SENSAIまさの備忘録

繊細気質まさの過去を振り返る

これまでのこと37 大学の硬式庭球部へ入部する(2)

3.1970年代のテニス

 先にも書いたように,1970年代は,4大大会にプロテニスプレーヤも参加できるようになって間もない頃だった。1972年に男子プロテニス協会Association of Tennis Professionals(ATP)が組織された。そして,1990年から,ATP主催のトーナメント,ATPツアーが創設されて,現在の活動に至っている。2000年には,ランキング制度が制定された。大会のグレードや勝利数により,ポイントが付与され,ポイントの大小でランキングを決める。
 実は,選手がプロと称して活動するのは,もっと前のことである。1926年,米仏の選手が,有料で試合を行ったことが始まりと言われる[1]。当時は,興行という形でエキシビジョンマッチを行った。例えて言えば,サーカスのようなものである。興行主もたくさんいて,選手が虐げられることもあった。そのために,ATP(Association of Tennis Professionals)という組織を立ち上げて,選手を守り,かつ統一的な興行を行うようになったのである。現在は,女子のための「女子プロテニス協会(WTA:Women's Tennis Association)」ができ,4大大会とATP,WTAを総括するWorld Tennis(昨年まではITF(International Tennis Federation)と称した)が頂点にあるというピラミッド構造で,プロテニスが運営されている。

[1] テニスナビ,「テニスの起源とプロテニスの歴史」https://tennisnavi.jp/article/knowledge/469627/#toc-7

 

 私がテニスを始めた頃は,選手が着用する上着やパンツ,ズックや靴下まで,全て白でなければならなかった。更に,ボールも白一色だった。どんな歴史があるのかよく知らないが,いつの間にかテニスは白装束が習慣になった。テニスは,もっぱら貴族の遊びであったから,汗ジミの見え難い,白色の服やドレスを着用したという話がある。もっともらしいが,本当の所は不明である。白が緩和されたのは,1972年の全米オープンかららしい。それにならって,他の大会でも白以外の色が許されるようになる。丁度,プロ組織が整ったころからである。それでも,全英オープンだけは,未だに白に統一されている。さすが,イギリスだ。伝統が大好きな国である。今では,全英の白いユニフォームが,私には,むしろ異様に見える(最近,女子のみ黒のパンツが許された)。

 当時のラケットは,ウッド(木)製だった。今では,ビンテージ目的以外に木製ラケットを見ることはない。
 私は,最初他人のラケットを借りて練習した。ラケットによって,ずいぶんボールを打った時の感触が違うと聞いたからだ。その後,同級生のラケットを安く買い,しばらく使った。確か,ダンロップのラケットだったと記憶している。その後,自分でラケットを買った。フタバヤラケットのウイニングショットである。木製ラケットで,お手ごろな値段(1万円前後?)だった。
 ガット(フレームに張る細い紐,ストリングス)も各種あったと思うが,初心者は,ナイロン系の安いものだった。先輩の中でも,こだわりのある,お金持ちの坊ちゃん学生は,羊の腸を使ったシープと呼ぶガットを張っていた。ただそれは,傷みやすく,頻繁に張り替える必要があった。価格も高く,一般人には使える人は少なかった。
 ガットは,硬くて強く,フレームに張るには機械がないと出来ない。だから,専門店にガット張りを依頼しなければならず,ガット代に人件費もかかるので高価で時間がかかった。非力な人間は,そう簡単にガットが切れることは無かったが,力が強く,スピンをたくさんかける人は,よく切った。先般の先輩は,シープを新しく張ったその日にガットを切ってしまい,私は唖然としたものである。
 木製のラケットは,フレームが変形することがある。湿ったり乾いたりを繰り返すと,自然に木が反って来るのだ。そこで,フレームを締めつけて,反りや歪みを防ぐものが売っていた。二枚の四角い枠をフレームの表と裏に付け,その枠をネジで締め付けておくもの(ラケットプレスと呼んだか?)である。そうやっても,3年も使えば,変形を避けることは出来ず,買い替えが必要であった。
 現代の合成樹脂でできたラケットは丈夫で,めったなことで壊れない。しかし,これはこれで厄介である。毎年新しいラケットが発売され,性能が上がってくる。だから,まだ十分使えるにもかかわらず,新しいラケットが欲しくなってしまう。これは,まことに資源の無駄だと強く感じる。古いラケットは回収して,その分新作のラケットを値引きしてもらいたいものだ。

 

 私は,大学卒業後,定期的にテニスをするようになった。1979年頃からである。そこで,使うようになったのが,カワサキラケットのオールマンだ。理由は簡単である。飛ぶ鳥を落とす勢いだった,福井烈選手が使っていたからだ。また,沢松和子さんもオールマンを使っていた。沢松さんは,私が大学生になった頃,キャリアの絶頂期で,ウインブルドンのダブルスで,アン・キヨムラ(清村?)選手と組んで,日本人として初めて優勝した。もっとも,同じオールマンと言っても,その選手に合わせてチューンアップするので,市販のラケットとはかなり違う筈である。
 さて,初めてそのラケットのグリップを握ったとき,強い違和感があった。グリップの断面が丸く,握ってすぐにはラケット面がどこを向いているか分からないのである。これまで愛用していたフタバヤのラケットは,そうではなかった。グリップは,一般に6角形である。その六角形のうち,フレーム面に平行なグリップ面の幅が広く,フレーム面が何処を向いているか握った感触で分かる。ところが,オールマンはグリップの断面がほぼ正6角形。だから,握っただけではフレーム面の向きが分からない。軸のフレームに近い所は,フレーム面と平行な部分は横幅が広いが,グリップに近づくにつれてフレームの厚さ方向の面が太くなる。だから,左手でフレームに近い軸の部分を優しく掴んで,フレーム面を感じるようにした。慣れるまで,かなり時間がかかった。今考えると,フタバヤのラケットとの違いがあったのかと問われると,微妙である。

 いまだに覚えている,当時のラケットを挙げてみる。木製では,カワサキのオールマン,フタバヤのウイニングショット,ゴールデンショットが懐かしい。1学年上で,静岡出身の人が部活のナンバーワンで,ゴールデンショットを使っていた。当時,豪のロッドレーバー,ローズウォール,ニューカムが,ベテラン選手として頑張っていた。米のキング夫人,豪のマーガレット・コート夫人が,最後の花を飾る時代であった。
 二人については,ボビーリッグスとの喧嘩が懐かしい。戦前,戦後に活躍したボビーは,55歳となった1973年,女子テニスは爺さんのテニスよりレベルが低いとうそぶいて,コート夫人に挑戦状を突き付けた。コート夫人は,その挑戦を受けて立つ。しかし,あまりのことの重大さに強いストレスを感じ,ボビーに2-6,1-6のストレートで敗れた。コート夫人の落胆は察するに余りある。ついでボビーは,キング夫人にも挑戦したいと言った。キング夫人は,コート夫人の憔悴ぶりを見,また女子テニスの威厳をかけて挑戦を受ける決意をする。3万を超す観客が見守る中,キング夫人は,6-4,6-4.6-3(5セットマッチ)のストレートで勝った。キング夫人は,男女同権運動の旗頭であり,当時のテニス興行において,男女の賞金格差が問題になっていた。この勝利の結果,女子テニスの興行が活発になり,最近は賞金額も上がっている。
 70年代に登場する若手選手は,クリス・エバート(ウイルソン木製),ジミー・コナーズ(ウイルソンの金属フレーム,スチールラケット(T-2000))。また,ベテランの黒人選手,アーサーアッシュのラケット(ヘッドのアーサー・アッシュコンペティション,これまでのこと33参照)が人気だった。当時,全英で5連覇したビョン・ボルグは,自分用に開発された,ドネー・オールウッド・ビョルンボルグモデルを使っており人気があった。木製であり,ガットも80ポンドと異様に強く張っていた。私の記憶では,日本でドネー・カワサキとカワサキの名前が入っていた。何故カワサキが入っていたのか分からない。オールマンを使っていた沢松和子さんが,プロで頑張っていた。その後,ナブラチロワが,ヨネックスのR-22を携えて世界のトップに立った。グラファイト(炭素繊維と樹脂で作られていた)製で,近代ラケットの走りであった。それまで,ヨネックスのラケットはバドミントン以外に見たことが無かった。

 

 テニスボールに関して紹介する。ITF(国際テニス連盟)による規格によると,色は白色または黄色,表面は均一な布地で覆う,重量は56.0g~59.4g,直径は6.54cm~6.86cmと定められている。テニスの規則には「コンクリートのような硬い平面上で254㎝(100インチ)の高さからボールを落とし,134.62~147.32㎝の間にバウンドの高さが収まること」と記されている。テニスをする者にしては,かなりルーズな規則である。直径が3㎜も違えば,掴んだ時にかなり違いが分かるであろう。バウンドも,13㎝も違えば,打った時に,すぐにわかると思う。
 大会によって使用するボールが違い,最近は,球足の遅いボールを使う傾向にある。ボールが弾むと速度が落ちるので,選手はそれだけボールに追いつきやすい。だから,ラリーが長く続くと考えられる。しかし,体が消耗品のテニスプレーヤーには,この遅いボールは大変評判が悪い。ラリーは短時間で終わらせたいし,大会ごとにボールの重さや弾み具合が異なると,それに対応するのが大変だからである。特に重いと,腕の筋肉や関節,腱に大きな負荷がかかるから,怪我をしやすい。

 

 何故,硬式テニスはカッコよく見えるのか。それは,私が実際にテニスの練習をする中で,徐々にわかってきた。硬式のボールは,かなり固くて重い。ボールを片手に持って潰そうとすると,相当な力がいる。そのボールを打ち返すのだから,ラケットのガットも,強く丈夫なものである。実際にボールをラケットで打ってみると,ガットの中央付近に当たらないと,衝撃で手の中でラケットが回ってしまう。もちろん,ボールは殆ど飛ばない。しかし,ガットの中心付近に当たると,ラケットを振り回さなくても,ボールが遠くへ飛んで行く。
 この飛びの良さが,初心者を悩ませる本性である。つまり,よく飛ぶということは,上手に打たないと,すぐアウト(コート外に出ること)をしてしまうことになる。そのために,ラケットを強く振るのが怖くなり,こわごわボールを打つことになる。そうすると,余計ボールはラケットの中心に当たらず飛ばない。強く振ればアウト,こわごわ振ると中心に当たらず(隠語で我々は普通「ガシャ」と呼ぶ)相手コートへボールが飛ばない,という悪循環に陥ってしまう。
 それでは,上手に打つにはどうすれば良いか。ラケットでボールや羽根を打つという動作は,腕を振っているだけのように見える。しかし,実際は足が重要なのである。座ったままでボールを打ってみて頂きたい。腕が疲れるだけで,それに見合ったスピードのボールが打てない。人間の手の力は,大したことはないのだ。逆立ちしてみれば,足の力との差は歴然である。腕だけで身体を支え続けるのは難しい。それだけ腕の力は弱く,持続力が無いのだ。では,ボールを打つとき,どうやっているのだろうか?答えを先に言ってしまうと,腕はラケットを支えるだけで,ボールに力をかけているのは自分の体重である。つまり,足の運びを通して,ラケットに自重をかけているのだ。更に,自分の姿勢も安定させている。フラフラしていては,次のボールへの備えが遅れる。相手との間隔が近いときは,相手が打った瞬間にすぐ備える必要がある。これで,お分かりだろう?腕は振りつつ,ボールが当たる瞬間に力を入れて,ラケットをがっちり支えるのが主たる仕事である。当たる角度で右や左,上へ方向を変えて打つ。そして足は,体重をラケット面に掛けるようにバランスを取る。更に,打った後すぐに動けるように,構えているのである。だから,外から見ると,たいしてラケットを振っていないように見えるのに,ボールは勢い良く飛んでいき,体はバランスのとれた姿勢になる。これが,素人が見るとやけにスマートでカッコいいのだ。

 

~続く

これまでのこと37 大学の硬式庭球部へ入部する(1)

1.まえがき

 

