SENSAIまさの備忘録

繊細気質まさの過去を振り返る

これまでのこと21 教育実習Ⅱ

 この話は実話をもとにしたフィクションである。氏名は仮名であり,敬語を省略した。

 

 私は,担当クラスをじっくり観察した。まず目に入ったのは,女子生徒の2人組である。いつも二人でいる。そして,クラスメイトとは距離を置いていた。一人は背が高く,もう一人はずんぐりした女子生徒である。しかし,髪型とか雰囲気がどちらも大人びていた。それとなく近づいて,話しかけた。二人とも鍵っ子だった。放課後は,家に帰ってもやることがないから,二人でブラブラしているという。クラブ活動(当時は授業に「クラブ活動」はなく,今でいう「部活」をそのまま「クラブ活動」と言っていた)は,周囲とうまくやっていく気がないので,入らないと言った。話し相手が欲しかったのか,私が教生で学校関係者でないことがよかったのか,二人は気さくに話し相手になってくれた。しばらくして,私は一計を案じた。ちょうど,教室の雰囲気が寒々しいと思っていた。私が中学生の頃は,誰が用意したか知らないが,教卓に花瓶が置いてあった。そこに,いつも数輪花が挿してあったのである。そこで,二人に500円札(硬貨ではない。札である)を渡し,何か見繕って花を買ってきてくれるよう頼んだ。彼女らは喜んで了解した。花瓶はどうしたのか記憶がない。もともとあったので,花が欲しいと思ったのかもしれない。2~3日した,ある日の朝,教室をのぞくと,可憐なリンドウとカスミソウが花瓶に揺れていた。どんな境遇にあっても,中学生はいい子なんだとつくづく感じた。

 

 ある日の放課後,アパートに帰ろうと学校を出て,グランドを横切ろうとした。正門から出入りすると,学校の広いグランドに沿って,大きく迂回しなければならない。しかも,グランドから校舎まで上り坂になっている。そのため,校舎とグランドの間には,段差があり,階段になっていた。したがって,雨の日以外は,グランドを通る方が近道で,楽である。慣れてくると,グランドを横切って下校するようになった。朝の登校時は,生徒も大勢いるので,さすがにそれはできない。グランドに降りようとした時,校舎のそばで,男子生徒3人が車座になっている。例の「うんこ」座りをしていた。中学校で教育実習を行うことが決まった時,真っ先に想像したのは,このような生徒である。しかし,それに関する知識は,たかが知れており,漫画を読んだことによるイメージが先行していた。ここで,私の好奇心が疼いた。私は,彼らに近づき,「クラブ活動はしないのかい?」と聞いた。背中を向けていた生徒が,いぶかしげに「あーぁ?」と振り向いた。それは,いかにも不良という顔つきである。私は,これはいかんと思い「良い,良い」と言って,声掛けを止めた。3人は,どっと笑った。彼らには,何を言っても駄目だと思ったのだ。しかし,後にも先にも,そのような生徒には二度と会わなかった。ほとんどの生徒が,ごく普通に見えた。そのような生徒は,そういう場でのみ明瞭になり,普段は,周囲の景色に溶け込んでいるのではないか。また後に流行する,ツッパリ特有のいでたちは,まだ見られなかった。先に述べたが,教育実習生は,不穏な現場に立ち会うということはなかった。70年代は,まだ平穏だったのである。

 次の日,クラスの生徒達にそのことを話すと,いつの間にか,私に「弱気先生」というあだ名がついてしまった。そのものずばりだが,私は気に入った。間違いなく,私そのものなのだから。そのうち,隣のクラスの生徒に知られた。休み時間に,廊下で男子生徒たちに「弱気先生」と呼び止められ,話しかけられた。私は,クラスの生徒の名前をほとんど覚えていた。同じように,隣のクラスの生徒の名前を直接聞いて,呼ぶようにすると,次から次へと名前を憶えてくれと言われて,閉口した。私は,子供たちが好きだ。緊張しやすい私でも,気を使う必要がないからである。さすがに中学生になると,難しいかなと思っていた。しかし,まったく変わることがなく,可愛いだけだった。

 

 その日は天気が良かった。午前中は,2年2組以外のクラスでの授業である。礼をし,出欠を取った。これが結構,時間がかかる。名前が読めない生徒や,変わった読み方の名字があるので,あらかじめ調べていく。そのクラス担当の実習生に聞くのが,手っ取り早い。現代では,殆どの生徒が,不思議な読み方の名前を持っているので,調べてもわからないことが多い。当時は,そういうことはなかった。それだけに,うっかり間違えて呼ぶと,間違えられた生徒は気分がよくないので,気を使った。授業を始めると,このクラスもシーンとしている。当たり前なのかもしれないが,あまりに静かなのでむしろ不自然に感じる。放課後の彼らは,活発で賑やかだからだ。

 クラスを廻って,私が板書したことが書けているか見ていくと,一人テキストもノートも机上に出していない男子生徒がいる。「教科書は?」と聞くと,「持ってきていません」と言う。そういう生徒もいるだろうと思っていたので,特に変には思わなかった。私は,教卓へ戻って,レポート用紙を1枚とり,彼の机に置いた。「メモくらい取りなさい」と彼に言って,教卓の方を振り向いた。

