SENSAIまさの備忘録

繊細気質まさの過去を振り返る

これまでのこと27 歯医者の息子

 小学校1年生のとき,歯医者の息子と同級生になった。当時,彼はまごうことなき中流家庭のお坊ちゃまである。2階建ての「歯科医院」兼「自宅」には広い庭と池があった。日本庭園風の立派な庭である。正面から,外階段を上った2階が歯科医院の治療室だ。2階の治療室の奥と,1階すべてが家族の居住スペースとなっている。1階の居間には,漫画単行本がたくさんあった。見たこともないおもちゃも置いてあった。プラモデルもふんだんにあった。初めて触れる中流家庭の家に,強いカルチャーショックを受けた。私の家も新築で,総2階の木造建築だったけれども,洋風の彼の家は敷地面積が広く,数段豪華だった。

 1階から入ってすぐの居間は,広い洋室である。その奥に畳敷きの和室があり,TVが置いてある。家族がそこで食事をした。父親の母と思われる,お婆ちゃんが一緒に住んでいた。1階には,恐らく彼女のための和風の居室があったろう。彼の部屋は2階にあった。洋式のフロアー仕立ての6畳間?である。窓際に机も置いてあったが,彼は床のテーブルで,マンガを描いていた。なかなか手が器用で,プラモデルを作るのも上手だった。覚えている部屋はそれだけだ。

 

 彼の母親は,気難しい感じの人だった。よく彼の家に遊びに行ったが,行くと必ず「今度は『まさ』ちゃんの家で遊びなさい」と言った。「何で他人の子の面倒を見なければならんのだ」と言わんばかりである。何故か,いつも不機嫌な顔をしていた。

 彼は何度か私の家に遊びに来た。彼の母親が,私の家で遊べと言うのだから仕方がない。初めて来たとき,母がインスタントコーヒーを牛乳で溶いて出してくれた。こんなもの,おぼっちゃまの口に合うだろうかと心配した。しかし,彼はそれを珍しがって,大変喜んでくれた。私は嬉しかった。

 歯科医の父親は,お祖母ちゃん似である。細くて優しい感じの人だ。しかし,歯の治療の時以外にあまり接点がなかった。

 彼には妹が一人いた。いつも,一緒に遊びたそうに我々に近づいて来る。そのたびに彼は,迷惑そうな顔をした。そして母親に,どこかに妹を連れて行ってくれというのだ。妹とは,小学生の頃から会っていない。もう,お婆ちゃんになっているだろう。

 彼のお婆ちゃんは,いつもきちんと和服を着ていた。小柄で痩せた,品のいい人だった。子供にはたいそう優しかった。1度「ウルトラマン」を見せてもらったことがある。当時,私の住んでいる街には,TBS系の地方局がなかった。そこで,何やらチューナー,アンプのようなものをかませて,隣県から流れてくる電波を拾って,観ることが出来た。

 その頃,私はもう高学年になっていた。確か,歯の治療に来たところ,治療してくれた彼のお父さんが,寄って遊んで行けと言ってくれたのだ。そして,治療室の裏口から,彼の居室に連れて行ってくれた。彼はびっくりして「何しに来た?」と言った。高学年になって,彼とはクラスが違っていたから,久し振りだったのである。

 しばらく遊んでから,彼が「ウルトラマン」を見ていけよと言う。私は,逡巡していた。彼の母親は,迷惑そうにして「帰れ」と言う。ところが,お婆ちゃんが「いいじゃないの,見せておやりよ」と言ってくれた。そして,僕は初めて「ウルトラマン」を観た。

 その日は,怪獣が2匹出て来る豪華版だった。2匹は,最初は別々に登場する。それが,暴れながら,運命のようにいつしか鉢合わせし,戦いを始めるという話だった。調べると,第19話「悪魔は再び」の青い怪獣アボラスと赤い怪獣バニラだ。

 放送時間は,19:00から30分であったから夕飯どきである。だれか家に電話してくれたのか,夕飯をご馳走になったか,記憶がぼんやりしている。番組が終わって,暗い道を,ウキウキしながら帰ったのを覚えている。彼のお婆ちゃんのおかげで,今でも忘れない思い出である。「ああ,亡くなってもこうやって記憶に残るんだ。私も,他人や子供に善行をしておかないと」と思う今日この頃である。

 

 私と彼が一緒に写っている写真が何枚かある。一つは,私の家である。窓から二人で顔を出しているところを,同じ壁沿いにある別の窓から撮ったものだ。二つ目は,花見の写真である。Gと母方の祖父,Gの実家の爺さん(誰だかわからん)が一緒に写っている。なかなか貴重だ。

 彼の家の庭には池がある。そこで遊んだ記憶がある。ゴジラのプラモや船を浮かべて,映画の真似をした。私を撮ったカラー写真がある。モデルのように,庭の大きな岩の前に立っている。彼が撮ってくれたものだ。当時,カラー写真は珍しかった。何故か,彼に写真を撮られるのが嫌で,私の顔は妙にふてくされている。

 また,父の車のボンネットにもたれて,二人並んで立っている写真がある。父が車で山形市の南,上山(かみのやま)市の方へ連れて行ってくれた時のものだ。さすがの歯医者のお坊ちゃんも,自宅に車はなかった。上山は,斎藤茂吉の故郷である。当時は地方競馬場があった。道路はまだ舗装されておらず,彼が車酔いをしたのを覚えている。

 

 彼と遊んで帰る時だったと思う。玄関を出て,何気なく1歩を踏み出すと,「にちゃっ」と足が沈みこんだ。慌てて足を上げると,そこには私の長靴の跡がくっきりとついていた。玄関前のコンクリートが生乾きだったのだ。私は,こっそりとその場を逃げ出した。まあ,大したことはないだろうという気持ちもあった。家に帰って,そんなことはすっかり忘れていた。

 次の日,学校に行くと,彼がササッと寄ってきた。「まさくん,きのう玄関のコンクリート踏んだでしょう?」と言う。「それは子供の靴跡だった。昨日は,家に来たのは「まさ君」だけだ。だから踏んだのは,君しかいない」理詰めで迫って来る。私は,勿論「どきっ」とした。そうか,あれはやはりまずかったのか。しかし,そこは情けない私である。平然と知らぬふりをした。

 

 彼は,その環境もあってか,なかなか自己中心的だった。私も兄弟がおらず自己中だったが,彼の方がずっと上手である。彼と遊ぶときは決まって,彼のやりたいように事が運ぶのだ。その対人関係も,人によってころりと変わる。私よりも気に入った友人がいるときは,私が邪魔者扱いされる。彼は,2人で遊ぶのが好きだった。そして,集団になると大人しくなった。

 彼が,別の友人を連れて,私の家に来たことがある。もう高学年で,クラスが違っていた。私が見ていないとき,私の作ったプラモデルを見て「下手くそだね」とその友人に話していた。彼はこっそり言ったつもりだったろうが,私には,はっきり聞こえたのである。もちろん,手の器用さは彼にかなわない。それはよく分かっていた。

 