 私は,中学,高校と運動部が嫌いだった。私は対人,特に目上の人が苦手だ。しかも,家では甘やかされて育った。だから「叱る,殴る,イジメる,しごく」といった,当時の運動部の暴力的な行為が怖かった。鬼コーチがいて,徹底的にしごく,などという学校が増えたのは,’64,東京オリンピックで,バレーボールの大松監督を真似て,暴力的な指導が増えたように思う。私そのものが,中,高生であったから,この辺の指導者の事情が分からない。戦争中は徴兵された兵士が,上司によく殴られたという話があるから,昔から,日本人に備わった社会性なのかもしれない。

 野球は,かなり古くから,そういう体質だったと聞いている。それでも,今日と違い,高校の一部の学校に限った事であった。当時の鬼は先輩だった。つまり,後輩へのしごき,いじめや使い走りである。

 それでも私は,運動が好きだった。小中学生の頃は,よく寝る前に,布団の中で,自分のなりたいスポーツ選手になって活躍する場面を想像した。想像の中で,例えば,野球選手になり,バッターを次々と3振に取ったり,ホームランを打ったりするのである。そして,そのまま寝入るのだ。当時は,TVで定期的に放送されるスポーツは,野球くらいしかなかった。あとは,プロレスやボクシング,相撲,柔道と言った格闘技である。私は,体が細かったので,格闘技には全く興味が無かった。

 また,日本の球技でプロがあるのは,野球だけだった。バレーボールやサッカー,バスケット,バドミントン,卓球など,皆アマチュアだった。プロの組織があることは,観客動員を増やし,更に,競技の底辺を広げることにつながる。何でもそうだが,商売となれば,意気込みが違うのである。

 

 そんなことで私は,大学に入ってから,何か運動したいと思った。大学の部活動は,高校と違って,自由な雰囲気であろうと期待したのだ。そこで,何か自分が出来きそうなものを探した。しかし,なかなか見つからなかった。団体競技は,気の弱い私は苦手である。だから,1対1の勝負ができる競技がいいと考えた。1度,高校の先生が(何の科目だったか忘れたが),授業中に,硬式テニス部を作ればいいと言った。私の県には,硬式テニス部のある高校は無いらしい。「予選無しで,高校総体に出場できるぞ」というのだ。そのときは,ただ笑うだけだった。当時は,子供のためのスポーツ教室など,無かったように思う。だから,一体,何処でテニスを教えてもらえばいいのか,見当もつかなかった。

 あるとき,NHK―TVで,テニスの実況中継を観た。全日本の男子ダブルスだったと思う。選手のウェアは白。ボールも白。ラケットさばきがカッコよかった。しかも,ストロークだけでなく,前に出てボレーを頻繁にするのだ。このボレーの姿が,体のバランスが取れていて,スマートに見えた。恐らく,坂井利郎さんや神和住純さん等が出場していたのだろう。

 地方都市では,硬式テニスを見る機会がない。あるのは,軟式テニスだけだった。軟式のボールは,ゴムボールである。柔らかくて,軽い。だから,思い切り打たないと,遠くへ飛ばないのだ。しかも,ボールは地面であまり弾まないうえに,飛んでいる最中は,楕円形に変形する。そんなことから,ラケットを,野球のバットのように強く振り,振った腕を首まで巻き込むのであった。しかも,前衛というボレーをする選手がいて,これがラケットを顔の前において,はえたたきのようにボールを叩き落とす。とても泥臭く,不格好である。しかも,ダブルスしかなかった。そんな理由が重なったからだと思う。最初から,全く興味が無かった。

 

 硬式テニスが,なかなかスマートなことを知った私は,何かテニスに関する本が売っていないか探した。そして,手に取ったのが「栄光のデビスカップ-近代テニス100年の歩み-,井上昶著(講談社1971)」である。テニスの世界的な大会が,アマチュアの大会から,プロに門戸が開かれて間もない時期だった。全英テニス選手権が,プロも参加できることになり,全英オープンと名を変えたのが,1968年である。その後,全仏,全米,そして,翌年には全豪もオープン化され,四大大会(グランドスラム)がすべてオープン化された。テニスの大会で,オープンというのは,プロが参加できるという意味である。現在は,ランキング制度が整っており,プロ選手の実力が,アマに比べて数段上のため,大きな大会で,アマが出場できる機会は,ほとんどない。

 その本は,国別対抗団体戦である「デビスカップ」の歴史が中心である。加えて,テニスの歴史と,著名選手の写真がふんだんに掲載されていた。後に女性プロテニス選手となる,沢松和子さんが,期待の若鷲として紹介されていた。それを読んで,俄然私は,テニスがしたくなった。父に言うと,昔ラケットを持っていたという。急いで探すと,古い軟式テニスのラケットだった。ボールはゴムボールなので,小学生の頃に使ったものがあった。私は喜んで,早朝に,総合公園の建物を使って,壁打ちをしてみた。初めてにしては,それなりにボールを打つことができる。私は,ますます硬式テニスがしたくなった。

 

2.いよいよ,硬式庭球部へ入部

 

 私は,幸い,大学に現役合格した。そこで,早速,硬式庭球部に入部した。当時,学部の1~2年生は,全員一緒に教養部の建物群で授業を受けた。だから,春に1年生が,大学に顔を見せる頃,教養部棟の周辺では,クラブ活動の勧誘を盛んにやっていた。特に,教養部大食堂には,同じ時間帯に,全学部の1年生が集まって来る。だから,食堂入り口前には,各クラブの上級生が「ずらり」と机を並べ,のぼりを立てて,声を張り上げていた。初めての授業の時だったろうか?春のいい天気の日だった。硬式庭球部は,食堂の入り口付近に陣取っていた。

 早速,入部の手続きを取った。教養部の西側(山手側)の端に,立派なハードコートが6面あった。(と思っていたが,今,Googleマップで見ると,8面オムニ(砂入り人工芝)コートになっている。)コートの主(ぬし)だった小山又次さん(当時,テニス雑誌によく寄稿していた小山秀哉さんの父君)が生きていれば,オムニには絶対しなかっただろう。オムニコートは,プロテニスのコートとして使われないからだ。硬式庭球部は,てっきり,教養部のコートで練習をやるのだと思っていた。ところが,集合場所は,街の中にある旧キャンパスだった。教養部は,街の西端,山裾にある新しいキャンパスである。一方,旧キャンパスはかなり遠く,バスを使わないと行けなかった。今は,地下鉄が走っていて,大変足の便がいい。羨ましいことである。

 

 当時はまだ,学生運動の余波が残っていた。教養部の建物の入口には,例の角張った文字で「何やらを糾弾する」と言った言葉がでかでかと書かれた看板がいつも立っていた。部や同好会の部室には,怪しげな研究会を名乗るものもあった。真昼間に大声がするので,そちらを見ると,普通の大学生に見える若者が,逃げる学生を怖い顔で追いかけていた。意見の食い違いがあったのか,異なるシンパだったのか。彼らが教養部キャンパス内を占拠して,機動隊が入ることもあった。しかし,すでに互いが激しく交戦することはなかった。部屋の一部を占拠して,機動隊が周りを取り囲むこともあった。しかし,学生の私達は,すでに学生運動の高まりが収まり,三無主義と言った気力の抜けた時代の人間だったので,機動隊の様子を遠目に観察するだけで,それに加勢しようという人間はいなかった。教養部の部屋が占拠されたとき,我々は,敷地内に入れず,大勢の1,2年生が道路から教養部の建物を緊張してみていたシーンを覚えている。

 

 指定された日に,部が練習に使っているコートに,初めて行った。南北にのびる狭い1本道が,町一番の商店街である。その道の南端に,旧キャンパスの入口がある。警備員の詰め所から真っ直ぐ入ると,すぐに,円形の広場がある。その手前から右に折れて,西のはずれにコートはあった。部室は,古い木造の平屋で,まるで馬小屋のようである。2部屋繋がりであったが,隣は誰も使っていなかったと記憶している。もちろん,記憶違いかもしれない。建屋の木は色あせて,灰色がかっていた。部室のすぐ前に,アンツーカ(赤土)のコートが1面あり,その奥,東に向かって,クレー(土)コートが3面並んでいる。さらに奥に,空間があり,壁打ち用の板が北を向いて立っていた。もちろん,ボールがあらぬ方向へ飛んでいかないように,全体が高さ2mほどの金網で囲まれている。

 旧キャンパスの建物は皆,古く,大正末期から昭和初期に作られたと思われる。ネットで古い写真を探したが,テニスコートが写っているものはなかった。当時,写真を撮っておけばよかったと,悔やまれる。

 

 いよいよ,テニスが出来ると思うと嬉しかった。1年生のシーズンオフ(冬場)に体調を壊し,たった1年間だけの部活動だった。誠に残念である。これまでの運動不足がたたったのであろう。しかし,私には新鮮で居心地がよく,大変楽しかった。思った通り,先輩たちは皆,優しかった。それだけに,内容が濃く,その1年間の出来事は,かなり鮮明に覚えている。

 

 ~続く

これまでのこと36 初恋

 私の初恋は,中学1年のときだった。小さい頃から,女の子の好き嫌いはあっても,恋と呼べるものは中学まで待つ必要があった。小学校の高学年では,女性の方が成長は速い。だから,恋のこと初めは,女性が早いのかもしれない。もちろんこれだけは,個人差があるのが普通である。

 

 さて,中学時代の初恋は,私の中学進学に対する意気込みと無関係ではない。まず,そのあたりからお話しして行こう。

 

 私が中学に上がったとき,1学年9クラスだった。3年になって8クラスに減った。1クラス45人前後いる。恐らく9クラスでは,1クラス40人を割ったものと思われる。上の学年は確か10クラスあった。だから,全校で1200人を超していたものと想像する。市内の最も中心的な位置にある中学校だ。第1次ベビーブームのピークが私の5年ほど前であるから,その当時は10クラスよりも多かっただろう。もちろん1クラス40人を超す大所帯であった。

 現在,私が学んだ中学校は,田舎にあった1校と併合して,別の場所に新築されている。1学年140人前後で,5クラスに分けてある。1クラス30人弱である。学校全体の生徒数は,私の時代のほぼ1/3だ。他校と併合して,この人数である。ずいぶん子供が減ったものである。近年の人口減はかなりの勢いだ。この中学生たちが,現在のように子供を2人以下しか持たないのであれば,今後の人口減は加速度的に進むだろう。何か妙手があればよいが…と,年寄が余計な心配をしている。

 

 私は小学生時代,対人緊張しやすく大人しい生徒だった。それにもかかわらず,よく学級委員長に指名された。朝・夕に始業・終業の挨拶をする。学級委員長は,皆に先駆けて発声をしなければならない。これはまだ良い。クラスの会議(?)で議長のような役をしたり,全校の学級委員長会議に出席したりするのが嫌だった。会議に出ても,指名されない限り発言することなど,緊張で出来ないからだ。ただ,普段の遊びのときは,クラスのみんなと一緒に,楽しくおしゃべりことが出来た。もちろん,もっぱら聞き役,笑い役である。ガキ大将も私に優しかった(何故か分からない)。

 そんな気の小さい少年であったから,当時の少年マンガの主人公達が羨ましかった。どの主人公も元気一杯で,勇気のある少年だった。ちばてつやの「ハリスの風」の石田国松をよく覚えている。男の子は思春期になると,人前で目立ちたくなる。だから私は,中学になったら変わろうと自分に誓った。幸い,私は背が高い方だった。これは私に自信をくれた。

 

 入学式当日,中学の掲示板(木造校舎の木の壁に,紙が貼ってあるだけだったが)を眺めていた。どのクラスになるのかを肉筆で書いてある。当時はワープロもプリンタもない。すべて肉筆であった。だから,生徒の名前は縦書きで,一人ずつ横に並べて書いてある。比較的大きな字だ。毛筆である。私は1組から順次,自分の名前を探し始めた。全部で9クラスあった。5組ほど進んでも名前が無い。少し不安になって来た。現在,手元に1枚の写真がある。そこには,たくさんの生徒に紛れて,掲示を眺めながら移動していく私が写っていた。誰か知り合いが撮ってくれたらしい。最初見たとき,何処に自分がいるのか分からなかった。学生服の背中を見せ,顔を左上にあげて掲示を見ている写真だ。学生服を着た自分の後ろ姿など,初めて見たのである。言われると,確かに中央に自分の姿が写っていた。

