SENSAIまさの備忘録

繊細気質まさの過去を振り返る

これまでのこと24 母のことⅡ~幼年期

 私が生まれるとき,父は北海道の美幌(びほろ)町にある,自衛隊美幌駐屯地に赴任していた。美幌町は,網走と北見の間にある。女満別(めまんべつ)空港から,車でほどなくの距離だ。町の南は「屈斜路(くっしゃろ)湖カルデラ」の外輪山で,美幌峠という峠道になっている。峠の先は,弟子屈(てしかが)町に至る。美幌峠は,映画「君の名は」第2部のロケ地(昭和28年ロケ)として知られる。この映画は,NHKラジオドラマ「君の名は」の映画化3部作(松竹)である。

 母は悪阻(つわり)が酷く,実家から妹に助けを求めた。鉄道(青森-函館間は連絡船)を乗り継いで来たものと思われる。大変な長旅である。当時,飛行機は一般人には高嶺の花だった。また,連絡も電報であろう。電話は,ほとんど普及していない時代だ。

 そして,私が生まれた。母のオッパイは大きい方だったが,母乳はあまり出なかったという。健康診断の際,痩せ細った私を見て,医者はミルクを飲ませるように言った。ところが,ゴムの乳首を嫌がり,なかなか飲まなかった。それが原因だろうか。私は,あばら骨が出て,手足がやたら細かった。食も細く,母に促されて嫌々ご飯を食べていた。

 母は勝ち気であった。私が生まれる前の話だが,ちょっとしたエピソードがある。父が飲み会からなかなか帰ってこないので,パブ?に見に行ったら,若い女とダンスをしている最中だった。母は父の前に立ち,頬をビンタして帰って来たらしい。話を聞いただけなので,詳しいいきさつは分からないが,母の気の強さが出ている。

 母の勝ち気さについて,やけにはっきり覚えていることがある。私が幼稚園に入る前後のことだ。そこは,布団が敷かれた居間であった。朝,父と母が取っ組み合いのけんかをしている。力は,父の方が強いので,母を組み伏せている。しかし,母は涙を浮かべて叫びながら抗っていた。私は「止めなよ」と言って,2人を離そうとしたが,母に激しく蹴飛ばされてしまった。私は,呆然と2人の喧嘩を見ているだけだった。

 

 私が1歳になった頃,仙台市の北東にある多賀城(たがじょう)町(現多賀城市)大代(おおしろ)に引っ越した。そこに自衛隊の駐屯地があり,転勤したためだ。その頃,駐屯地そばの2軒長屋に住んでいた。南北に2棟,木造平屋が並んで建っており,玄関は南向きである。4軒すべてが,自衛隊員の家族だったと思う。「思う」というのは,私の家の隣にはおばさんが1人で住んでいたからだ。なぜ1人だったのか,聞いたような気がするが,覚えていない。私の家は北の棟の西側にあり,南棟の2軒は,間違いなく自衛隊員の家族で,それぞれに私よりも1~2歳年下の子が一人いた。

 当時を偲(しの)ばせる記憶がある。家屋の西側は,農家をはさんで,駐屯地を囲む土手になっており,東側は広い原っぱになっていた。南棟の東側に,露店の共同風呂があった。屋根があり,木の塀で囲われている。木の桶の風呂だと記憶している。冬はさぞ寒かっただろうし,女性には抵抗があったのではなかろうか。また,原っぱの隅に穴を掘り,家庭ゴミを埋めていた。大人総出で,大きな穴を掘っていたのを覚えている。穴は,ゴミがたまると土をかぶせ,場所を変えて次の穴を掘っていくのだ。まだ,公的なゴミの収集が行われていなかった時代である。

 母の,当時のモノクロ写真を見ると,上の前歯が1個しっかり金属で,黒く写っている。その頃,歯磨きをした記憶がない。歯については,その程度の関心しかない時代だった。おかげで,私の乳歯は虫歯だらけとなる。虫歯で歯が折れても,根っこは残ったままが常態化した。根が取れないと永久歯が生えてこない。そして,上あごの2本の前歯より隣の歯が先に出てしまった。その結果,前歯のおさまる隙間が狭くなり,2本の前歯がVの字になって内側に出てしまう。そうなると,下の前歯が上の前歯とぶつかる。そのため,下の歯が外側に出る反対整合になった。幸い,下の糸切り歯が上のものより内側に出たので,顎が際限なく前に出ることは避けられた。母は,年を取ってから「お前には,やれることは何でもやってあげたが,その歯だけは何とかできなかったのかと悔やまれる」と言っていた。

 

 私は,5歳で幼稚園に入った。柏幼稚園といい,柏木神社の境内に園舎があった。現在は,近くの別の敷地に園舎とグランドがある。家から東に少し行ったところに川(貞山運河または貞山掘(ていざんぼり))があり,その向こう岸をさらに何分か歩くと,園のある神社に着く。

 貞山掘は,江戸初期から明治にかけて作られた運河である。交通手段や荷物の運搬用だ。大きな荷物は河川を使って運ぶ。荷物を積んだ川船が,直接海に出ると不安定で危険だ。そこで,仙台湾の海岸線に沿って並行に水路を作り,荷下ろし場とした。貞山という名は,伊達政宗の諡(おくりな)からとっている。