 彼は,大変手が器用だった。プラモや漫画など上手に作ったり描いたりできた。さすが,歯医者の息子である。先にも述べたように,高学年の時に,予期せぬ形で彼の部屋へ行った。そのとき彼は,床のテーブルでせっせと漫画を描いていた。模造紙のような紙に直線を引いて,マンガのコマを作っている。コマは,縦に3本,横に5本の線を引き,同じ大きさのものを縦に4個,横に2個作ってあった。そのコマの中に,紙芝居のように絵を描くのである。当時のマンガはすでに,コマ割りも工夫されていたから,それを思えば,少し単純ではある。しかし,彼は,漫画の描き方を知っていた。鉛筆で下書きをし,その上から,黒インクでペン書きをするのである。子供であるから稚拙だが,不思議に絵,特に人物のバランスがよく,見栄えがした。字が下手でも,何かいい感じの文字の書ける人がいる。それに共通したものを感じた。

 彼のおかげで,私にも火が付いた。それから,私もマンガを描くようになったのである。最初は,お気に入りのマンガ家の絵を模写した。それから徐々に,ストーリのあるものを描き始めた。ただ,彼のように,バランスの良いカッコいい絵が描けなかった。それでも,小学生の頃は,小さめの画用紙に鉛筆書きで,潜水艦の物語を描いた。小沢さとる氏の完全なコピーである。しかし,中学になり,インクで描くようになると,一度も最後まで描ききれなかった。描いた絵が気に入らず,途中で飽きてしまうのである。才能がないと言うのは,こういうことを言うのだろう。

 

 私が4年生の時,夏休みの作文で銅賞をもらった。これは,先に「父のこと」で触れた,父の指導が入った作文である。担任の先生が,私に言わずに全国作文コンテストに送っていたのだ。その賞を,全校朝礼の時,ひな壇に上がってうやうやしく頂いた。だから,全校生徒がそれを見たわけである。

 その日の放課後,玄関から出て帰宅しようとすると,彼が私を呼び止めた。そして,「まあちゃんは,作文が得意なんだね」と言う。どういう気持ちでそう言ったのか,そのときはわからなかった。彼は,思いやりのある人間だということが,後に感じられることになる。それまでは,私は「彼は,わがままだから人の上に立つのは無理だ」と思っていた。

 

 彼は,成績が悪くなかったはずだ。しかし,地元の公立高校を避けて,私立高校に推薦入学した。本人は,受験して落ちるのは嫌だし,受験勉強そのものが嫌いだと言っていた。そして,そのまま,その高校の系列の大学歯学部に進学し,父の跡を継いだ。

 進学当時,私は彼を,意気地のない奴だと思った。しかし,今思えば,堅実だったのかもしれない。受験勉強など,その後の人生にほとんど関係がない。残るのは,どこどこ高校,大学に入学したという学歴だけだ。中には,それが役に立つ仕事もあろう。しかし,仕事のできの良し悪しは,その人の才能であり,人格である。学歴は全く無関係だ注1)

 だから,受験勉強などせずに,一途に歯科医を目指した彼は,人生の勝者と言えるかもしれない。

 

 還暦祝いと銘打った,中学の学年同窓会に出席した。お盆の時期だった。家内の実家に泊めてもらって,参加した。私の両親は,すでに亡くなっており,その家は他人に貸していた。その当時すでに,私には旅行や他人と会話をする元気はなかった。同窓会には,陽気な同級生の強い勧めで,仕方なく出席した。私は,緊張しやすい性格を,お調子者の性格で覆い隠し,何とか社会の中で生きてきた。齢60を過ぎて,流石に疲れてしまっていたのである。

 その時,数十人は集まっていただろうか。私の時代は,9クラス(3年時に8クラスに減った)あった。だから,この学年だけで,生徒が300人以上いたことになる。(全校で,1000人以上いた。)したがって,知らない顔が多い。それに加えて,参加者の体形が変わり,顔つきが分かりにくかった。同級生でさえも,認識できない人がいた。同じテーブル同士で話をしているとき,同級生だと聞いて「ええっ」と驚いたものだ。私の持っていたイメージと,似ても似つかない顔とスタイルだったのである。

 一通り,同席での会話が終わり,各々席を立って,別のテーブルに散っていった。私は,おしゃべりをする気力もなく,そのまま座って,静かにしていた。そのとき,誰かが近づいてくる。顔を見ると,なんと歯医者の息子である。彼は,容姿に特別変化がなかった。いくらか年を取ったという程度で,すぐに彼だと分かった。「○○です」と言って笑っていた。私は,

 「あ,どうも」

 と言っただけで,次の言葉が出なかった。全く予期していなかったせいで,何を話していいのか分からなかったのである。彼も少し考えてから「どうも」と言った。そしてすぐに,私のテーブルから離れて行った。私の戸惑いを察したからだろう。子供の頃は,勝手気ままな奴だと思っていたが,立派な大人になっていた。わざわざ,私に声をかけてくれたのだ。素気無いあいさつだけで終わり,申し訳ないことをした。そう思っても,後の祭りである。

 次に会う機会があれば,是非ゆっくり話がしたい。

 

注1)

 有名大学,特に東大理Ⅲに入れた者は,「大学入学試験の勝者」だ。ぺーバーテストによる入学試験は,かなり公平な選別方法である。「勉強すべきもの」や「採点の仕方」が明確だからだ。その結果は,素直に褒められてよい。

 一方,最近の面接重視の選抜法は,合否の基準がはっきりしない。学校推薦,自己推薦,AO入試などは,若者の減少に伴う,単なる受験生の囲い込みである。アメリカの有名大学も面接重視で,就職試験に似ているという。意欲やコミュニケーション能力の高い人物の方が,将来大学の価値を上げてくれると見ているようだ。

 だから,大学入試の後,すなわち大学入学後の人生は,あらためてゼロからのスタートである。ただ,日本の場合は,卒業した大学によって,就職の有利,不利がある。また,上位の大学に入った者は自信がつき,勉強意欲が高いと言える。それでも,社会に出て,立派に仕事ができるかどうかは,卒業した大学とは無関係である。本当に能力のある人間は,社会で活躍できるだろうし,起業して成功することも可能だ。

これまでのこと26 防衛大学校を受験する

 私の父は,自衛官だった。警察予備隊が発足したときに入隊し,定年まで勤めあげた。高小卒でノンキャリアの父は,退職時の階級は,1尉であった。ノンキャリアとしては,ほぼ最高位の位であろう。頭が良かった父は,主に事務方(当時の写真の付箋には,業務隊総務科と書いてある)にいた。

 当時,自衛官の定年は50歳である注1)。かなり若い。兵隊であるから,老人では役に立たない。だから,常識では当然だ。しかし,今の人間の寿命や社会慣習から考えれば,ずいぶん早い。したがって,退役後は再就職するのが普通である。自衛隊の中には,再就職のための相談窓口があり,求人も受け付けていた。父は,大手損保会社の地方支店に再就職した。おかげで,退職後は,共済年金と厚生年金の両方,かなりの高額を支給されていた。

 

 小学校の低学年だったろうか,先生が親の職業調査をした。先生が言った。

「親が公務員の人は手を挙げて」

 先生が説明する。

「公務員というのは,国や県や市に関するお仕事をしている人です。例えば,学校の先生や役所,消防署,警察署などに勤めている人です」

 自衛隊は国のために戦う。だから,公務員のような気がする。しかし,役所とは全く異なる仕事である。しかも,自衛隊の隊員を称するに「公務員」という言い方を聞いたことはなかった。自衛隊員は「自衛官」と呼び,立派な国家公務員である。しかし,小学生には理解できず,結局手を挙げなかった。逡巡した記憶が,妙にはっきりと残っている。

 