 さて,何処まで見ても自分の名前が無い。「あれ?さては,見逃したか?しまったなぁ」と思いながら,とうとう最後の9組まで来た。「どれ,最初から見直すか」と考えたとき,あった!何と,オーラスの9組である。ホッとするとともに「何でラストのクラスなんだ?」と,少し不快に思った。

 こうして,中学生の生活が始まった。

 

 私は確かに背が高い方であった。ただ痩せていたので,威圧感は無かったと思う。普段,よく喋るように気を使ったので,幸い一目置かれる存在になれた。中には,中1にしてすでに筋骨のしっかりした男子生徒もいた。髪の毛もきっちりセットしている。最初の頃は,私よりの背が高かったが,すぐに追い抜いた。彼はすでに成長が止まっていたようだ。やけに髪型や服装などが整っているので聞いたら,スーツを扱っている洋装店の長男だった。さもありなんだ。私の中学は,学区に町の一番賑やかな商店街を含んでいたので,家がお店をやっている生徒が多かった。人形屋の次男,老舗の楽器屋の長男,飲食店の息子などがいた。それに人数も多かったので,親の職業が多士済々だった。

 

 担任の先生は,熱血漢の男性教諭だった。男子が教諭の嫌う「道に外れた態度」を取ると,ビンタが飛んだ。昭和40年代には,そういう先生もいたのである。周りの生徒も,ビンタを食らった奴が悪いのであって,仕方のないことだと感じていた。しかし,初めて見るビンタは,私には衝撃だった。私の親を含めて,これまで一度も,やられたことも見たことも無かったのだ。現代なら大変だろうが…。

 その先生は,男子全員を隣の美術室に集めて,上半身裸にして立たせたことがある。何の意味があったのか忘れてしまった。60年近くも経つとそんなものである。剣道部から卓球部へ移ったら,剣道が良かったのにと言われた,その先生は1年で他校へ異動した。当時,生徒はみな真面目であった。不良と呼ばれる生徒もいなかった。教師の圧力が強かった時代だったのだろう。

 そのうち,70年代後半から,80年代にかけて,何をしても教師は怖くないとわかり始め,カツアゲ,ボンタン,授業の抜け出し,不良同士の喧嘩,ガラス割りなど,荒れた中学の時代が待っていた。何故中学が荒れたのか,私には分からない。私の時代は全くそういった気配はなく,のんきな中学生活を送っていた。当時は,教師がビンタをくらわしても,全く社会的な問題にならなかった。教師は正義だったのである。

 現代は,かつてのビーパップのような不良はいなくなったようだ。だが,不登校や陰湿ないじめ,リンチなど,表に出にくい状況が報道されている。また,いじめたり,いじめられたりする生徒が,ごく普通の生徒であったり,数人の集団であったりする。

 

 さて,快活な青年を演じていた私は,結構楽しく中学生活を送っていた。同級生には,目の座った男子生徒もいた。小学校ではガキ大将だったと思われる,しかし,彼は身長が低めで威圧感がなかった。喧嘩をすれば私の方が強いと見たのか,幸いいじめられることもなく,一緒にクラスの中心的な立場にいた。運動会では,クラスの応援団の一員になった。先にも書いたが,不良生徒が校舎のガラスを割るような時代ではなかった。皆,真面目に中学生を演じていたのである。

 

 そうこうしているうちに,隣の席の女の子を好きになった。美人で顔が小さく,パーツの位置がいい。近年の,目が異様に大きいタレントや女優とは違った。背は適度に高く,スタイルも良かった。私の冗談によく笑ってくれて,会話が楽しかった。あとで知ったが,中学校のすぐ東にある小学校の出身で,その小学校のすぐそばに住んでいた。彼女の父親は,地方議員であった(県(市)議会議員だったか?)。

 小学校のときも,この娘がいいなと思うことはあった。しかし,それだけだった。今回は違った。相手がキラキラ輝いて見えるのである。他の女子生徒を見る時と全く違うのだ。「これが恋か」と思ったかどうか記憶がないが,何か特別な感覚であることは分かった。彼女と何かを一緒にしたという覚えはない。どうも席が隣になったことで楽しくおしゃべりしただけだったと思う。不思議なものだ。

 

 ところが,ある日,それを級友に見とがめられた(?)。「二人,良い感じじゃないか?」と一人が言うと,クラス全体がはやし立てるのである。私は「恥ずかしいなぁ」と思った。まだ幼い年齢である。開き直ることが出来なかった。気まずくて,話もできやしない。

 

 ところが,彼女の行動がそれを上回った。

 

 「嫌だーっ!こんな人」。こんな人と言ったかどうか定かではないが,それに近い雰囲気を持った言葉だった。顔が皮肉っぽく笑っている。そして筆箱から鉛筆を1本出して,それを私に投げてよこして言った。「これ返す」。私の机の上に鉛筆が転がった。私が彼女にくれてやった鉛筆だということだろう。しかし,私には鉛筆をやった記憶が無かった。しかも,鉛筆は見た覚えのない物だった。「僕,彼女に鉛筆なんてやったっけ?」と思いながら,投げてよこした鉛筆をじっと見ていた。私は,彼女も当然,私を気に入っていて,それでも体裁の悪さからそういう行動に出たのだろうと考えた。そして,彼女のこの横柄な態度が,私の自尊心を痛く傷つけた。その結果,恋心がいっぺんに覚めてしまった。不思議というか,見事というか,これまでの気持ちがスーッと引いてしまったのである。私は,黙ってその鉛筆を筆入れに仕舞った。

 

 それ以来,彼女のことを考えることが全く無くなってしまった。人を好きになるということは,案外あっけない物だなぁと思った。まぁ,恋の告白をして,あっさり振られてしまったということか。ウジウジと,いつまでも彼女のことを未練がましく思い続けることは無かった。しばらくして,違う女の子が好きになるが,こちらはいつまでも残った。同じようにクラスではやし立てられたが,明確にその人に嫌がられることも,互いに告白することもなかった。最初の経験から,私は,気持ちを確かめるような面倒なことは諦めたのだ。密かに思っている方が何倍も良いと思った。

 

 これを書いていて,ふと考えなおした。

 

 「まてよ。ひょっとすると彼女は別に好きな人がいて(いなくてもいいが),本当に私との冷やかしを嫌がっていたのでは?」それならば,はっきりと嫌だと言った方が,確かにいい。当然の行動である。先に書いたように,私は,彼女も私を気に入っているが,体裁が悪かったのだろうと思った。しかしこれは,私の身勝手な発想である。彼女の言葉には「他に好きな人がいるんだから止めて欲しい」という気持ちが含まれていたのではなかろうか。

 

 

 いや,70歳にして,そんなことに思い至るなんて…。私は,なんて鈍い人間なのだろう。

これまでのこと35 冬

 先にも記したが,私は大学に入ってからテニスを始めた。特に運動を続けていたわけではない。中学で運動部の体質を知り,それが嫌で高校では部活に入らなかった。これは,アーサー・アッシュの話(これまでのこと33)の中でも触れた。大学テニスは,大変楽しかった。ただ,1年生の内は,それほど運動量が多くない。主にコート整備やボール拾いが中心だからである。たまに長距離のランニングがある程度だ。1年生は,部活動の終了後か,休日に自主練習をするだけだった。特に初心者は,部の練習中にボールを打つ機会は少なかった。

 夏休み以降は4年生が引退し,1年生の本格的な練習が始まった。当然,運動量も増え,それ以外の時間にも自主練習を一生懸命やった。ただ,私は理系であるから実験実習や授業が厳しく,遅い時間の参加とならざるを得ない。朝や昼から自主練習している文系(特に経済)の連中が羨ましかった。経済学部の授業では出欠も取らないし,試験はレポートだそうだ。そういいながら留年する輩がいたから,よほど勉強しなかったのか,バカだったのだろう。

 

 さて,秋はかなり練習した。くたくたになって下宿へ帰った。下宿は賄い付きで,6畳1間である。トイレ,風呂は共同だ。部屋に入ってすぐ左に洋服ダンスが据え付けてあり,その奥から部屋の左側の壁に沿って,高さ30㎝くらい,長さ2mくらいの直方体で木製の箱のようなものがある。その上面は畳状になっており,布団を敷けばベッド代わりになる(使わない学生もいた)。私は,その上に布団を敷き寝ていた。他は何もない。窓は入口ドアの真正面,部屋の一番奥の壁にある。床はフローリングだ。

 秋も深まった頃,夜中に突然目が覚めた。先の簡易ベッドの上だ。驚いたことに汗びっしょりである。寝汗をかくことなど殆どなかったので,びっくりした。上半身がびしょびしょである。更に敷き布団まで自分の背中の部分が濡れていた。気分は悪くなく,むしろ緊張がほぐれてほっとした感じである。何が起きたのか?悪い夢でも見たのだろうか?しかし,その後も,週に何回か大汗をかいて夜中に目を覚ました。

 寝汗で困ったことがあった。着るものは洗濯をすればいい。しかし,布団は日中,大学に行くのでなかなか干せない。それで,しばらくたって布団を干そうと持ち上げると「あっ!」と思わず唸った。布団を敷いてあった台の畳部分に,カビが生えているではないか!普通,ベッドの下は空間があり,風通しが良くなっている。しかし,この台には下の空間が無い。だから,湿気がこもってしまったのだ。

 

 そのうち冬になって,庭球部もオフシーズンに入った。部活で使っているコートはクレー(土)である。冬は凍り付くような気温だ。1度コートの表面が濡れると,もう乾かない。一方,教養部(昔はこう称して1~2年の全学生を一カ所に集めた)には,ハードコートが数面あり,冬でも使うことができた。体育の授業以外の時間は,テニス同好会が使っていた。冬の間は,硬式庭球部も使っていいことになっている。そこで,部活の同学年S君と,ハードコートでテニスをする段取りをつけ,待ち合わせをした。実は,冬になり急に体を動かさなくなったので,精神的におかしくなっていた。急に動悸がしたり,頭が回らなくなったりした。そこで,これは運動が必要だと感じた。それがあって,S君とテニスをしようと思ったのだ。

 

 ところが,ちょうど待ち合わせの日の夜中,何となく気分がすぐれず目が覚めた。汗もかいていたが,気分が落ち着かない。そのとき,突然「ドキドキッ」とした。何が起きたのか分からなかった。そして,何分かした後にまた「ドキッ」とする。これは心臓の鼓動がおかしいのではないかと気づいた。急いで腕の脈をみる。一定のリズムを刻んでいる。すると突然,脈が飛ぶ。同時に,胸がドキッとするのである。

 私は緊張した。こんな経験は初めてである。本当に心臓かどうか胸に手を当てて様子を伺った。間違いない。一定の間隔で心臓が止まっている。私はパニックになった。このまま死んでしまうのではないか?当時は,「不整脈」という名前すら聞いたことが無かったのだ。私は,恐怖におののきながら横になり,朝まで起きていた。緊張で鼓動が速くなったら,不整脈も少なくなった。

 私は,何とか実家に帰り医者に診てもらおうと思った。下宿してまだ1年経っておらず,大学のある街で医者にかかったことが無かった。適当な病院を探すのも容易ではない状態だ。これは実家に帰って,父母の助けを借りるのが得策だと考えた。幸い実家は隣県なので,それほど時間が掛からない。動いても大丈夫か心配だったが,何もせずに寝ている方がもっと怖かった。早朝のバスに乗り,駅へ向かった。実家へは,バスと電車で2時間くらいである。幸い,体を動かすことができる。バスに乗っているとき,そういえばS君とテニスの約束をし,コートで待ち合わせることにしていたことを思い出した。しかし,当時は携帯電話などない時代である。連絡の仕様が無かった。彼には,本当に申し訳なく,今でも頭が下がる。

 

