

 小森先生は,タンクタンクロー(古い漫画である。知らない方はググっていただきたい)のような風貌だった。先生は,先にも述べたように,この時とばかり,家庭訪問や校外に生徒指導のため出かけた。例えば,女子生徒が30代の男の住んでいるアパートに,しょっちゅう出入りしているという情報が入り,様子を見に行った。また,ショッピングセンターの屋上に,男子生徒のグループが集合するということを耳に挟み,現場を押さえに出かけた。どうも他校の生徒と会うらしい。しかし,教生はそれに同行しないので,どんな修羅場になるのか,私には想像できなかった。

 小森先生は,ごくたまに,私と相棒の河合君と一緒に話をした。先生は囲碁が好きだと言う。河合君は囲碁ができるらしい。二人は,囲碁の定石の話をしていた。私には,ちんぷんかんぷんだ。また,先生の同級生が「複数人と同時に話ができるトランシーバーの特許を取った」という話をした。河合君は,勇んで「こうですね」と言ってチョークをつかんだ。そして,黒板に正弦波を書き,それに,同位相,同周期で,垂直な偏波面の正弦波を書き加えた。さすが,土木だ。電磁波のことを何も知らない。それは,電界と磁界だ。私は「まさか」と言って,電磁波に,矩形パルス状に時間分割した信号を入れる絵を描いた。そして「信号を時系列で分割して,同期を取って複数に分け,それぞれ別々にアナログ信号に変換するのではないですか?」と言った。小森先生は「そうだそれだ。友人も同じことを言っていた」と答えた。ひょんなところで,学科の違いによる常識の違いを垣間見たのだった。

 

 ある日,理科担当のもう一人の先生が,私の授業を参観した。メモを取っているようだ。私は,特に気にもせず,いつものように授業をした。どうせ,うまい授業などできないと思っていたからだ。内容は,担当する実験と関連したものだ。実験は,水の表面に細かい粒子の粉をかけ,その広がりから,水分子の大きさを予測するものだった。そこで,水分子の大きさの授業を行った。分子の大きさが3×10-10mというところを,実際に1の前に0を10個つけて,3で割って見せて,こんなに小さいと説明した。私はその部分が,気に入っていて,自画自賛していた。そういうときは,うまく生徒に話しかけることが出来るものである。あやふやな知識を教えるときは,ドギマギしてしまう。その先生が,私の授業に,どのような感想を抱いたのか,聞くことはできなかった。帰り際に,男子生徒が私の所にやってきた。彼は,5cm四方の紙を私に手渡した。その紙には,授業の感想がびっしり書いてあった。字は,とても小さく,今の私には,見えなかったかもしれない。「ゆっくり話すので,先生らしかった」,「黒板の書き方の注意」など,10項目くらいあった。なんとも有り難いと感激した。

 ある時,その先生を囲んでの意見交換会があった。教室の机を合わせて,全員向かい合う形にし,先生と理科担当教生4人で話し合った。その場で,私は,一言もしゃべらなかった。先生は,最後,不愉快そうな顔で私を見た。私も,別に意図して話さなかったわけではない。テーマに対して,特段の意見がなかったからである。毎日,必死に教育実習を行っている。初めてのことばかりで,目の前のことで一生懸命だったのだ。「何故」とか「こうしたら」とか考えている暇がない。それに,私の性格で,無理して発言しようとは思わなかったのである。

 

 当時,計算機の能力は低かった。高級言語は,主にFortranである。それでも,機械語アセンブラ)でプログラミングする必要がないので,たいそう楽だった。カードにパンチ機で穴を開け,カードリーダーで読み込ませる。モニターもなく,すべてプリントアウトされるという代物である。メモリはキロビットのオーダーだったと記憶している。実行も,バッチ処理だった。私が工学部で卒業研究をやっていた頃は,計算機は,近似計算を行う手段であった。すなわち,多元連立方程式微積分,微分方程式の近似計算である。現代のPC は,CGを含め考えられることは何でもできる。それと比べれば,当時の計算機事情は,隔世の感どころではない。とにかく,タイプライターの文字,数字,記号だけを,紙にしか出力することしかできない時代である。一回でうまく計算できることは少ない。計算機は,大量の,無用な用紙を山のように吐き出した。それが,大変もったいないのである。紙の裏には何も印刷されないので,計算用紙やメモ書きに使った。

 担当外のクラスで,理科の実験の際,このメモ用紙に実験の段取りと注意点を書いておいた。それを読んだ後,ふと気が付いて「この用紙は計算機のプリントアウトした紙の裏である」と紹介した。計算機など,一般の家庭では,まったく縁のない時代である。これが,好奇心旺盛な男子生徒を痛く刺激したらしい。中学校の男子は,最先端の技術に目がない。そうしたところ,そのクラスを担当している男の教生に,生徒がそのことを話したらしい。教育実習が終了した後,懇親会があった。そこで,彼は私に,理系の学部の人はうらやましいと,盛んに言う。彼は,市内の教育大学の学生だった。教育用の設備は整っているが,物理や化学などの先端研究はできないということである。私は,それを聞いて,少し誇らしく思った。

 

                                  つづく