 高3のとき,父に防衛大学校を受験するように言われた。試験日は秋頃だという。次年度から,防大に理系コースを創設予定であり,初めての入試があるらしい。そこで,試験日をかなり早くして,少しでも入学生の質と量を上げようとしていたようだ。手あたり次第に,高校生に宣伝していたのだろう。そして,自衛官の子息が,まず狙われたわけである。私は理系だったので,ちょうどよいと思ったのだろう。私は嫌だったが,入らなくてもいいからと言われ,しぶしぶ受験した。

 筆記試験は,住んでいる街にある,会社のビルの中で行われた。あまり,いい出来ではなかったと思う。何分,田舎のことである。もう秋だというのに,私は受験準備など殆どしていなかった。ただ,中学の同級生もいて,楽しかった。

 

 さて,厄介なことに,面接試験もあるという。試験は,隣県の田舎町の大きなビルの中で行われた。詳しい場所は,忘れてしまった。どうやって,そこへ行ったのかも覚えていない。どうせ防大に入る気はないのだから,面接は攻撃的に行こうと思った。今思えば,殊勝なことである。

 最初に,集団面接があった。5~6人のグループで,与えられたテーマについて討論を行う形式である。司会者と採点者の2人の自衛官がいたように記憶している。短い文章を,何分か黙読してから,それについて討論が進められた。先に記したように,私は攻撃的に行こうと思っていた。だから,いの一番に意見を言った。これは,すばらしい判断である。現在でも,グループ面接で積極的に意見を言うことは,高く評価される。それ以外は,テーマも,その後の討論も,まったく覚えていない。かなり最近まで,よく覚えていた。しかし,このところ,すべてこんな調子である。多くの記憶が,心もとない。年を取るということは,悲しいことだ

 その後,しばらくして,個人面接があった。小さめの部屋である。それでもかなり広い部屋だった。1人で座って,3人の面接官に向き合った。最初は,なぜ防大を受けたかという問いである。私は,特に考えもせず「父が自衛官で,尊敬しているからだ」と答えた。本当は,そんなことを思ったことはない。これと言って,面接官受けのする答えが,思いつかなかっただけだ。その後,どんなやり取りをしたのか,まったく記憶にない。

 

 最後に,身体測定があった。身体測定など,聞いていなかったから嫌だった。あとで考えてみれば,兵隊になるのであるから,体を調べるのは当然である。大戦前は,20歳で徴兵検査があった。甲種,乙種合格など,悲喜こもごもの本を,読んだ覚えがある。当時もやはり,兵隊に行くのは嫌な人達がいたのだ。ただ,景気の悪い時代や大恐慌の時などは,兵隊になりたい人間が多かったという。食事もよかったし,高給が支給されたからだ。また,大戦中は「兵役を免除されること=障碍者」というレッテルを張られ,恥ずかしい思いをしたと聞く。

 一通りの検査が終わった。その中で,鼻の中を見た老医師が,鼻糞をピンセットでつまみ出しながら,「~だな」と言って,検査表に記入した。私は,そのとき何と言われたのか分からなかった。最後に別の自衛官(医師ではなかったと思う)が,診察結果の書かれた用紙を見た。例の鼻の医師が記入した,手書きの文字を見て,なんだと聞く。私は,分からないと答えた。判別不明の,書きなぐりの文字だった。

 今思えば,慢性の蓄膿症だった。私は,中学の頃から,鼻の奥に違和感があった。喉の方に,鼻から何かが落ちてくるような感覚があったのである。しかし,町の藪医者の見立ては,鼻の骨が曲がっているから,ということだった。骨が悪いんじゃ,どうやって治すんだろう。「治りますか?」と聞くと,医者は自信無さげに首を縦に振った。そんなもの,病気でも何でもないのである。しばらく通ったが,どうにも治りそうにないので,行くのを止めた。

 中年になって,海外で仕事をして,ひどく疲れた。帰国後,黄色い,臭い鼻汁がだらだらと出てきて止まらなくなった。耳鼻科に行くと,蓄膿症だと言われた。それで,合点がいった。これまでの鼻の違和感は,蓄膿症の慢性化した症状だったのだ。その後,落ち着いているが,完治はしておらず,体調が悪いと,またひどい症状がでる。

 

 さて,身体測定も一通り終わったかに思えた。ところが,まだ周囲がざわついている。何事だと思った。注射でもあるのだろうか。

 一画に,カーテン状の仕切りで覆われた場所がある。そこから出て来た高校生たちが,ニヤニヤ笑っている。「…まで見るんだ」という声がした。私には,それが何を意味しているのか分からなかった。さて,私の番になった。仕切りの中に入って行く。マスクをした若い医師が座っている。その前に立った。医師は,私の身体全体を眺めてから,厳かに言った。

「ズボンを下ろして」

 え?え?何?私は,オロオロとズボンを下ろした。すかさず,医師は,私のパンツを下げた。中学入学以来,父母にも見せたことがない,〇ンコが露わになった。すると,医師は,私のそれをぐっと握り,ゴシゴシと2度上下にしごいた。一体この人は,何をしているのだろう?それから「後ろを向いて,お尻を出して」と言う。医師は,尻の穴まで診るのだった。私は,思わず医師に聞いた。

「痔なんですが,治りますか?」

 私は,高校に入ってから,便の硬い時があり,切れ痔で悩んでいた。恥ずかしくて,これまで病院に行けなかったのだ。医師は,こっくり頷いただけだった。その声が,外に聞こえたらしい。何人かの生徒の嘲笑が聞こえた。

 

 そして,人生最初で最後の「性病」の検査が終わった。なんとも衝撃的だった…。

 

 その後,しばらくして,父が言うには,私の成績が1番良かったので,入学式で新入生総代をやらせたいと相談しているという。私は,おいおい止めてくれよと思った。筆記試験は,あまり出来なかったはずである。だから,全合格者中の1番とは考えにくい。もし筆記が出来たとしても,東京のような大都市の生徒にはかなわない。それは,よく分かっていた。まあ,入る気がないのだから,あれこれ考えても仕方がない。

 

 結局,私は他の総合大学に合格したので,防大には行かなかった。

 現在,世界情勢は不安定である。防大の試験当時は,大戦から30年近く経っていた。世情は安定しているように見えた。また20世紀の終わりには,ソビエト連邦が崩壊し,冷戦が終了した。しかし現在でも,米中露の3大常任理事国は自己中心的であり,拒否権を連発して国連の機能不全を招いている。クーデターや内戦,テロ,2国間の戦争など,紛争はおさまる気配がない。やはり,防衛大学校に入らなくてよかった。私には荷が重すぎる。また,私は今,まどみちおの「うばいあえばたりぬ,わけあえばあまる」的な平和主義者である。

 

 とまれ,集団面接といい,恥ずかしい身体測定といい,初めてのことが多かった。おかげで,防大受験は,私に強烈な印象を残したのだった。

 

注1)現在(令和6年)の自衛官の定年年齢は以下の通りである。

          統幕長,陸海空幕長

 62歳

                将,将補

 60歳

                  1佐

 57歳

2・3佐,1・2・3・准尉,曹長,1曹

 56歳

                  2・3曹

 54歳

                   士

 任期制

これまでのこと25 割烹着(かっぽうぎ)と炊飯窯(すいはんよう)