 実家で預かっていた姉弟(これまでのこと31参照)の母親が,県立病院の看護師をしていた。彼女の勤めている病院に手続きをしてもらって,若い医師の診察を受けた。外来ではなく,個人的に診察してもらった。彼女には,若い医師が頼みやすかったのだろう。看護師の母親には,母や祖父母も病気の時にずいぶんお世話になった。大変感謝している。心電図等の検査の結果は,病気は認められないということだった。しかし,私は間違いなく心臓の脈が飛んだことを覚えている。釈然とせずにその場は終わった。

 その後,大学での勉強を再開し,1年が過ぎた。恐る恐るテニスをしても何ともなかった。一体あれは何だったんだろう?ただただ不可解だった。

 

 それからしばらくして,先の体調不良をすっかり忘れた頃である。その日は,日曜日だった。朝から何となく気分が悪い。落ち着いてはいるが,不安感がある。前日まで,珍しく3日連続でテニスをした(私は,不整脈のこともありテニス部を止めていた)。体が疲れていたので「そのせいか」と,あまり気にしていなかった。起きるのが遅かったので,そろそろ昼である。「どれ,どこかの店で昼飯にするか」と,重い体を押して外へ出た。その日は,ちょっと離れたところにある中華料理店へ行くことにし,歩き始めた。

 店に着くと客でいっぱいである。注文して席に着いたが,どうにも体調が悪い。どう悪いのか,自分でもよく分からなかった。何となく不安な,ちょっと動くと気を失いそうな,そんな感じである。こんなところで倒れるのは恥ずかしい。そんな時に限って,なかなか料理が来ない。不安からか脂汗が出て来た。家に帰って寝転がりたい気分である。早く決断しないと料理が来てしまう。意を決して,調理をしている中年の男主人に「急用ができたから,料理をキャンセルしてもいいか?」訊ねた。主人は,私を見て「分かりました,遅くなって済みません」と言った。ということは,まだ私の注文した料理に取り掛かっていなかったものとみえる。私は安堵して外へ出た。

 実は,何か食べれば心拍が上がり,かえって具合が良くなるのである。それは,ずっとあとで知った。当時,そんなことは知る由もない私は,かえって悪くなる方向に舵を切ったのだった。

 

 当時,私の住んでいたアパートは,急な坂道のてっぺんにあった。大学教養部の敷地に面したすぐ裏に,敷地と平行に細い道路がある。坂道は,その道路から大学と反対方向に垂直に伸びていた。アバートは新築で,四角い2階建てである。2階には4つの角に,同じ作りの4畳半が4部屋,1階には3部屋とダイニングキッチン,風呂,トイレが2つと玄関がある。初めて会う学生が,1階と2階に1人ずついた。その学生のうち2階の人物は,私より年上だった。残りの部屋は,すべて私と同学年の,よく知っているテニス部員が入っていた。全員男性である。

 私は,そのアパートで最初に契約した店子である。2年生になる前に,大学の近くのアパートに移りたいと思った。毎朝,バスで通うのが面倒になったのだ。そこで,春休みに,個人的にアパートを探して廻った。そして見つけたのが,まだ誰も入居していない新築のアパートだった。それは,急な坂道のてっぺんに建っていた。経営しているのは,お婆さん1人だ。旦那さんが大学の教授で,亡くなったのを機に,アパート経営を始めようとしていた。

 最初は,大家のお婆さんは「大学院生など年配の学生を入れたい」と言っていたが,私が熱心に通い詰めて,大家さんを説き伏せた。他のテニス部の連中は,どうやってこのアパートに行きついたのか分からない。どこかで噂を聞いてやってきたのだろう。大学に近い立地は,願ってもない物件だったからだ。しかも,新築である。その代わり,家賃は少し高かった。

 

 さて,体調のすぐれない私は,アパートへ続く,細くて長い坂道をゆっくり登って行く。ますます具合が悪い。何とか部屋に到着すると,すぐに布団を敷き寝転がった。天井をぼんやり見つめて,気持ちを落ち着けようとするが,一向に良くならない。心配と緊張が混じった,不安な気分が大きくなって行く。そして,とうとう例の「ドキッ」が来てしまった。さて,困った。体を起こすのも怖い。

 

 これは,誰かに助けを求めなければ不味い。自分自身で医者に行くのは難しかった。そういえば朝,私の部屋の真上の住人を見かけた。時折ゴトゴト音がするから,部屋に居ると思われる。彼は,テニス部かつ同学年の工学部学生である。年は一つ上の東京出身だ。機転を利かせてくれるに違いない。私は,その人物に助けを求めることにした。しかし,起き上がるのは怖い。仕方がないので,部屋で寝たまま彼の名前を呼ぶことにした。だが,心臓が止まりそうで,大きな声が出せない。とにかく彼の名を連呼しよう。「M(彼の名字)~っ…」。なんとも情けない,小さな声である。ここは仕方が無い。とにかく声が小さくても,何度も呼べば,そのうち気付いてくれるのではないか。そう思って,拝む気持ちで,繰り返しMの名前を呼んだ。

 それから,休み休み,20~30分も呼んだだろうか。なかなか気づいてくれない。そのとき,とうとう2階でガタっと音がして,Mが部屋を出た。そのまま階段を下りて私の部屋のドアを開けた。彼の顔が現れた。「呼んだ?」という。Mに体調が悪いことを伝えると,彼の後ろにいたSさんが顔を出して私に具合を尋ね,すぐにタクシーを呼んでくれた。

 Sさんは,ここの下宿人ではない。テニス部の1年先輩である。たまたまMの部屋に時立ち寄っていたらしい。Mは無責任に「もしもの時はどうしよう?」と,笑って言うので,SさんはMを叱った。Sさんは北海道出身で,スキーの上手な人である。体は小さく,テニスの技術は今一つだが,てきぱきとした頼りになる先輩だ。私の大好きな人である。その点,Mは1浪で私より1つ年上だ。ひょうひょうとして,老けた風体をしている。しかも,頭は悪く,大変わがままな奴だ。父親は某有名メーカーの重役である。だから何不自由なく暮らして来たのだろう。むしろ,平均よりいい生活をしてきた筈だ。「にも拘らず」というべきか「そうだから」というべきか。いつまでも子供で,他人への思いやりに欠けていた。ただ,常に精神的に落ち着いており,人に対してあまり緊張しない性格である。激高することもない。会社のような厳しい世界にはぴったりの性格を持った人物だと,私は思っている。だから,私も付き合いやすいし,話しやすい人間だった。親から,人の上に立つ能力を受け継いだのだろう。緊張の絶えない私にとっては,なんとも羨ましい人物なのである。

 さて,私は恐る恐る起き上がり,先輩の肩に手をかけて外へ出た。タクシーに乗って病院へ行った。運転手の心配(?)そうな顔が忘れられない。緊張で脈が速くなったので,不整脈を感じることはなかった。そのまま病院へ行き,診察を受けたが,前回と同じである。特に,異常は見られないという診断だ。相当不安で緊張していたので,脈拍はかなり高かった。あとで考えれば,脈が速いと不整脈が現れにくい。結局,肩透かしを食った感じで困惑するばかりだった。アパートで大騒ぎをしたので,普通は恥ずかしく申し訳ない気持ちで恐縮し,穴があったら入りたい気分…の筈であるが,そこは殆ど記憶していない。

 

 それからは,時折「ドキッ」と来ることがあっても,あまり気にしなくなった。職場の健康診断で,心電図検査がある。何か起きるのではないかと毎回緊張するが,特に何か言われることはなかった。検査は短時間であり,脈も少し速くなるので当然と思われる。

 

 大分歳を取ってから,それが不整脈だと知った。また,人間ドックで携帯心電図計を初めて使った。胸に電極を付けたまま,まる1日心電図を計測する。心電図はカセットテープのようなものに記録するのである。その結果を見ると,やはり頻繁に不整脈が記録されていた。普段仕事をしているときは,不整脈には気づかない。これまでの経験から,何らかの強い運動を長くやって,循環器,呼吸器系が極端に疲労すると,心拍数が高止まりして,なかなか下がらないことがある。その後,静かにして一晩寝ると,リラックスするとともに心拍が非常に遅くなる。そのときに時折,脈が乱れるのを感じる。先に書いた2回の体験は,まさにそういう状況と合致する。

 

 こうやって,不整脈を初めて経験してから50年以上を経た。今でも,よく起こる。しかし,全く気にすることはない。逆に,不整脈によって「いたって健康なままで突然死できれば,なんと幸せなことだろう」と思う。70歳を超した今,病気によって病院のベッドの上で苦しみながら死ぬのは,何とか回避したいものだ。これまで,痛みや呼吸不全,激しい咳,嘔吐など,様々な重病人を見て来た。それは本当に苦しそうで,自分はああなりたくないと強く思うのである。そういうことを言う人間に限って,一番ひどい目に合うのは分かっているのだが…。

これまでのこと34 医者の息子

 先に,歯科医の息子について書いた。今度は,平山君という内科・小児科医院の息子の話である。彼は高校の同級生であった。平山君は,大学付属小・中学校の卒業である。私は市のナンバースクール卒業なので,彼とは初対面だった。

 平山君は,四角い顔で,体もがっちりしている。背丈は高い方だ。ただ,猫背気味にのしのしと歩くので,身長は低めに見える。顔つきは大人しく,性格も目立つタイプではない。だからと言って,そんな繊細な感じはなかった。声は低く,よく通るバリトンボイスである。髪や学生服の感じも,垢ぬけた感じはしない。あえて例えれば,これまでほんわかと何不自由なく過ごしてきたと思われる雰囲気を持っていた。

 平山君の家は,内科・小児科医院である。街中(まちなか)に開業している。彼は長男で,妹が1人いる。私が,彼と付き合うようになったきっかけは,なんだったろうか?

 

 私は1年生の時,別の友人Mといつも一緒にいた。その友人は文学好きで,私の短編小説を大変気に入ってくれた。私が中学卒業の時に書いた,文集用のショートショートである。そこで私に,声をかけてきたわけだ。背が高く,体つきもがっしりしている。天然パーマで快活に喋る。人付き合いもよく,オタクっぽい感じの全くない,明るい人物である。ほぼ1年間一緒に遊んだ。しかし,2年に上がる前に,父親の転勤のために転校してしまった。

 それをきっかけに,私はすっかり孤立した。中学からの友人は,皆,運動部で活動していた。彼らとクラス内で話すことはあっても,放課後一緒に遊ぶことができない。転校した友人以外に,友達の輪を広げるきっかけが無かったのである。そんな時に,平山君と話をするようになった。仲良くなったきっかけは覚えていない。一緒に卓球をして遊んだのがきっかけだったか?講堂に卓球台が1台置いてあり,ラケットとピンポン玉を用意すれば,自由に遊ぶことができた。

 平山君は,卓球が好きだった。一度,同級生のS君と2人で彼の家に遊びに行ったことがある。彼の家とは,すなわち内科・小児科医院である。敷地に入ってすぐが,平屋の診療所だ。その奥に,家族の住む2階建ての家が繋がっていた。驚いたのは,その2階の廊下に卓球台が置いてあったことである。私の家だったら,そんなものを置けば,廊下がふさがってしまう。しかも台の前後に人間が立つ隙間が無い。その日は,3人で卓球をして楽しく遊んだ。

 

 1年生の時,私は油絵を選択した。芸術という科目で,音楽か美術を選択できた。音楽は苦手だったので[1],美術を選択した。美術は油彩だった。私は,油彩は初めてで,どんな道具が必要か,それをどう使ったらよいのかも知らなかった。当時の油彩の先生は,H先生という油絵画家だった。地元の初市(はついち)の風景を題材にしており,日展入選の経験もある。60歳前後のお爺さんだ。先生は,私の卒業アルバムに載っていない。恐らく,非常勤講師だったのだろう。H先生には,よく私の絵を褒めてもらった。めったに褒めることのない先生だったので,嬉しかった。私はそれで,根拠のない自信を付けたものである。それもあって,また書きたいと思う気持ちが常にある。しかし,他にもやりたいことがたくさんあり,道具をそろえる必要のある油絵は,なかなか手が出ない。そうしているうちに,私はH先生より歳をとってしまった。