 貞山掘には,歩行者用の小さな木の橋が掛かっており,毎日その橋を渡って幼稚園に行った。橋の床には砂利交じりの土が載せてあり,中央が高く,欄干の方に傾斜がついていた。登園のたびに,滑って転んで,橋から落ちはしないかとびくびくしながら渡った。貞山掘は治水が悪く,台風が来ると,満潮時によく氾濫した。

 幼稚園の運動場は,神社の境内だった。私は,仲間たちと鬼ごっこをしていた。私が鬼だ。友達を追いかけている途中,滑り台の下を潜(くぐ)った。そのとき,左頭頂部に「ガツン」と強い衝撃を受けた。私はよろけて腰を落とした。衝撃はあったが,痛くはない。あれ?と手を頭に持っていく。そのとき,女の子が「血が出てる!」と叫んだ。全く痛みを感じないのだが,頭からかなりの出血である。園児みんなに寄り添われながら,園舎に帰った。先生はびっくりして応急手当てをし,私を背負って家まで連れて行った。私は,母に連れられて,タクシーで街の外科に行った。何針か縫ったはずである。これが,俗にいう「かまいたち」だったのか。確かに,打撲痛はなくコブもできず,裂傷だけだった。今でも,その傷が頭に残っている。幸い髪が多いので,傷が目立つことはなかった。

 母は,裁縫が好きである。大代では編み機の教室に通っていた。セーターは,すべて母が編んだものだ。洋裁も得意としており,幼稚園や小学校の入園,入学式には,母の手作りの洋服を着て行った。

 

 私が幼稚園の頃,母の長兄の家に遊びに行った。旧高田市稲田である。

 高田は豪雪地帯だ。当然,冬は雪遊びである。裏は広い庭だ。庭の向こうは一面の田んぼだった。いとこが3人いた。姉2人と,末っ子は私と同い年の長男だ。あるとき,姉達が私を落とし穴に誘い込んだ。雪を深く掘り,固めた雪で蓋をしたものだった。ところが,私は穴の上を難なく素通りしてしまったのである。周りのみんなは,びっくりした。私が軽すぎたのだ。先にも述べたように,私はガリガリに痩せていた。

 長兄の家は,入口から奥まで真っ直ぐ土間であった。土間の左手が畳の部屋である。そこは土間より30㎝ほど高くなっていた。だだっ広い畳部屋だ。広いと言っても,幼児の印象である。間口が狭かったから,案外10畳程度だったのかもしれない。その奥の隅に母と私が座っていた。玄関から,いとこの男の子が入って来て,私に向かって「まさちゃん,スキー貸して」と叫んだ。私はそのとき,自分のスキーを持って来ていた。母は,貸してあげなさいと言う。私は幼児であり,お気に入りのものを人に貸すのは嫌だった。それでも,普段はそれほど意固地ではない。ところがそのとき,なぜか最後までうんと言わなかった。母も特に叱りはしなかった。この記憶は今でも,自己嫌悪に陥る思い出の一つになっている。

 

 父は,山形県神町(じんまち)駐屯地に転勤となり,私が幼稚園年長の10月に引っ越した。父の実家は山形市にあり,転勤を希望していたようだ。父は,定年退職までそこに勤めた。神町東根市神町)は,山形空港のある場所だ。山形市から,車で北に30~40㎞とかなり遠い。父は,最初は電車で,次いでバイク,自家用車と通勤手段を変えていった。どの手段を使っても,朝早く家を出なければならなかった。冬場は,まだ真っ暗で,私がまだ寝ているうちに出かけるのであった。

 母は引っ越しの時,仙台から山形へ行く電車の中で「お爺ちゃんとお婆ちゃんのところに行くのうれしいか?」と聞くので,私は「うん」と言ったのを覚えている。母は,楽しいはずがない。それから母は,祖父母が亡くなるまで約15年間,お姑さん勤めをした。ちなみに,その仙台と山形を結ぶ鉄道線は,日本でいち早く交流電化された仙山(せんざん)線である。その当時は,途中まで交流電車で,途中から直流電車で引っ張っていた。すでに蒸気機関車やガソリン動車は走っていなかった。

 その後,転園先の幼稚園を,卒園直前に退園した。そして,そのまま母と2人で,母の実家へ行った。なぜ母がそうしたのか,理由はよくわからない。私の妻が聞いたところによると,父が短期の異動(出張か研修?)になったためだという。父のいないところで,姑と一緒にいるのが嫌だったのではないか。その時,母の弟(私の叔父で,母の兄弟姉妹の末っ子)が蓄膿症の手術をしたばかりだった。その病院に見舞いに行ったのを覚えている。間もなく,彼の具合が悪いという連絡を受け,再度,母と病院へ行った。他の兄弟,姉妹もみな集まったものと思うが,それは記憶にない。その時,彼らは就職や結婚をし,高田にいなかった。だから,実家にいた母が一番に駆け付けたのであろう。容体を心配しながら夜になった。私は病院の,灯りのついた廊下で,漫画月刊誌を読んでいた。ぼんやりとした記憶がある。結局,叔父は亡くなった。母は「弟は前夜に,禁じられていた酒を飲んだ。そのせいで,容態が悪くなった」と言っていた。今考えると,眉唾物である。何らかの原因で髄膜炎を発症したのではないだろうか。