 私が小学校に入った頃,父は家を新築した。祖父母の平屋では,狭くなったのである。当時は,叔父(祖父Gの子供)も住んでいた。叔父は,父より15歳年下である。だから,父にとって叔父は,弟というには年齢が離れすぎていた。祖母の実家は資産家である。祖父Gと再婚したときに,祖母は,土地と平屋を買ってもらったと聞いている。平屋の奥は60坪ほどの庭になっており,そこに父は2階屋を建てた。祖父母は,そのまま平屋に寝泊まりするつもりだ。食事は新しい家で一緒にした。

 

 そして,母の専業主婦としての新たなフェーズが始まった。

 

 新しい家が建って,母は,台所という自分の城を持った。玄関に入ると,正面に1間ほどの幅の廊下が1本,左右に伸びている。向かって左はすぐに行き止まりで,向かった方向に2階への階段がある。階段の向い側はトイレだ。玄関正面は,廊下を隔てて,6畳間,その右隣にふすまを隔てて8畳間が並んでいる。廊下は正面から右へ,続き間に沿って真っ直ぐ伸びている。8畳間の奥は押し入れと床の間があるので,廊下は8畳間よりも奥ゆきがある。

 廊下の右端が,母の台所である。ちょうど廊下の幅分だけ,シンクとガスコンロの台があった。シンクに向かって正面が,廊下の端で,大きな窓がある。今思えば,かなり狭いキッチンである。台所に向かって左側面は,8畳間の押し入れ分だけ白い漆喰の壁になっている。その壁沿いに,後に冷蔵庫が置かれた。

それ以来,母といえば,台所で背中を見せて調理をしているイメージができた。いつも白い割烹着を着ていた。

 

 台所の右側面は,ガラス戸である。その奥は,数坪ほどの建屋だ。ガラス戸を入ってすぐは,3畳ほどの広さの木の床で,そこに,脱衣所,洗濯機,炊飯用の陶器の大きな壺(炊飯窯)があった。そして,床の左側が,木製の洗い場と風呂である。湯沸かしは最初に薪で,その後ガスに変わった。建ててからしばらくは,下水道が通っていなかった。だから,排水はそのまま水路に垂れ流しである。

 炊飯窯というのは,70~80㎝の背丈がある素焼きの壺(蒸しかまどともいう)である。飯を炊くためのものだ。表面に細かな凹凸があり,緑色に染めてあった。火力は,恐らく木炭で,中に釜を入れてご飯を炊く。上は短躯の筒状穴であり,蓋がついている。

 写真は小田製作所のミニ蒸しかまどである。現在の市販品は3合や5合炊きの小さいものだ。写真の左側がそのかまどである。かまどの上半分を開け,中に写真の右側にある炊飯釜を入れる。それから開けた上半分をかぶせ,上の口は蓋を外しておく。かまどの下の部分に木炭を入れ,火をつける。そして,炊き上がるまで待つ。炊き上がると上の口から蒸気がゴーゴー吹きあがって来るので,火を取り,上の口と下の火入れの部分に蓋をして蒸らす。あとは,素晴らしい炊き上がりのご飯が出来上がるのを待つだけだ。そのご飯を「おひつ」に入れて家族そろってご飯を頂くのである。

小田製作所のミニ炊飯窯


 しかし,1960年代後半に,ガスや電気の炊飯器が販売され,さらに保温もできる炊飯ジャーが売られるようになると,火を起こしてご飯を炊くことはなくなった。家の炊飯窯も,おひつと共に,いつの間にか消えてしまった。


 母は昭和の専業主婦そのものだった。祖父母の世話,子供の世話,家事全般を毎日せっせとやっていた。私の記憶においても,母は常に台所にいた。体のいい家政婦である。休日には,母は,父と私と3人で繁華街,百貨店,旅行に出かけたが,あまり嬉しそうには見えなかった。

 母の話では,結婚当初,祖母につらく当たられたという。夜泣いて,実家に帰りたくなったそうだ。私が記憶しているのは,新しい家が建ってからである。その頃には,祖母は優しいだけだった。もちろん,幼い自分には,嫁姑の確執を感じとることは出来なかったのだろう。また,新しい家に移り,母が一手に家事全般をやるようになって,嫁姑のフェーズが変わったのかもしれない。

 

 ただ一つ,よく覚えていることがある。夕飯を食べ終わると,決まって祖母は

 「ああ,母さんのご飯はうまい。ごちそうさまでした」

 と大きな声で言うのだ。夕餉に集まった家族は,特に母は,こそばゆいような苦笑いをするのであった。私は,何故そんな大きな声を出す必要があるのか,分からなかった。今思えば,祖母の最大限の感謝の気持ちを表すための,お世辞と本音が混ざった自己表現だったのだろう。男にはなかなかそういうことは言えない。

 

 何の話をしていたのか覚えていないが,祖母に言ったことがある。

 「ばぁちゃんには,いろいろ遠慮があるべ」

 それを聞いた祖母は,嬉しそうに答えた。

 「よぐわがるなぁ。んだんだ」

 私は,それほど深刻には考えずに言ったのだ。しかし,祖母の本当に嬉しそうな顔を見ると,自分が考えている以上に,ずいぶん気を使っているのだなと,気の毒になった。

 

 祖母は,糖尿病だった。当時,下水道がなかなか通らず,汲み取り式のトイレだった.

それが幸いして,病気が見つかった。汲み取りに来た業者が,糖尿病患者のいる家のし尿に特徴が似ていると言うのだ。粘度が高いという。心当たりは祖母しかなく,病院で検査するとやはり糖尿病であった。かなり,症状が進んでいたため,インスリン注射が必要だった。当時は,今のような便利な器具は無く,注射器で皮下注射をした。そして毎日,母が祖母に注射をすることになった。

 ある時,私が高校生の頃と記憶しているが,母が用事で外出するため,私が祖母に注射をすることになった。私は嫌がったが,やむを得ない事情である。意を決して,祖母の左上腕の皮膚をぐいと引っ張り,何とか注射した。終わって,祖母がぼそっと言った。

 「あー,いい。まっちょにしてもらうど,いだぐ(痛く)ねぇ。お母さんだど,いだくて」

 「まっちょ」というのは,私のことである。私の名前が「まさ」だからだ。私は「母が嫌いなのか?」と思った。もちろん,祖母の本当の気持ちは,当時の私には分からなかった。

 

 祖母と私は,その時8畳間にいた。鴨居に白い割烹着が掛かっている。廊下越しに,風呂場のガラス戸が開いていた。そこには,緑色の炊飯窯が鎮座していた。

閑話休題-余談から本題へ戻る

 しばらく時間を置いた。執筆していなかったわけではない。書く内容に変化があったからだ。これでいいのかと,立ち止まってしまった。

 

 このブログの出発点は,「せんつど(繊細さんの集い)」グループへの投稿である。HSPという言葉が,仲間内で飛び交っていた頃だ。もっとも,医者に言っても「HSP?そんな言葉,聞いたことがない」と相手にされなかったが。原稿は,「せんつど」管理人に好評を頂いて,掲載されることになった。ところが,2作投稿したところで,「せんつど」が終了し,サーバーが閉じてしまった。なんでも,グループ内で,方向性の違いが顕著になったからだという。グループに加わったばかりの私には,何が起きたのか詳細は分からない。そのために,書いた物が宙に浮いてしまった。私は,グループの人に読んでもらうことを目的としていた。だから,これ以上続ける気はなかった。

 

 しかし,しばらくして,思い直した。「せっかく一生懸命書いたのであるから,どこかに残しておこう。気持ちが乗ったら,その続きを書けばよい」。そこで私は,はてなブログにIDを作った。そして,書いた物を,そこに置いておくことにした。それ以降,ぽつりぽつりと新しいストーリーを書き始めた。