 そんなこともあり,2年生になって急に美術部へ入りたくなった。授業が終わり,午後4時頃に家に帰って一人でいるのが,つまらなくなったのだ。それを平山君に話すと,彼も入部したいという。彼も当時,私と同じく帰宅部だった。話がまとまって,美術室へ入部願いに行った。同じ学年の生徒だと思うが,男子の部長らしい人物に「これから入るのでは,なかなか続かない。大丈夫か?」という説教じみた話をされた。しかし,こっちは入部する気満々であるから,聞く耳を持たなかった。

 入部して,そのあと何日か,美術室で石膏デッサンをしていた。最初のうちは,暗くなってから家に帰る疲労感が心地よかったものだ。その間,1日だけ,先輩らしき人が来て,私のデッサンを見てアドバイスをくれた。それ以外は,誰一人部屋に来なかった。私は,馬鹿々しくなり,何日か通った後,美術室へ行くのを止めた。部の行事もあったはずだが,私には全く連絡もなく,そのまま終わってしまった。平山君も,それほどやる気がなかったようで,すぐに来なくなった。結局,彼がどんな絵を描くのか分からずに終わった。

 

 平山君と2人で旅行に出かけた。行先は北海道の函館である。そんな遠方の旅行に,家族以外と行くのは初めてである。どういう経緯だったか忘れたが,彼が提案したものと思う。内弁慶な私が言い出すとは考えにくい。私は当時,1人で電車に乗ったことも無かった。

 旅程は,青森まで寝台特急で行き,青函連絡船に乗って函館へ行くというものだった。はて,寝台特急は私の街を通っていたろうか?特急,急行でどこかまで行って,寝台に乗り換えたかのかもしれない。50年を超える以前のことである。情けないが,これもよく覚えていない。

 家族以外と旅行など生まれて初めてである。両親は,たいそう驚いた。アルバイトなどしたことが無いから,貯金はゼロである。全額両親に出してもらって,列車の切符を買った。両親は,どうしても信じられないらしく,平山君の家にも電話をするなど,だいぶ慌てたようだ。行き帰りの寝台特急青函連絡船の切符を手にして,私はドキドキしながらその日を待った。

 函館と言えば,函館山から望む夜景で有名だ。当日,父のカメラを借りて,意気揚々と駅へ向かった。駅で平山君と待ち合わせ,慣れない電車旅行の始まりである。電車や連絡船でどれほど時間が掛かったか,あまり覚えていない。連絡船はネットで調べると3時間半を少し超える時間である。初めての旅行であるから,楽しかったに違いない。恐らく寝台では眠れなかったであろう。私は枕が変わると眠れない,神経質な性格である。それでなくても高校生の初めての単独旅行だ。

 さて,電車と連絡船に長時間乗り,漸く函館に付く。連絡船の,当時の到着駅は函館埠頭である。そこは,国鉄函館駅のすぐ後ろ(海側)にある。函館駅は,函館の街の南方に位置し,函館山がすぐそばである。街並みが記憶にあるから,函館山には徒歩で向かったのだろう。坂道と倉庫の立ち並ぶがらんとした道路を覚えている。函館山のふもとにロープウェイの駅がある。ロープウェイに乗ってようやく山頂である。暗くなるのを待って,いよいよ夜景の撮影だ。あちらこちらに夜景のポスターが貼ってあったから,初めて見る感じがしなかった。興ざめである。それでも,やはり綺麗な夜景であった。左手の湾には,橙色の電球をたくさん灯した船がいくつも出ている。イカ釣り漁船であろう。函館山の麓には,青い光にぼんやりと浮き出た,函館ハリストス正教会が見えた。

 何しろカメラなど使ったことが無い。しかも,夜である。シャッタースピードをどの位にすればいいのか分からない。いろいろ試して沢山夜景を撮った。あとで見ると,殆ど手振れである。しかも,夜景以外に函館の街や平山君の写真を1枚も撮っていない。電車や連絡船も撮ればよかった。今の子たちは,スマホがあるのでその辺は慣れているだろう。しかも,撮ればすぐその結果が見れる。しかし,当時はフィルム写真だけであるから,現像するまで,どんな具合に撮れたかまったく分からなかった。しかも若いだけに,思い出として写真を残すという感覚が無かった。とにかく「100万ドルの夜景」を撮りたかったのである。

 さて,ひとしきりカメラと奮闘して,気が付くともう〇時(午後6~7時頃?やけに早い時間だったと思うが,明確に覚えていない)だった。そろそろ帰ろうと,平山君とロープウェイ乗り場に行った。ところが,ロープウェイの運行最終時間を過ぎてしまっていたのだ。しかも,なんと雨まで降って来たではないか。夜であるから空模様など分からなかった。しかも,うっかり傘を持って来ていなかった。

 さて,困った。夜中の列車に乗る予定だったから,函館駅に行かなければならない。僕たちはやむを得ず,歩いて山を下りることにした。函館山をらせん状に下って行く,途方もなく長い夜道だ。しかも,雨が降りしきる中である。びしょ濡れになりながら,緩やかにカーブする舗装道路を,2人でとぼとぼ歩いた。しばらく歩くと,僕らのそばに,山を下りる途中の乗用車が止まった。助手席から,若いお兄さんが顔を出して,君らどうしたと聞く。ゴンドラに乗りそこなったというと,車に乗れという。2人連れのお兄さんたちは,大学生に見えた。今思えば,変なお兄さんに引っかからなくてラッキーだった。礼も言わずに車に乗り,「何処へ行くの?」と聞くので,「函館駅へ行くところです」と答える。私も平山君も,シャイな高校生なのであった。無事駅に着き,礼を言って車を降りた。…と思う。車の中で,我々2人とも沈黙していた。お兄さんたちも特に話しかけてくることもなく,自分たちで会話していた。当然といった風で車に乗せて送ってくれた彼らに,大変感謝している。

 

 そんなことで,函館で宿泊することなく,連絡船と電車に乗って帰ってきた。多感な時代であるから,詳細に覚えていても不思議はないが,50年以上たった今,明瞭に覚えているのは上に書いた程度である。2~30年前であれば,もっとよく覚えていた筈だ。それが,最近は人の名前が出て来ない年齢になった。過去の記憶も,霧の中である。歳を取るとは,情けなく,大変残念なことである。

 それにしても,夜景以外に何も考えなかった。五稜郭イカ刺し(毛蟹,ホタテ丼やうに丼(これは函館にないか?)など)を堪能することもなく,函館の歴史を勉強するでもない。今考えれば,何とももったいない旅行である。逆に,あれもこれもと忙しく見て廻る大人より,ずっと観光らしいのかもしれない。

 1枚だけ,私1人を連絡船上で撮った写真が残っている。甲板での立位姿である。平山君が撮ってくれたものだろう。当時,私はスポーツ刈りをしていた。これまでは,坊ちゃん刈りで,前髪を手で横に流していた。おしゃれにはあまり関心はなかった。中学からずっと学生服だったし,休みの日に女の子と遊ぶなんて,殆どなかったのである。そしてどういうわけか,急にスポーツ刈りにしたくなった。髪が邪魔だったこともある。また,1人で勝手に孤立していた。「世界は自分がたった1人。見ているモノは皆まぼろし」などという病んだ心に支配されていた。だから,どんな格好でも気にならなかった。髪を切った次の日,クラス中の同級生が私の頭を見て,異口同音に声を上げた。それほど,顔の印象が変わったのであろう。写真の中の立位の私は,今と比べるとかなり細身だ。

 

 1つ,他愛ない話だが,妙によく覚えていることがある。放課後,平山君と一緒に帰ろうと自転車置き場へ行った。2人とも自転車通学だったのだ。ところが,平山君がなかなか自転車を出さない。自転車の後輪を見ながら手でごそごそしている。「どうした?」と言って彼のもとへ行くと,ワイヤーの鍵を取ろうと懸命になっていた。

 リング状のワイヤー式の鍵で,長い金属ワイヤーの両端に鍵と鍵穴が付いている。鍵穴は4桁のダイヤル式である。それを車輪と,座席を支えるフレームなどと一緒に輪の中に入れる。そして,鍵を鍵穴に差し込み,鍵穴のダイヤルを回して4桁の数字を動かす。暗号のようにするのだ。当時は,車輪が回らなければそれでよかった。しかし,最近は自転車ごと盗難にあうことが多く,ガードレールや電柱などと一緒にワイヤーでつなぐことが常識になっている。

 私は,彼が何をしているのか手元を覗いた。ワイヤー式の鍵のダイヤルを一生懸命まわしている。「なんだ,4桁の番号を忘れたのか?」と思った。ところが,よく見るとびっくりした。なんと,このワイヤーが隣の自転車の車輪から来ていたのである‼そう,隣の自転車の持ち主が,自分のタイヤだけでなく平山君の自転車のスポークまで巻き込んでいたのだ。「ゲー。誰やこれ?」と私は言って,何か良い方法はないかを考えた。しかし,他人の鍵の番号など分かる筈もなく,4桁もあれば,大変な組み合わせ数である。

 しばらく2人で鍵と格闘していると,私の肩を叩くものがいる。振り返ると,知らない生徒だ。雰囲気から上級生と思われる。ニヤニヤして「お前ら自分の自転車に何をしている」という雰囲気である。恐らく,平山君の自転車を巻き込んで鍵をかけた張本人であろう。私は,平山君の自転車に引っかかっているワイヤー式の鍵を指さして「何とかしてくれ」と言った。上級生とおぼしき彼は,それを見て即座に自分の失態に気が付いたようだ。慌てて4桁の数字をカチャカチャして,鍵を外した。私と平山君は,その上級生が謝るもんだと思って,静かに見ていた。ところが彼は,鍵を外すとそそくさと自分の自転車に飛び乗り,急いで門を出て行くではないか?2人は,あぜんとしてそれを見ていた。そこそこの成績で入学して,将来はそれなりの職に就くだろう人物だと思われるが,その正体がこれだ!2人で同時に「何だ,アイツ!」と叫んでしまった。

 

 ある日,下校しようと玄関の外に出たら,ぱったり平山君と会った。学生の出入りする玄関は,正門の反対側にあり,広いグランドに面している。グランドはかなり低い位置にある。グランドまで横に長い石段が何段かあった。恐らくグランド側の土地は,もとは緩やかに傾斜して(下がって)いたのだろう。グランドを作るときに水平にしたために,校舎の方が高くなったものと思う。学生昇降口からグランドまでは,2~30メートルあり,広場になっていた。

 その広場で平山君は,運動着姿で卓球のラケットを持ち,盛んに素振りをしていた。そう,彼は卓球部へ中途入部したのである。彼とは,よく卓球をして遊んだので,彼が卓球を好きなのは知っていた。しかし,部活に入部するとは思わなかったので,驚いた。彼は体が大きく,普段は動きが比較的ゆったりしているので,卓球のような細かく速い運動は難しいのではないかと思っていた。「好き」と「選手になる」とは違うのである。彼の中学での経歴は,全く知らない。しかし,運動部で活動することはなかったと考えている。私は,中学の運動部で,大変嫌な思いをした。私のような性格の人間には,当時の運動部の体質は大嫌いだった。毎日遅くまでのキツイ練習,先輩たちのしごき,いじめなど,とても我慢できるものではなかった。だから私は,高校で運動部に入る気はさらさらなかった。平山君も,私に似た性格だと思っていたのである。

 例によってはっきり覚えていないが,恐らく早々に退部したと記憶している。当然の帰結である。

 

 彼が卓球部に入ってから,一緒に遊ぶことはなくなった。その後,3年生になると,彼とは別のクラスになり,交流は一切なくなった。

 

 

 私は高校を卒業し,大学へ進学した。進学してすぐに,硬式庭球部へ入部して,忙しい毎日を過ごしていた。

 大学2~3年生の春先だったろうか,平山君から,長文の手紙が来た。手紙を最初に出したのは,私の方だったのかもしれない。平山君の手紙には,大学入試がうまく行かず,東京で一人暮らしをしていると書いてある。寂しいらしい。それならば,東京へ遊びに行って,彼を励ましてやろうと考えた。