 

 私の執筆戦略は,次のようなものである。① 私は,対人緊張の強い人間である。その性格が原因で,様々な出来事があった。それをテーマに,私小説風に書く。② 作品のエンディングは,「緊張が高まる,ホッとする,おやっと思う」もので締める。③ 出来るだけ短く,すぐ読み終えるものとする。

 ところが,書いているうちに次第に②,③が消え,私の年代記のようになった。これには理由がある。私の昔の記憶を,自分の子供たちに残しておきたいと思うようになったからだ。私の父母や祖父母のことを書いていると知らないことが多く,大変困った。両者ともに亡くなっているから,聞くに聞けない。やはり,自伝を残しておくべきだと強く思ったのだ。

 そのため,最近の記事は,記憶を詳細に羅列するだけのものが多い。だから,読者には,退屈な読み物になっている。また,書き進むと,あれも入れたいこれも書きたいと思い,記事が冗長になった。動画ニュースで,ある人が,父親の書いた日誌を大量に保管していた。しかし,それを読んだようには見えない。日誌だから,あまり重要な記事が少なく,読む気にならないのだろうと推察した。先に私も,日誌は人に見せるものではないと,述懐したばかりである。

 

 そんなことで,また原点に戻ろうと考えた。あまり長いものは,今世,好まれない。また,文の最後に,何か楽しみがないとモチベーションも上がらないだろう。あらためて,原点に戻りたい。

これまでのこと24 母のことⅡ~幼年期

 私が生まれるとき,父は北海道の美幌(びほろ)町にある,自衛隊美幌駐屯地に赴任していた。美幌町は,網走と北見の間にある。女満別(めまんべつ)空港から,車でほどなくの距離だ。町の南は「屈斜路(くっしゃろ)湖カルデラ」の外輪山で,美幌峠という峠道になっている。峠の先は,弟子屈(てしかが)町に至る。美幌峠は,映画「君の名は」第2部のロケ地(昭和28年ロケ)として知られる。この映画は,NHKラジオドラマ「君の名は」の映画化3部作(松竹)である。

 母は悪阻(つわり)が酷く,実家から妹に助けを求めた。鉄道(青森-函館間は連絡船)を乗り継いで来たものと思われる。大変な長旅である。当時,飛行機は一般人には高嶺の花だった。また,連絡も電報であろう。電話は,ほとんど普及していない時代だ。

 そして,私が生まれた。母のオッパイは大きい方だったが,母乳はあまり出なかったという。健康診断の際,痩せ細った私を見て,医者はミルクを飲ませるように言った。ところが,ゴムの乳首を嫌がり,なかなか飲まなかった。それが原因だろうか。私は,あばら骨が出て,手足がやたら細かった。食も細く,母に促されて嫌々ご飯を食べていた。

 母は勝ち気であった。私が生まれる前の話だが,ちょっとしたエピソードがある。父が飲み会からなかなか帰ってこないので,パブ?に見に行ったら,若い女とダンスをしている最中だった。母は父の前に立ち,頬をビンタして帰って来たらしい。話を聞いただけなので,詳しいいきさつは分からないが,母の気の強さが出ている。

 母の勝ち気さについて,やけにはっきり覚えていることがある。私が幼稚園に入る前後のことだ。そこは,布団が敷かれた居間であった。朝,父と母が取っ組み合いのけんかをしている。力は,父の方が強いので,母を組み伏せている。しかし,母は涙を浮かべて叫びながら抗っていた。私は「止めなよ」と言って,2人を離そうとしたが,母に激しく蹴飛ばされてしまった。私は,呆然と2人の喧嘩を見ているだけだった。

 

 私が1歳になった頃,仙台市の北東にある多賀城(たがじょう)町(現多賀城市)大代(おおしろ)に引っ越した。そこに自衛隊の駐屯地があり,転勤したためだ。その頃,駐屯地そばの2軒長屋に住んでいた。南北に2棟,木造平屋が並んで建っており,玄関は南向きである。4軒すべてが,自衛隊員の家族だったと思う。「思う」というのは,私の家の隣にはおばさんが1人で住んでいたからだ。なぜ1人だったのか,聞いたような気がするが,覚えていない。私の家は北の棟の西側にあり,南棟の2軒は,間違いなく自衛隊員の家族で,それぞれに私よりも1~2歳年下の子が一人いた。

 当時を偲(しの)ばせる記憶がある。家屋の西側は,農家をはさんで,駐屯地を囲む土手になっており,東側は広い原っぱになっていた。南棟の東側に,露店の共同風呂があった。屋根があり,木の塀で囲われている。木の桶の風呂だと記憶している。冬はさぞ寒かっただろうし,女性には抵抗があったのではなかろうか。また,原っぱの隅に穴を掘り,家庭ゴミを埋めていた。大人総出で,大きな穴を掘っていたのを覚えている。穴は,ゴミがたまると土をかぶせ,場所を変えて次の穴を掘っていくのだ。まだ,公的なゴミの収集が行われていなかった時代である。

 母の,当時のモノクロ写真を見ると,上の前歯が1個しっかり金属で,黒く写っている。その頃,歯磨きをした記憶がない。歯については,その程度の関心しかない時代だった。おかげで,私の乳歯は虫歯だらけとなる。虫歯で歯が折れても,根っこは残ったままが常態化した。根が取れないと永久歯が生えてこない。そして,上あごの2本の前歯より隣の歯が先に出てしまった。その結果,前歯のおさまる隙間が狭くなり,2本の前歯がVの字になって内側に出てしまう。そうなると,下の前歯が上の前歯とぶつかる。そのため,下の歯が外側に出る反対整合になった。幸い,下の糸切り歯が上のものより内側に出たので,顎が際限なく前に出ることは避けられた。母は,年を取ってから「お前には,やれることは何でもやってあげたが,その歯だけは何とかできなかったのかと悔やまれる」と言っていた。

 

 私は,5歳で幼稚園に入った。柏幼稚園といい,柏木神社の境内に園舎があった。現在は,近くの別の敷地に園舎とグランドがある。家から東に少し行ったところに川(貞山運河または貞山掘(ていざんぼり))があり,その向こう岸をさらに何分か歩くと,園のある神社に着く。

 貞山掘は,江戸初期から明治にかけて作られた運河である。交通手段や荷物の運搬用だ。大きな荷物は河川を使って運ぶ。荷物を積んだ川船が,直接海に出ると不安定で危険だ。そこで,仙台湾の海岸線に沿って並行に水路を作り,荷下ろし場とした。貞山という名は,伊達政宗の諡(おくりな)からとっている。

 貞山掘には,歩行者用の小さな木の橋が掛かっており,毎日その橋を渡って幼稚園に行った。橋の床には砂利交じりの土が載せてあり,中央が高く,欄干の方に傾斜がついていた。登園のたびに,滑って転んで,橋から落ちはしないかとびくびくしながら渡った。貞山掘は治水が悪く,台風が来ると,満潮時によく氾濫した。