 せっかく東京に行くのだから,東京でしか味わえないものを経験したい。そこで,ライブコンサートがないか探した。ちょうど,「りりィ」のコンサートが,夜に予定されていた。「私は泣いています」がヒットした頃だ。早速2枚購入した。確か,都心の大学名のついたホールだったと思うが,これもすっかり記憶にない。宇崎竜童がゲスト出演することになっていた[2]。

 

 彼と連絡を取り,日にちを決めて,電車で東京へ向かった。当時覚えたての紙巻きたばこ(セブンスターだった)を1時間に1本くゆらせて,退屈な電車旅行を我慢した。当時の列車は,たばこは自由である。やっと東京(私は東日本の人間だから,上野駅終着である)へ着いた。東京というと1974年に発売された,マイペースのヒット曲「東京」が思い出される。それを,電車の中で口ずさみながら,東京で「可愛い女の子と友達になれればなぁ」と夢想し,気持ちが高揚したものだ。若かった。東京へ到着して,彼が書いた地図を頼りに,彼の住む場所へ向かった。いや,そうではなく,渋谷駅で待ち合わせて,バスで行ったような気もする。えい。情けない頭脳だ。

 そこは,一般的なライオンズマンションだった。立派な住まいに1人で住んでいた。間取りをよく覚えていない。今の一人用アパートのような,3畳とかいう狭いものではなかった。買ったのか賃貸なのか知らないが,さすが町医者である。ひとしきり談笑した後,恐らく外に食べに出かけたと思うが,これも全く覚えていない。

とにかく,この「医者の息子」の話においては,記憶の断片の,そのまた断片しか覚えていない。どうも,自ら記憶を封印したように思われる節がある。

 夕方になって,早速,都心のコンサート会場へ出かけた。駅を出てから,会場まで歩いたが,肝心の会場へなかなか着かない。途中道に迷ったときは,平山君がとうとう切れて,不平を言い出した。コンサートへ行きたいという強い執着心が,彼には無かったからかもしれない。今のように,スマホで位置関係を調べることなどできない時代だ。足が痛くなるほど歩いて,なんとか会場を見つけ,席に落ち着いた。それからは,とても楽しいコンサートだった。「りりィ」よりも,宇崎竜童の方が数段目立っていた。彼は優れたエンターテイナーで,客を引き込む力が強い。コンサートが終わってから,平山君が面白かったと喜んでいた。とても楽しかったようで,私も嬉しかった。

 

 その後しばらく,ご無沙汰していた。私が大学を卒業して就職し,2~3年経った頃,平山君の声を聞く機会があった。私が研修で東京へ来たときのことである。研修が終わったあと,宿を探さなければならなかった。そこで,平山君を思い出したのだ。しばらくぶりで彼の顔を見たかった。うまくすれば,泊まることができる。そこで,彼に電話してみた。相変わらずの様子である。いまだに浪人中のようだ。泊まれないか聞いたところ「妹が同居しているので難しい」という返事だった。それでは仕方がない。私は,JTBで宿を探すことにした。

 それ以来,平山君との接点は全く無くなった。当時も,まだ浪人しているのには驚いた。特に入りたい大学でもあるのだろうか。「まぁ,それでも,いつかはどこかの私大にでも入って,父親の跡を継ぐのであろう」と,さほど心配もせず,彼のことを忘れてしまった。

 

 

 それから,高校を卒業して10年も経ったろうか?私は,将来私の嫁さんになる女性と百貨店のレストランで食事をしていた(給料は安かった)。盆休みで帰郷した時だったと思う。その会話の途中,私と同い歳の彼女の兄(のちの義兄)が,小・中学校の同級生が火事で亡くなったと話したらしい。「誰?」と聞くと,内科医の息子だという。驚いて「名前は平山ではないか?」と聞くと,「確かそんな名前だ」と言うではないか…!

 火は彼の部屋から出た。その後,隣家の庭に倒れている平山君が発見されたが,死亡が確認されたという。自殺ではないかと噂されているらしい。彼は,医学部へ入るため,そのときもまだ浪人中だったという。私はそのとき,すでに28歳である。もし平山君が,高校を卒業したあと,大学浪人を続けたとすれば,9浪目にあたる。あらぬ噂が立っても仕方のない状況だった[3]。

 私は翌日,早速彼の家(平山内科・小児科医院)へ行った。あらかじめ電話を入れて置いた。彼の家までは,歩くと結構距離がある。しかし,テニスで鍛えた私は,可能な限り徒歩で行くのが当たり前だった。彼の家へ到着すると,両親と妹の家族総出で出迎えてくれた。

 早速,事件の説明を受けた。医院の奥に隣接する2階屋の,彼の部屋から出火した。彼の部屋は2階にあって,消す間もなく慌てて窓から飛び降りたという。隣家のブロック塀に飛び移ろうとしたが,足を滑らせて地面に落下した。そのとき頭を強く打ち,救急車で運ばれた。そして,意識が戻らないまま亡くなったらしい。火は家族によってすぐに鎮火された。家族は,特に母親は,事故であると強く念を押した。

 私の前に,T君が来てくれたという。それを聞いて思い出した。T君は卓球部で,平山君と仲が良かったのだ。背が高く,スマートで実直な人柄だった。小心でわがまま,人嫌いな私とはえらい違いの,立派な人格の人物だった。彼は文系であったから,我々(私と平山君)とは,クラスが別だった。

 私はそのとき,別の都府県に就職していたので,平山君の事件は初耳だった。別室にある,彼の遺影が置かれた仏壇に手を合わせたあと,彼の部屋を見る。何の変哲もない,勉強部屋であり,ベッドが置いてあった。特に火が出た様子は分からなかった。綺麗に直したか,火そのものが家屋に燃え移らなかったのだろう。これも,よく記憶にない。窓から外を見ると,下には,例のブロック塀が見えた。結構距離がある。しかも塀の頭には,屋根のような飾りがついていた。「降りたとき,いかにも足を滑らせそうだ」と私は思った。

 応接間で思い出話をした。テーブルに椅子だったろうか。左手に母親,正面に妹と父親がいた覚えがある。話の内容は全く覚えていない。というより,話のネタが無かった。高校時代の思い出を話したものと思う。彼のマンションに泊まったこと,ちらっと日記を見たこと,隣の音のことが書いてあったことを話したのを覚えている。何のタイミングだったか忘れたが,母親が「それなら,そのとき…してくれなかったの」と責める口調で言われた。私はたじろいだが,父親が「そんなことを言うもんじゃない」と助け船を出してくれた。私はその時まだ若く,社会性は皆無だった。すべて父母に任せきりであった。つまり,おぼこである。初めて会う相手に失礼かどうかを判断できなかった。実は今も,恥ずかしながら何も変わっていない。

 

 

 その後,忙しさにかまけて彼の家へ行くことはなかった。盆と正月しか,実家に帰ることが無かったこともある。大変申し訳ないと感じている。今の自分ならば,たとえ儀礼的とはいえ,定期的にお参りに行ったであろう。当時の私は,一度,顔を出したことで,荷を下ろした気分だったのである。

 Googleマップを見ると,今でも平山医院が,そのままそっくりある。撮影は2025年8月だ。彼と卓球をした,そして,彼の亡きあと,お参りに行ったあの家のままである。しかし,開院しているようには見えない。ひっそりとしている。屋根のペンキも剥げかけており,家屋もかなり古びている。玄関前のポーチは,舗装があちこちひび割れ,土が露出した部分がある。そこからセイタカアワダチソウが数本,我が物顔で立っている。玄関の戸には内側からカーテンが引かれていた。そして「内科・小児科,平山医院,☏…」と書いた,白く四角い箱型の看板がやけに新しく感じた。中にランプが入っており,暗くなると灯したのであろう。

 

 

[1]  音楽については全く素養が無く,育ちが人間を作る良い例である。

[2] 見つけた!1975年9月27日。ちょうど50年前ではないか!神田共立講堂だ!共立女子大,短大の講堂である。当時は,大きなホールが日比谷公会堂と共立講堂くらいしかなかった。だから,様々なコンサートが共立講堂で開かれた。TV,ラジオの音楽番組もここから中継されることが多く,共立講堂の知名度は高かった。翌年の12月で,共立講堂の外部への貸し出しを終了している。東京メトロ神保町駅からすぐだが,道に迷って,北の丸公園に出たのを覚えている。

[3] これを書いていて,最近の事件を思い出した。母親の強い指示で医学部を9浪した娘が母親を殺害した事件だ。精神的に追い詰められた末の犯行だという。世間が自殺と邪推するのも無理はない。

これまでのこと33 アーサー・アッシュ

 以下,2桁の年数字は「88年⇒1988年」と読み替えてください。

 

 私は,大学に入ってから硬式テニスを始めた。70年代の中頃である。高校時代からやりたいと思い始めた。しかしその頃,県内の高校には硬式テニスの部活動をやっているところは1校もなかった。当時の中学,高校でテニスと言えば,軟式テニスのことだった。高校の先生が「いま硬式テニス部を作れば,予選無しでインターハイへ行けるぞ」と言ったのをよく覚えている。

 

 当時のテニスは,ボールからウェアまで,何でも真っ白だった。いつからそうなったのか分からないが,一説には「汗をかいた時に,一番目立たないのが白い衣服だったから」と聞いたことがある。テニスは,貴族の遊びだったのである。ロンドンで初夏に行われるウィンブルドン選手権は,1877年から始まった。そこでは,今でも選手のウェア(帽子から靴下,ズックの色まで)は白が基調と決められている。また観客も,ある程度フォーマルな服装を求められる。いかにもイギリスらしいこだわりである。選手は,頑ななイギリス気質に,仕方がないといった風で従っている。ただ,女子選手達は最近,白だと生理のときに目立つと強硬に抗議した。そのため,ウィンブルドンでも折れて,黒のパンツをはいても良いことになった。

 初期の頃は,コートは芝生だった。綺麗な芝生の上でボールと戯れるのは,気持ちがいいではないか。転んでも,衣服に土がつかない。いかにも貴族の遊びである。先のウィンブルドン選手権では,今でも芝のコートで行われる。

 

 私が始めた頃は,すでにプロ組織が確立しており,世界のプロテニス選手が各地で試合をしていた。4大大会も順次プロも参加できるオープン大会になっていった(全仏,全英,全米が68年,全豪が69年)。オーストラリアのニューカム,ローズウォール,レーバー各選手らが円熟期であり,アメリカの若手のコナーズ選手が急激に力をつけていた。

 その中で,74年のウィンブルドン選手権決勝は強く印象に残っている。奇しくも,新進のコナーズと老練なローズウォールの決勝戦となった。ローズウォールは,そのとき39歳。間もなく40歳となる。彼はこれまで決勝に4度残ったが,いずれも敗退した。他の3大大会(豪,仏,米)は優勝経験がある。しかし,芝のウィンブルドンだけは優勝できなかった。年齢から考えて,最後のチャンスである。コナーズも初の決勝進出だったが,周囲はローズウォールに同情的で,彼を応援する声が多かった。

 しかし,歴史は非情だった。コナーズのフラット系の速いボールと,素早い動きに,ローズウォールはなすすべもなく,ストレート(6-1,6-1,6-4)で敗れた。圧倒的だった。コナーズは,ローズウォールへの同情的なインタビューに「自分も今後優勝できる保証はない。勝負というのはそういうもの」と答えた。2年後,急激に力を付けたスウェーデンのボルグ選手が優勝し,その後5連覇したのだから,コナーズの感想は,正鵠を射ていたことになる。

 

 さて,コナーズの初優勝の次の年,ウィンブルドン選手権で再びコナーズが決勝に残った。そして,その相手は,黒人のベテランテニスプレイヤー,アーサー・アッシュ選手である。アメリカ人同士の決勝となった。アッシュは43年生まれで,活躍を始めた時期は,ちょうど4大大会がオープン化される時期に当たる。だから,彼がプロ選手になってツアーに参加するようになったのは,27歳(70年)と遅かった。

 今回も前年と同様に,アッシュに期待がかかった。しかし,そのときアッシュはすでに32歳。今回もコナーズの圧勝ではないか。下馬評はそうだった。しかし,アッシュは利口だった。コナーズに対する作戦をしっかり練っていた(もちろん,コーチやヒッティングパートナーらと共に真剣に考えたに違いない)。アッシュの作戦は,試合をスローペースに持って行くことだった。バンバン打ち合ったのでは,コナーズの方が1枚上手である。アッシュはコナーズの速いボールを,適宜スピードを変えながら返球し,コナーズのタイミングをずらしていく。そして,時折スパッと速いボールをコーナーに打ち,エースを取る。また,ドロップショットを使ってコナーズを前に出し,また緩いボールを足元に落としてミスを誘う。それらの作戦がことごとく当たって,6-1, 6-1, 5-7, 6-4の4セットで決着をつけた。私も含めて,テニスファンはみんな驚いたに違いない。

 

 アッシュは,あらゆる点でスマートだった。体系はスリムで,全てのショットをそつなくこなすオールラウンドプレーヤだ。しかもキャリアの後半から,ヘッド製のかっこいいラケットを使っていた。アーサー・アッシュコンペティションという(画像1)。現在一般的になっているラケットと同じ,軸の部分がラケットヘッド(ガットの張ってあるボールを打つ部分)の左右両端に二股に分かれたラケットである。材質は,ボロン鋼となっており,金属のようだ。しかし詳しい情報はない。全体が銀色に塗られ,ラケットの厚みも薄かった。ラケットヘッドは現在の物より左右の幅が小さく,細面である。当時のラケットの主な材質は合板であるから,二股にするにはかなりの技術を要するし,強度や弾く強さを出すのは難しい。これが,やけにスマートで格好よく見えた。木のラケットしか知らない若い輩には,垂涎の的だったのだ。

 コナーズもウィルソン製の金属ラケットだった。こちらは,薄板状の金属を管状に加工したフレームのラケットである(画像2)。当時,金属ラケットは使われ始めたばかりだった。大概は,スチール製で重く,ボールの弾きが悪かった。そこで,できるだけ軽くするため,スチールの薄板をつかう。それでは強度が得られないから,管状にして本体を作ったのだ。また,アッシュのラケットのように,その厚みを極力薄くしたりしたのである。そのうち,もっと軽いアルミのラケットが売り出された。何しろアルミであるから衝撃に弱く,強い力を受けるとすぐに変形する。だから,間もなくプロ選手には使われなくなった。その特徴は,軽く,安価にできることだ。だから,まだ商店にはノーブランドの初心者,遊戯用として売っているらしい。

 現在のラケットは,グラスファイバーを素材に使っている。軽くて,強度がある。しかも,しなりが良く,よく飛ぶ。また,打った瞬間の手への振動が小さい。おかげで現代テニスは,ボールのスピードが当時の倍くらい速い。

 

 当然,アッシュは人気があった。特に,かっこいいラケットを,みんな欲しがった。しかし,あまりに高価で,学生には高根の花だった。当時,私の大学が加入している,地区学生テニス連盟主催の大会では,学生は皆,木のラケットを使っていた。私もフタバヤラケットのウィニングショットというラケットを買った。


 地区大会は,参加者が多いので,様々な大学のコートを使ってトーナメントが行われる。私の大学内のコートでも行われていた。たまたま私は,それを観戦した。そのとき,ある選手がヘッド製のアーサー・アッシュコンペティションを使っているではないか!しかも,同じラケットを3本も持っている。私はびっくりした。どんなにアルバイトをしても,そのラケットを3本も買うのは無理である。しかも,私の大学がある地区         

画像1 アーサー・アッシュ選手(持っているラケットがヘッドのアーサー・アッシュコンペティションhttps://www.atptour.com/en/news/atp-heritage-ashe-connors-1975-wimbledonより

 

画像2 ジミー・コナーズ選手(持っているラケットがウィルソンのスチール製ラケット)https://www.gettyimages.co.jp/search/2/image?phrase=%E3%82%B8%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%82%BAより

 

は,関東圏のような都会ではない。彼は,相当なお金持ちなのだろうと思った。プレーが始まった。ストロークやボレーなどは,十分練習を積んでおり,上手である。しかし,背丈も低く,圧倒的な強さは感じない。ウェアにもお金がかかっているようだが,それに見合った実力があるとは思えなかった。私は,自分の実力を棚に上げて「下手くそは,あんな立派なラケットを使うと,かえってみじめだな」と思った。 

 

 アッシュはスマートなだけでなく,言動も紳士的だった。もちろん実力も十分で,全英,全米,全豪の3タイトルを1回ずつ取っている。彼は,全盛期の途中でプロに転向した。だから,現在のように,若いときにすぐにプロになっていれば,もっと活躍したに違いない。私も「米国の黒人」である彼が,全米,いや世界中の人気者になれたのは,素晴らしいことだと思った。

 

 アッシュが引退してしばらくたってから,彼が病気で臥せっているというニュースを目にした。アッシュは,引退後も米国デビスカップの監督として,マッケンローらを率いて活躍していた。選手としてだけでなく,指導者,指揮者としても一流だったのである。アッシュは,すべてにおいて理知的な行動を示す。だから,テニス界では大いなる尊敬を受けていた。85年,42歳で国際テニス殿堂入りをしている。そのアッシュが病気だという。しかも,エイズだというので驚いた。心臓疾患があり,引退後の83年に受けた手術の際の輸血で感染したという。結局,93年の初頭に,49歳の若さで亡くなった。当時,エイズは不治の病だったのである。

 アッシュは運悪く,若くして亡くなった。それでも国際テニス殿堂入りし,グランドスラムも3回優勝するなど,選手として素晴らしい活躍である。しかも,ファッショナブルで大変人気がある。人の羨む,輝かしい人生だったのではないか。それが,私のアッシュに対する印象である。

 しかし…,事はそう単純ではなかった。彼のプロフィールを詳しく調べると,米国特有の問題が彼に重い荷物を背負わせていたことが分かった。

 

 

 アッシュの父親は米バージニア州リッチモンドで公園の管理人をしていた。テニスを始めたきっかけは不明である。公立のテニスコートで練習したようだ。父親の仕事場である公園に設置されたテニスコートだったのだろうか?父親がテニスの経験者だったのか?誰を相手にテニスをしたのか?詳しいことは分からない。ただ,当時の世相を考えると,テニスクラブの会員にはなれなかっただろう。

 アッシュが生まれた43年は,第2次世界大戦の最中である。テニスを始めた頃は,まだ黒人に対する差別が根強く残っていた。キング牧師が「私には夢がある(I have a dream)」とワシントンで演説したのは,63年のことである。だからアッシュは,ジュニアのテニス・トーナメントに参加できなかった。当時,黒人は大会にエントリー出来なかったのだ。そこで終わっていれば,誰にも知られることなく,一生を終えたであろう。しかし10歳の時に,黒人医師のロバート・ウォルター・ジョンソン氏(1899年 - 71年)と出会って,彼の人生は大きく変わった。

 

 ジョンソン氏は,ペンシルバニア州リンカーン大学で学位を取得した。リンカーン大学は,最初の伝統的黒人大学(Historically black colleges and universities,HBCU)であり,南北戦争が始まる前に設立された数少ない黒人のための学校だ。プロテスタント系宣教師団体の協力で設立された。当時アメリカ南部は,黒人の奴隷制や人種隔離政策の慣習的傾向が残っていた。だから,黒人が南部で公教育や高等教育を受けることが出来なかった。南北戦争後,奴隷制は廃止されたが,黒人の人種差別が南部を中心に根強く残っていたのである。

 ジョンソン氏は,在学中と卒業後にフットボールの選手,コーチとして活動した。その後,メハリー医科大学で学び,バージニア州のリンチバーグ総合病院で研修後,開業資格を得た(これは筆者の想像である。当時の医師免許取得の方法がはっきりしない。現在は,4年制大学(学部は問わない)を卒業後,メディカルスクールで4年勉強し,インターンシップを経て,各州別に医師免許取得試験を受ける。実際はもう少し複雑で,医師免許を取得するのは大変難しい)

 ジョンソン氏は,リンチバーグで黒人がテニスをできない現状を見て,黒人の子供達のためにテニスキャンプを主催した。人種差別とお金の問題のために,黒人にとってテニスは遠い存在だったのだ。彼は,全額を個人で負担した。そして,続々と有力選手を誕生させたのである。

 黒人女性で初めてのグランドスラム優勝を果たしたアリシアギブソン女史はこのキャンプから生まれた。彼女は,56年から58年にかけて,全仏1回,全英,全米をそれぞれ2回優勝した。彼女は当然,人種差別の壁を打ち破らなければならなかった。それでも,グランドスラム優勝を勝ち取ったのである。

 もちろん,ジョンソン氏の助力があってのことなのだが。地方で始めたばかりのキャンプから,グランドスラムの優勝者を出すというのは,奇跡に近い。これは,黒人が白人や他の有色人種に比べ,運動能力がずば抜けて優れている証拠ではないかと私は考える。ギブソンは,その後すぐにプロに転向した。しかし,当時はまだ,女子プロ選手は少なかった。だから,女子プロ組織は無いに等しく,彼女達のための大きなトーナメントもなかった。プロ転向後の彼女は,活躍の場が無かったのだ。グランドスラムはまだオープン化していなかったので,出場できなかった。

 ギブソンが活躍を始めた頃,ジョンソンは,10歳のアッシュを自宅に同居させ,英才教育を行った。アフリカ系アメリカ人公民権適用と人種差別の解消運動の高まりとともに,アッシュも徐々に試合出場の機会を得られるようになり,60,61年と「全米ジュニア室内テニス選手権」で2連覇した。ジョンソンはアッシュの勉強にも力を入れ,アッシュをカリフォルニア大学に進学させた。そして,アッシュは全米大学テニス選手権で優勝した。その業績が認められて,63年からデビスカップアメリカ代表選手に選ばれた。黒人がメンバーになったのは,アッシュが初めてである。

 当時,黒人であることのハンディは大きく,ちょっとした行動を非難されることが多々あった。白人による人種偏見は,根強かったのである。白人社会の中に溶け込むには,強い自己抑制と紳士的態度が必要である。そう思ったジョンソンは,信念をもって少年たちを指導した。テニスの大会に出場する道中で,少年たちにひとつひとつ具体的な動作を指示した。白人の審判に後ろ指をさされないよう,しぐさの全てに気を配ったのである。アッシュは,頭脳明晰だったので,それを忠実に守った。勉強もし,大学を卒業した。そして,プロテニス選手になった。彼の態度はいつも紳士的で,行動を批判されることは1度もなかった。もちろん彼の生まれつきの性格だけでなく,強い自己抑制を自分に強いていたものと推察される。

 

 アッシュは80年に引退する。その後,81年から5年間,デビスカップアメリカ代表監督としてテニスにかかわる。その前後にアッシュは3度手術を受けている。彼は心臓を患っており,78年に最初の発作に襲われ,手術をした。以降,良くなることはなく,83年に2度目の手術を受けた。疾患の名称は,ネットのどの記録を見ても書いていない。バイパス手術と書いた資料があるので,血管系の病気だったと思われる。また,今度は88年に脳の手術(病名不明)を受け,そのときにエイズに感染していることが判明した。原因は,83年の心臓手術の際に輸血された血液にHIVウィルスが混じっていたことだという。

 

 アッシュは,引退後アメリカの黒人のために様々な取り組みを行った。

 黒人だけのフロリダ・メモリアル・カレッジで教鞭をとる。しかし,学生の学力の低さと意欲やプライドの欠如を嘆く。そこで,学生に誇りを取り戻させる講義の素材として黒人アスリートの活躍の歴史を調べようとした。しかし,情報が極端に少いため,自ら調査を行う決心をした。そしてスタッフを雇い,30万ドルもの私費を投じて地道な資料集めと聞き取り調査を行なった。その結果をまとめて「栄光への険しい道」(A Hard Road to Glory)全3巻を88年に出版した。後に南アフリカの大統領になるネルソン・マンデラは獄中でこの本を読み,アッシュと言葉を交わす仲となった。