 幼稚園の運動場は,神社の境内だった。私は,仲間たちと鬼ごっこをしていた。私が鬼だ。友達を追いかけている途中,滑り台の下を潜(くぐ)った。そのとき,左頭頂部に「ガツン」と強い衝撃を受けた。私はよろけて腰を落とした。衝撃はあったが,痛くはない。あれ?と手を頭に持っていく。そのとき,女の子が「血が出てる!」と叫んだ。全く痛みを感じないのだが,頭からかなりの出血である。園児みんなに寄り添われながら,園舎に帰った。先生はびっくりして応急手当てをし,私を背負って家まで連れて行った。私は,母に連れられて,タクシーで街の外科に行った。何針か縫ったはずである。これが,俗にいう「かまいたち」だったのか。確かに,打撲痛はなくコブもできず,裂傷だけだった。今でも,その傷が頭に残っている。幸い髪が多いので,傷が目立つことはなかった。

 母は,裁縫が好きである。大代では編み機の教室に通っていた。セーターは,すべて母が編んだものだ。洋裁も得意としており,幼稚園や小学校の入園,入学式には,母の手作りの洋服を着て行った。

 

 私が幼稚園の頃,母の長兄の家に遊びに行った。旧高田市稲田である。

 高田は豪雪地帯だ。当然,冬は雪遊びである。裏は広い庭だ。庭の向こうは一面の田んぼだった。いとこが3人いた。姉2人と,末っ子は私と同い年の長男だ。あるとき,姉達が私を落とし穴に誘い込んだ。雪を深く掘り,固めた雪で蓋をしたものだった。ところが,私は穴の上を難なく素通りしてしまったのである。周りのみんなは,びっくりした。私が軽すぎたのだ。先にも述べたように,私はガリガリに痩せていた。

 長兄の家は,入口から奥まで真っ直ぐ土間であった。土間の左手が畳の部屋である。そこは土間より30㎝ほど高くなっていた。だだっ広い畳部屋だ。広いと言っても,幼児の印象である。間口が狭かったから,案外10畳程度だったのかもしれない。その奥の隅に母と私が座っていた。玄関から,いとこの男の子が入って来て,私に向かって「まさちゃん,スキー貸して」と叫んだ。私はそのとき,自分のスキーを持って来ていた。母は,貸してあげなさいと言う。私は幼児であり,お気に入りのものを人に貸すのは嫌だった。それでも,普段はそれほど意固地ではない。ところがそのとき,なぜか最後までうんと言わなかった。母も特に叱りはしなかった。この記憶は今でも,自己嫌悪に陥る思い出の一つになっている。

 

 父は,山形県神町(じんまち)駐屯地に転勤となり,私が幼稚園年長の10月に引っ越した。父の実家は山形市にあり,転勤を希望していたようだ。父は,定年退職までそこに勤めた。神町東根市神町)は,山形空港のある場所だ。山形市から,車で北に30~40㎞とかなり遠い。父は,最初は電車で,次いでバイク,自家用車と通勤手段を変えていった。どの手段を使っても,朝早く家を出なければならなかった。冬場は,まだ真っ暗で,私がまだ寝ているうちに出かけるのであった。

 母は引っ越しの時,仙台から山形へ行く電車の中で「お爺ちゃんとお婆ちゃんのところに行くのうれしいか?」と聞くので,私は「うん」と言ったのを覚えている。母は,楽しいはずがない。それから母は,祖父母が亡くなるまで約15年間,お姑さん勤めをした。ちなみに,その仙台と山形を結ぶ鉄道線は,日本でいち早く交流電化された仙山(せんざん)線である。その当時は,途中まで交流電車で,途中から直流電車で引っ張っていた。すでに蒸気機関車やガソリン動車は走っていなかった。

 その後,転園先の幼稚園を,卒園直前に退園した。そして,そのまま母と2人で,母の実家へ行った。なぜ母がそうしたのか,理由はよくわからない。私の妻が聞いたところによると,父が短期の異動(出張か研修?)になったためだという。父のいないところで,姑と一緒にいるのが嫌だったのではないか。その時,母の弟(私の叔父で,母の兄弟姉妹の末っ子)が蓄膿症の手術をしたばかりだった。その病院に見舞いに行ったのを覚えている。間もなく,彼の具合が悪いという連絡を受け,再度,母と病院へ行った。他の兄弟,姉妹もみな集まったものと思うが,それは記憶にない。その時,彼らは就職や結婚をし,高田にいなかった。だから,実家にいた母が一番に駆け付けたのであろう。容体を心配しながら夜になった。私は病院の,灯りのついた廊下で,漫画月刊誌を読んでいた。ぼんやりとした記憶がある。結局,叔父は亡くなった。母は「弟は前夜に,禁じられていた酒を飲んだ。そのせいで,容態が悪くなった」と言っていた。今考えると,眉唾物である。何らかの原因で髄膜炎を発症したのではないだろうか。

これまでのこと23 母のことⅡ~私の誕生以前

 先に,母のことを書いた。母が亡くなるときに「私が感じた戸惑い」を中心に据えた。したがって,母の思い出が,まだ沢山ある。そこで,先に書かなかったものを中心に,ここに紹介したい。すべては,私の目で見,耳で聞いた話である。だから,私の思いが陰に陽に入っている。それは結局,私自身を語っていることになるのだろう。

 

 母は,昭和2年1月4日,新潟県旧高田市(現上越市)に生まれた。母は,自分の生年月日には,強い疑いを持っていた。実際はもっと早く生まれ,正月三が日が終わってから役所に届けたのではないか,というのである。しかし,当時そのようなことが出来ただろうか。今は,出生届用紙の右半分が出生証明書である。普通は,出産に立ち会った,病院の医師が記入する。調べてみると,介添え者なしで出産した場合,出生証明書は,それを証明してくれる人物ならば,誰が書いても良いようだ。場合によっては,証明書なしでも届け出ることが出来る。母の言うことは,案外本当なのかもしれない。

 高田は,江戸初期1614年に,松平忠輝徳川家康の6男)が居城「高田城」を築いた場所である。高田藩は,この時が実質的な立藩となり,明治維新まで続く。ただ,江戸幕府の思惑により,藩主は転々と変わっている。

 高田は,日本有数の豪雪地帯である。歩道に屋根をかけた「雁木(がんぎ)」で知られる。商店街によくみられる,庇(ひさし)のついた歩道が,一般の住宅にあるのだ。主屋の1階部分の軒を,外に大きく突き出した形をしている。従って,雁木は私有物であり,その歩道は,私有地である。それを隣通しでつなぎ合わせて,みんなで使っている。母の長兄の家が上越市(旧高田市)稲多(いなだ)にある。行政の保存政策もあり,雁木通りが,当時のまま残っている。現在はその長兄の長男が一人で住んでいる。

 私が幼稚園の頃,長兄の家に,何度か遊びに行った。雁木が続く古い通りで,家々は間口が狭く,奥に細長くなっている。隣の家との間には,隙間がない。屋根の傾斜は,道路側とその反対側の2方向だけである。屋根に積もった雪は,道路側と家の裏に下ろすのだ。また,道路の一方の端には,結構幅のある水路がある。下ろした雪を,そこに流すのだ。その時も大雪で,歩道から道路を見ると,雪が山のように積まれ,雁木よりも高い場所を除雪車が走っていた。雪がそれだけ降ったというわけではなく,屋根の雪を下ろしたために高々と積まれることになったのである。その雪にトンネルを掘って,道路の反対側行くのだ。室内は天井が高く,太い真っ黒な梁が見えていた。家には,歩道側にロフトのような2階部屋があり,その窓からも,雁木の上を伝って外へ出ることができた。

 高田城の南西にある金谷山(かなやさん)には「大日本スキー発祥之地」と書いた石碑が建っている(1930年建立)。1911年,オーストリア・ハンガリー帝国の軍人,レルヒ少佐が日本を視察がてら,金谷山でスキーを指導した。当時は,竿1本で操作するものだった。そういう経緯もあり,石碑に対して「発祥」というのはおかしい「伝来」が本当だろうという意見がある。

 内陸の城下町「高田」のすぐ北には,「直江津」という港町があり,両者は,古くから強い結びつきがあった。1960年代にそれぞれの市街地が拡大し,連坦が進んだ。そこで,2つの市が対等合併し,1971年上越市が発足した。それぞれの街に歴史があり,その呼称には強い思い入れがある。それもあって,互いに揉めることがないように「上越市」という地域を表す名称になった。これは,平成の大合併よりずっと早い時期である。

 

 母は,4男4女の4番目の子で,第3女である。4姉妹とも,祖父と目がよく似ている。垂れ目で,大きい。母は,エキゾチックな美人であった。祖母(母の母親)は,脳溢血で亡くなった。50代の若さであった。私は,祖母の顔を見たことがない。遺影はあったはずだが,記憶していない。母は,高等小学校を卒業後,女学校への進学を希望した。しかし,残念ながら合格できなかったという。やむなく,専門学校に通ったと聞いた。

 少し後になるが,私が小学生から中学校の頃,母は文学全集を買って読んでいた。なん十巻もあるものだ。私も時々読もうとした。しかし字が小さく,しかも上下二段組みになっており,完読は不可能だった。これを書くにあたり,どんな全集だったのかネットで調べた。筑摩のものがそれに近い。購入当時,まだ出版中で,時々新しいものが出版され,家に届くのであった。母の勉学意欲の高さを示すエピソードである。

 私が幼稚園のとき,母の生家に泊まったことがある。祖父が一人で住んでいた。祖母が,早くに亡くなったためである。茅葺の一軒家で,周囲を防風林で囲われていた。隣家に行く道路以外は,すべて田んぼと農業用水路だった。祖父は,藍染めを生業にしていた。私の背丈ほどもある大きな甕に,真っ黒な液体が入っていた。私は朝,居間で目を覚まし,敷かれた布団に座り,テレビの幼児番組を見ていた。また,大きな囲炉裏を囲んで,何人かで朝食を食べた。祖父は,食べ終わった茶碗に白湯を入れ,それを口に含み,ガラガラとうがいをする。そして,ごくんとそれを飲み込むのだ。猫が2匹,放し飼いになっていた。よく,祖父の膝の上に乗っていた。一匹は,黒っぽいトラ猫だ。縄張りをのしのし歩いていた。あるとき,私と目が合い,威嚇するようにじろりと睨みつけた。

 

 その後,母と父が出会うまで,母が何をしていたのか聞いていない。

 

 父は自衛官である。入隊したのは,警察予備隊(現自衛隊)の発足時だ。すでに,27歳である。父は,20歳の時に徴兵された。太平洋戦争真っただ中である。そして,海軍で訓練を受ける。幸い前線へ出兵することはなく,終戦を迎えた。終戦時,広島の呉にいたと聞いた。そうだとすれば,原子爆弾のきのこ雲を見ていたはずだ。

 父は,高田の自衛隊駐屯地に赴任した。そして,母と知り合う。父は母を大変気に入り,プッシュプッシュで結婚の承諾を取った。売り文句は「食べる心配はさせない」ということだった。母は「好きで一緒になったわけではない」と自嘲気味に言っていた。ただ,間違いなく,お金に困らなかったと述懐していた。父は,祖父G(父の母親の再婚相手で別姓)を引き連れて,高田の実家へ行った。高田の祖父に結婚を承諾してもらうためである。ところが,Gは,よもやま話ばかりして,肝心の結婚の話をしない。そこで父はやむを得ず,自分から話を切り出した。祖父Gは,唐傘職人である。人当たりはよかったが,世渡上手な性格ではなかった。祖母は最初の夫(父の実父)Fが好きで,その名字を変えなかった。Gとは籍を入れていなかったものと思う。

 父の実家は,山形市である。母の育った高田とは言葉のアクセントがまるで違う。高田の言葉は,関西弁に近い。しかも,山形には,東北特有の訛り(なまり)がある。母は,山形市に嫁いで,最初に言葉に苦労したという。祖母の言葉が,なかなか理解できなかった。しかも,怖かった。山形の人々の会話が,まるで喧嘩をしているように聞こえたらしい。知らない土地に行って,最初に文化の違いを感じるのは,言葉であろう。山形は,月山をはさんで,海側(酒田,鶴岡など)と内陸(山形,米沢など)では言葉が異なる。海岸は,北前船が寄港し,山形の米を運んだ。だから,関西の言葉に近い。一方,内陸は生粋の東北弁である。言葉に抑揚がなく,特有の訛りがある。山形で初めて聞く言葉は,母にとって衝撃だったのだろう。

 

 結婚してすぐに,父は北海道の美幌駐屯地に転勤となった。2人は,そこで新婚生活を送ることになる。そして,私が誕生した

これまでのこと22 孤独-幼年期とTV,漫画

 私の意識,その芯には孤独がある。忙しい毎日の中で,ふと我に返る。そのとき,強い孤独を感じる。意識とは,様々な知覚を俯瞰し,自分に有意なように処理することだと考える。その処理が終わり,次の知覚入力が途切れたとき,私の意識はふと立ち止まるのだ。そして「自分って何?」と考え込む。

 

 そういう思いは,ずいぶん小さいころからあった。自分を客観視するには,多くの経験が必要だろう。幼児の世界は狭い。実体験だけでは,不足だと考える。では,何がその代わりをしたのだろうか。それは,様々なメディアを通した擬似体験だと思う。幼稚園に行く前後は,まさにTV,マンガの急成長期であった。それらによる擬似体験は,私の意識に大きく影響した。(当時は,「マンガ」ではなく,「漫画」だった。以下の幼年期の記憶では,「漫画」を使う)

 

 私が物心ついた頃,少年・少女漫画は活況を呈していた。すでに貸本漫画は衰退し,漫画専門の月刊誌や週刊誌が続々と発刊された。そして,子供たちは,自分の小遣いで漫画雑誌を買えるようになった。その後,私が中学生の頃,電車で大学生が漫画(恐らく「ガロ」)を読んでいる時代に突入した。私が幼稚園のとき,寝て起きると,枕元に漫画週刊誌が置いてあった。両親のクリスマスプレゼントだ。その頃には,私は仮名が読めた。ひょっとすると漢字には仮名が振ってあったのかもしれない。調べると,マガジン,サンデーは1959年刊行だ。価格は30円である。そして,漫画のすべての漢字に仮名が振ってあった。ただし,雑誌の表紙には仮名がない。

 私は病院の,灯りのついた廊下で,漫画月刊誌を読んでいた。ぼんやりとした記憶がある。幼稚園の年長のとき,卒園間際に退園して,母の実家に行った。そのとき,叔父(母の弟)が蓄膿症で入院し,亡くなった。その病院の廊下である。

 父の実家の縁側で漫画を読む自分を記憶している。叔父(祖母の再婚相手の子,父の種違いの弟)が残していった,雑誌「少年」の鉄腕アトムである。まだ,雑誌はA5判の小さいものだった。1950年代前半のものだろう。