 アッシュは,エイズ感染が分かってから,92年にアーサー・アッシュ・エイズ撲滅財団を創設した。エイズは,81年のアメリカ合衆国における初確認から90年代半ばまでは治療法がなかった。しかしその後,服薬で体内のHIVを減らすことができるようになった。薬は完ぺきなものではない。服薬には副作用がある。また,発症を抑えるため生涯続ける必要がある。HIVを体内から完全になくすワクチンは,まだ研究途上だ。幹細胞移植などによる完治例が少数ながらある。だた,治療により,感染者の平均余命は非感染者とほぼ同水準まで延長されているとする研究も報告されている。

 また,同じ92年にアフリカ系アメリカ人アスリート協会(AAAA)を発足させた。黒人アスリートに対する学業支援,雇用支援のための団体だ。その中で特に,人間教育に力を入れている。

 

 アッシュの人生をたどると,アパルトヘイトに果敢に挑戦する姿が見える。そのきっかけは,ジョンソン医師だった。しかし,著名人となり,本当の意味で黒人の地位を上げる活動は,アッシュ一手に託されたと言っていい。最後は,エイズに罹患し49歳という若さでこの世を去ることになった。なんと厳しい,前向きな,そして命を懸けた人生なのだろう。わが身を律し,常に紳士的な,抵抗に負けない人生。こう書くと,優雅な,篤志家の,皆に賞賛される人生のように見える。しかし,人種偏見はそんな単純なものではない。大変な“いばらの道”だったのではないかと推察する。

 68年のメキシコオリンピックで,男子200mで1位と2位だった2人の黒人選手が,表彰台で米国国歌が流れるとき,頭を垂れ,片手をあげて黒人差別に抗議した。ブラック・パワー・サリュートと呼ぶ。アッシュも,初期の頃,背中に黒い拳を画いたTシャツを着て練習する写真が残っている。南北戦争後,奴隷制が廃止され,63年にワシントン大行進が行われてなお,黒人の生活は低レベルだったのである。

 

 アッシュは86年に1人娘カメラを授かっている。娘に残した手紙がある[2]。これを読めば,アッシュの人となりがよく分かる。

 

  1.  困ったとき,迷ったとき,父ならどう考え,どう言うかを知りたければ,母に聞け。
  2.  父は,奴隷として米国に渡ったアフリカ系アメリカ人の子孫である。お前は,深く根を張った大きな家系樹から芽生えた,輝ける若葉だ。
  3.  人種差別と性差別を,ベストを尽くさないことの言い訳にしてはならない。絶望という誘惑に負けるな。
  4.  どんな人々の中に入っても気後れせず,ゆったりうち解けることができる人になれ。
  5.  英語以外に少なくとも2か国語を学べ。
  6.  お金に使われるな。お金は快適な暮らし,教育,家族のための健康保険,困っている人への寄付,非常時のための蓄えに充てよ。派手な暮らしをするな。
  7.  生涯続けられるスポーツを少なくとも2つマスターせよ。スポーツはすばらしい。一生楽しみをもたらしてくれる。自分自身についてたくさんのことを教えてくれる。自分の感情や性格もわかるし,危機に立った時の冷静な対処,敗北の瀬戸際での反撃の仕方なども身につく。この点でスポーツほど貴重な教訓を与えてくれるものはあまりない。
  8.  音楽と美術に対する鑑賞眼を養いなえ。
  9.  時間にふりまわされるな。することを慎重に選び,それに全力を傾けよ。
  10.  良き配偶者を選び,2人に合ったルールを決めてともに歩み,許しあえ。
  11.  神に祈れ。頼みごとをするためではなく,何が正しいことか,神が何を望んでおられるかを知る知恵と,それを実行する意志を祈り求めよ。

 

 

 私は,アッシュが背負った荷の重さに愕然とし,狭い心の自分を恥じるしかなかった。

 

 

引用先

[1] https://ja.wikipedia.org/wiki/アーサー・アッシュ

[2] 横浜テニス研究所tennis55.exblog.jp。「静かな闘い……アーサー・アッシュ自伝」

https://tennis55.exblog.jp/4981928

[3] アーサー・アッシュ公式サイト,http://www.cmgww.com/sports/ashe/

これまでのこと32 小便の恐怖

 私は緊張しやすかったため,小便が近くて困ることが多かった。特に学校の授業中に我慢できなくなることがあった。しかし私には,先生にトイレに行っていいか聞くことができない。休み時間には,必ずトイレに行くようにしていた。しかし,クラスメートとふざけていたりして,トイレに行けないことがある。そんな時は,決まって授業中に小便がたまって,漏れそうになった。

 授業以外には,バスを使った旅行では,いつも心配だった。途中でバスを止める訳にはいかない。幸い,緊急事態になることはなかったが,ほとほと嫌な気質であった。

 クラスメートの女子に,生まれつき体調管理の必要な子がいた。母が言うには,尿意を感じないらしい。いつもオムツをしていると聞いた。だから,その子のそばに行くと,何か臭うような気がした。ひょっとして,自分も臭いがするのではないかと心配したものである。

 

 何度も大変な思いをしただろう。しかし,はっきり思い出せるのは,3回だけである。

 

 1回は小学校の授業中だった。今にも漏れそうになるが,言い出せない。ほとほと困って,隣の女の子に,冗談めかして言った。その女の子は,親分肌の子で,大変優しかった。私の代わりに,先生に言ってくれたのだ。先生に,行っていいと言われ,私は急いで教室を出た。しかし,トイレに到着する途中で,少し漏れてしまった。幸い表に出る程では無かったので,その日は,少し濡れたパンツのままで,知らんぷりをした。

 プールの日が忘れられない。その日は,曇りで気温が低かった。プールで泳いでいると,急にもよおしてきた。さて困った。プールの中でするのは,申し訳ない。かといって,授業を抜け出して,トイレに行くのは怒られそうだ。仕方なく,プールサイドの金網の下,雑草の出ているところで,こそっとやった。そうしたら,嫌みな奴に見つかった。「まあちゃん,しょんべんしてる~」という。クラスの友人もいた。私は,やばいところを見つかったなぁと思っていると,意外に彼もやったことがあるようで,大した気にもせずに,また泳ぎに戻った。私は,ホッとした。今思えば,勝手にトイレに行けばいいし,何ならプールの中で,こっそりやればいい。そこは,真面目な小学生なのである。

 中学の時も,よく授業中にトイレに行きたくなった。大概は,体をゆすりながら我慢した。一度だけ,どうにも我慢できないことがあった。英語の時間である。口の悪い,女性教師の時だった。40人も生徒がいて,先生の話を静かに聞いている。その雰囲気を破って,先生にトイレに行きたいというのは,相当な勇気が必要であった。私は一計を案じた。手の甲に,ついたばかりの傷があり,かさぶたを取ったら,血が出て来た。特に痛くもなかったが,これはチャンスと思った。私は,意を決して先生のいる教卓へ向かい,手を見せて保健室へ行きたいといった。まあ,見た目もかなりひどかったので,すぐにOKが出た。私は,急いでトイレに駆け込んだ。途中危うく漏れるところであった。トイレで一息ついて,ゆっくり教室に戻った。そうしたら,先生が「どんな治療をした?」と聞くので焦った。私は,「消毒をして,何か塗りました」とドギマギして言った。いやいや,嘘はつけないものである。

 

 私は,幼稚園の頃から良く寝小便をした。私の性格から,当然といえば当然である。それは,小学校になっても治らなかった。夜中に小便を我慢した記憶もない。朝,目が覚めて初めて気がつく。年寄りになり,恐らく薬の影響で寝小便をすることがある。そのときは,小便を我慢する夢を見ながら,小便が出た瞬間に目が覚める。しかし,子供の頃は,朝までぐっすり寝ているのである。最近,記憶違いだったことが判明したこともあるから,当時も案外,夢を見ていたかもしれないが。

 何が原因なのか分からない。ネットで調べてみると,自律神経と抗利尿ホルモンのバランスが悪いらしい。ただ,言わなければ,同級生には気づかれないのが,不幸中の幸いである。そして,父も母も怒ることはなかった。おかげで私も,特に気にせず生活が出来た。劣等感を抱くこともなかった。それも,中学生になったら自然と治った。

 それがあって,小学校の泊まり込みの海浜学校は面倒だった。おそらく,秘密裏に(?)アンケートがとられ,宿泊で不都合のある児童を把握したものと思われる。数人の親(ほとんど母親だった)が引率でついており,私の母も来た。それもあってか,特に心配はしていなかった。ところが,夜中に知らない父兄に起こされた。ぼーっとした頭で,それでもトイレに行けということだろうと察して,起きた。ところが,トイレが終わって布団に入るとすぐ,別の父兄が起こしに来た。私は,よく意味が分からなかったが,とりあえずトイレに行った。おかげで,次の日は寝ぼけ眼であった。父兄は,こういったことには慣れていないだろから,指示の行き違いがあったのだろう。

 今でも,小学生の宿泊学習はあるようだ。今は,紙オムツがあるので,先生の部屋で着替えるらしい。それよりも,風呂で身体を拭いたりできないとか,リュックの中身を整理して出し入れ出来ないとか,また,髪の長い女子児童で,自分で髪を結わえることが出来ない子が多いとか,もっとレベルの低い話がネットに載っている。私の子供の頃は,女の子はかなりしっかりしていた記憶があるのだが。

 

 とにかく,寝小便については,父母の対応に感謝している。

 

 ところで,小便とは直接関係ないけれども,トイレ繋がりで思い出がある。私が小学校の頃は,検便があった。もう約60年も前の話であるから,どうやって便をとったのか記憶にない。ただ,当時は和式の水洗トイレだ。だから,ウンチが便器に残るので,採り易かったと思われる。確か,マッチ棒のようなもので,便を一切れ採り,ビニールの袋に棒ごと入れる。それをさらに,マッチ箱によく似た箱に入れて,提出したものと思う。保健委員というのがいて,朝,大きな紙袋を持って,みんなの便を集めて廻るのだった。さすがに,皆,キャーキャー言ったものである。子供であるから,腸の病気を見つける訳ではない。体内に寄生虫がいないか調べるためである。

 検便については,何故かよく覚えている逸話がある。子供が便をとるのを忘れて登校した。その子のお母さんが,慌てて自分の便を取り,学校に届けたというのである。本当の話かどうかわからない。ただ,お母さんの気持ちがよく分かった。小走りで,便を学校に持って来るお母さんの,一生懸命な顔を,何故か思い浮かべるのだった。

 検便は,そのうち無くなり,蟯虫(ぎょうちゅう)検査に変わった。使うのは,ポキールという商品名の,粘着シートである。朝,起き掛けに,その接着剤のついた面を肛門に押し付けて,そのシートを提出するのである。回虫のような大きな虫は少なくなり,小さな蟯虫がいつまでも残ったらしい。蟯虫は,朝,肛門の回りに卵を産む。そうすると,肛門のあたりが痒くなるという。それを手で掻くと,卵が手に付き,そこから他人や自分にうつるのである。その卵を,ポキールで見つけるのだ。私の時代は,結構この虫を持つ子供がおり,虫下しを処方されていた。

 

 ところで,先に触れた海浜学校の集合写真には,母が写っている。私は,母が一緒に行ったことを,よく覚えていない。何人か,保護者がついて行ったようだ。

 また,卒業後に撮った,同学年の担任の先生方の集合写真がある。そこには父も写っていた。どこかのホテルか旅館の部屋のようだ。それとも,割烹だったのかもしれない。父は何か役員でもしていたのだろうか?これも,私には記憶がない。私は6年生の時,男の先生が担任だった。私の嫌な性格を,その先生にずいぶん見せつけた覚えがある。しかし,この席では,そういった話は無かったようだ。記憶が薄れ,また父母も亡くなり,何があったのか分からなくなってしまった。もう聞くことができない。悲しいことである。