 私の記憶は,漫画雑誌を読んでいたことだけだ。どんなコンテンツを読んだのか,上記のアトム以外は,全く覚えていない。そのアトムも,小さなコマが並んでおり,アトムが歩いていることしか記憶がない。話の筋は,全く思い出せない。記憶の定着には,それを何度か思い出すことが必要だ。当時の私にとって,雑誌を読んだこと「そのこと」が重要だったのだろう。

 

 幼児期の,漫画の思い出はその程度である。一方,TVの映像は記憶に残っている。TVの場合は,観る行為そのものが即,映像と結びついているからだろう。ただ,内容を覚えているかといわれると,大変心もとない。

 私は,TVを通じて,漫画の実写版を観た。鉄腕アトムまぼろし探偵,ハリマオ,少年ジェット,矢車剣之助,あんみつ姫七色仮面の記憶がある。もちろん,快傑ハリマオ,七色仮面は実写が先で,それに合わせてマンガが出版された。漫画「快傑ハリマオ」は,少年マガジンに連載された。手塚治虫が原作及び鉛筆下書きをし,石ノ森章太郎(当時,石森章太郎)が描いたとされている。手塚が石ノ森を推薦したらしい。石ノ森は,しぶしぶ引き受けた。だから,手塚の名前は出ていない。少年サンデー(小学館)は,手塚に専属漫画家になるよう申し出ていた。そのため,少年マガジン講談社)には描けなかったらしい。ただ,ハリマオは,山田克郎の児童小説「魔の城」が原作で,手塚ではない。

 ところで,当時の少年ドラマでは,月光仮面が有名だ。しかし,私は観た記憶がない。月光仮面は,私が物心つく前後の放送である。やむを得ないだろう。鉄人28号の実写版も放送されていたようだが,私は観ていない。

 TV番組で,一番強い記憶があるのが「恐怖のミイラ」である。全身を包帯でぐるぐる巻きにしたミイラが,生き返って動き出すのは,子供心に鮮烈な恐怖イメージを持たせた。私は,母や障子の後ろに隠れて,恐る恐るTVを観ていた。

 当時,妙にクリアに覚えているものがある。それは,メンコの絵である。10㎝くらいの直径の,丸いメンコだ。そのおもて面には,怪獣の絵が印刷してある。怪獣の下に「まりんこんぐわつよい」と自分で書きこんでいた。怪獣マリンコングは,フジテレビの特撮番組である。メンコに文字を書くくらいだから,よく知っていたのだろう。しかし,私は,それを観た記憶がない。これも,他の実写版と共に,少年画報,漫画王で漫画化されている。

 

 このように,私は,TV,マンガに晒された幼年期を過ごした。私の中には,ヒーロー,ヒロイン,悪人,SF,運命,生,死が蠢(うごめ)いていた。今,思えば,活字しかなかった時代に較べ,多様な経験をしたわけである。しかも,その経験は,しっかりと視覚の記憶を伴うものだった。人間は,ものを考えるとき,視覚イメージとしての記憶を頼りにする。そういう点でも,TV,マンガは視覚に訴える媒体だ。活字だけの本では,たとえ挿絵があったとしても,そう生き生きと視覚イメージを持てるものではない。

 

 私は,4,5歳のとき,ある強い疑念にかられた。自分は,本当に母と父の子であろうか。実は,両親は泥棒で,自分は,さらわれてきたのではないか。あるとき,そういう考えに囚われた。生まれた時の記憶はないのだから,出自に対する疑問は当然のことである。そして,一生懸命思い悩んだが,その思いつきをはっきり否定する証拠がない。そう考えると,ドキドキして不安になるのであった。何日かうつうつとしていたが,ついに私は,母に向かって問いただした。

「お母さんとお父さんって,本当は泥棒なんじゃないの?僕を誘拐して来たんでしょ」

 私の言葉に,母は「はぁ?」という顔をした。その後,母が何を言ったのか,記憶がない。私は安心し,それからは,そのような妄想を抱かなくなった。だから,きっぱりと否定されたのであろう。

 

 このエピソードは,自己を客観視していた証拠である。そして,孤独を感じた最初の記憶であった。その孤独感は,この後ずっと,私を悩ませ続けるのだ。

 

 

追記

 私は,幼稚園の年長のときに引っ越した。これは,6歳になる春からだと思っていた。ところが,最近アルバムを繰ってみると,半期過ぎた10月からであることが判明した。いつ記憶がすり替わったのか分からない。実は,これに限らず,記憶違いだったということを幾度か経験している。ふとした拍子に,記憶のラベルを付け間違い,そこからは新たな記憶に変わってしまう。特に多いのは,時期や年度といった,時間の記憶違いである。

 そういう意味で,日記をつけるのは,大事なことだ。他人には不必要でつまらないものであるが,自分史を語るうえで必要不可欠である。私は,日記をつける習慣がなかった。ただ,40歳前後から,メモを取るようになった。仕事量が増えて,その日にやるべきことを忘れそうで心配だったからである。そこで,毎朝,会社に着くとすぐに,その日のto do listをメモした。そうすることで安堵し,仕事に集中できるのである。逆に言えば,私の能力(記憶力だけではなさそうだが)不足のせいである。加えて,研究ノートがある。これも,大変貴重だ。今,「やることリスト」や「研究ノート」を見返してみると,ほとんど覚えていない。それも「まったく記憶のないもの」と「文字を見ることで記憶がよみがえったもの」がある。人間は「経験したものすべてを記憶している」と何かで読んだことがある。しかし,脳をたたいても,思い出せないものもたくさんあるようだ。

 今,J. Watson の “Genes, Girls and Gamow” (2001年発行,邦訳「ぼくとガモフと遺伝情報」大貫昌子訳,翻訳本2004年刊)を読んでいる。昔,古本屋で手に入れた。しかし,全く進まない。同著者の ”The Double Helix” がやけに面白かったので,こちらも期待していた。二重らせんの発見以降の顛末とRNAの研究,物理学者ガモフとの交流,そして女の子を追い求める旅。最後は,彼が結婚しておしまいだ。何が読みにくいか列挙する。

  1.  カタカナの人名が次々に出てくる。初めて登場する時だけ,その人物の説明が入る。だから,2度目以降は,覚えていないと誰だか分からない。しかも,本のどこで出てきたのかも忘れているので,調べるのが大変である。有名科学者ならともかく,彼のプライベートな友人など,覚えようがない。それでなくても,外国人の名前は覚えにくい。
  2.  場所(都市や大学,研究所の名前など)があちらこちらに飛び,その飛んだ場所が地図上のどこなのか分からない。①と違い,こちらは,ほとんど説明がないので,よけい難しい。世界を股にかけて,またアメリカ中を飛び廻っているため,著者のいる場所が分からないと,話の内容に混乱をきたしてしまう。一つ一つ,Googleマップで調べると,お安く海外旅行が楽しめるが,昨今そんな暇な人間はいないだろう。
  3.  物語性が,ほとんどない。年次を追った,出来事の羅列である。だから,ちっとも面白くない。「二重らせん」は,「DNAの化学構造の発見」を大団円としていた。だから,話の筋が,そこに向かって進んで行く。しかも,発見の過程で,怪しげな人間模様がある。それだけでも面白い。一方,今回の本は,彼の結婚がエピローグになってはいるが,そんなもの読者に何の興味があろうか?

 これら3項目に共通の問題は,日記と手紙をベースに書かれていることだ。したがって,起承転結がない。出来事の羅列,次々と変わる人,点々と移動する場所を,網羅的に横断する構成になっている。やはり,日記は人に見せるものではない。