 

 その時,私の背中に軽い圧力を感じた。振り向くと,彼は,万年筆を5本束ねて,右手に持っていた。皆キャップがついていない。

 

「あ,やったな」と思った。私の背中にインクを振りかけたに違いない。万年筆は,当時流行していた,様々な色のインクのものだった。持ち手やキャップ部分はプラスチックでできており,色とりどりである。多色のインクと共に,安価で人気があった。私は,その時,真っ白な開襟の半袖シャツを着ていた。背中は,さぞ極彩色のしずくで綺麗なことだろう。教室から,女子生徒数人の「うわぁ,ひどい」という黄色い声が上がった。私は「やられた」と思った。しかし,中学校に行くと聞いた時から,そういうことは起こり得ることと,あらかじめ思っていたので,そう大きなショックはなかった。むしろ,教室がそれで騒然となることを心配した。私は,彼に「こら!」と普通の声で言って,頭を軽くしごいた。あとは,どぎまぎしながら,授業を再開した。さすがに教室は,ざわついた。私がじたばたせずにいれば,そのまま授業は進行する。

 授業を終えて,実習生の詰め所に帰り,そこにいた人たちに事の顛末を話した。かなりの同情を誘ったが,私自身は,割り切っており,結局バスを乗り継いで家に帰るまで,シャツの背中がどうなっているか見ることもしなかった。もちろん,そのシャツはお釈迦である。

 さて,教員にこの話が伝わった時,かなり衝撃を与えたようだ。先生方と私とのとらえ方のギャップに,ただ戸惑うばかりだった。次の日,担任の男先生が当該生徒を連れてやって来て,私に詫びた。何がどう動いたのか,私は知らない。ただ,男子生徒が本当に悔いているとは思えなかった。

 

 教育実習は,そうやって慌ただしく終了した。ここに挙げた事の他に,一緒に教室の掃除をしたり,目立つ生徒に将来のことを聞いたり,女子生徒のソフトボール部に声をかけ,教生チームと試合をしたり,とても密度の濃い2週間であった。正規の先生と異なり,教育実習生は,生徒に対する責任がない。したがって,私は,ただただ楽しかった。新しい環境では,気分が高揚する。それも手伝ったのかもしれない。私は,昔から子供が好きだった。中学生も同じように子供で,楽しく付き合えることが嬉しかった。もちろん,先生と生徒という,厳然たる立ち位置の違いは大きい。そうであっても,この仕事は,自分に向いているのではないかと強く思ったものである。

 

あとがき

 本編を書くにあたり,当時の出来事を思い出そうとした。しかし,場面のイメージは,個々に湧くが,前後のつながりがない。また,会話を含む,文字列が全く思い出せない。実は,配布されたプリントや日誌を大事にしまっていた。ところが,例の断捨離ブームの中で,「私しかわからない,他人には用のないもの」のくくりで,捨ててしまったのである。大失敗,後の祭りだ。まさか,回顧録を書くなど,若い頃には思いもつかなかった。

これまでのこと20 教育実習Ⅰ

 この話は実話をもとにしたフィクションである。氏名は仮名であり,敬語を省略した。

 

 私は,工学部4年生のとき,就活に失敗した。そこで,とりあえず卒業し,翌年度に再度就活を行うことにした。いわゆる「既卒」である。次の就活までに時間があったので,聴講生としていくつかの授業を履修した。理科の教員免許を取得するためだ。高等学校の先生も視野に入れて置こうと思ったのである。言ってみれば「でもしか」だ。理科というのは,工学部だからということである。後に,数学の免許も取っておけばよかったと思った。なぜなら,主要3科目,国,数,英は需要が多いのではないかと考えたからである。しかし,今,調べてみると,意外や主要3科目は倍率が高い。一方,社会,理科はそれほどの倍率ではない。ただし,社会,理科の採用人数は,かなり少ないはずなので,主要3科目に比べ,やはり合格は難しそうである。一方,中学校の工業の免許も取得可能だった。しかし,中学校というと荒れているというイメージがあり,二の足を踏んだ。これは,教育実習に行くことになって,全くの取り越し苦労だったことが分かる。この話は,70年代後半のことである。その時代の中学校は「荒れる中学」のほんの序の口だった。そう,80年代になって,いわゆる「ツッパリ」が大流行するのである。

 さて,教員免許を得るためには,2週間にわたる教育実習が必要だ。私は,桜ケ丘中学校で教育実習をすることに決まった。それは,大規模な新興住宅団地「桜ケ丘」の真ん中にある。綺麗に区画整理がなされ,道路が碁盤の目になっている。母子家庭のような低所得の家族から,弁護士のような高額納税者の家族まで,幅広い所得者層が住んでいた。低所得者用に市営団地(アパート)も建設されている。また,町の中央にはショッピングセンターがある。公設小売市場がつくられ,それに隣接する形で開店した。これは40年以上前の話である。現在ショッピングセンターは寂れ,閉店のうわさもある。理由の一つは,スーパーマーケットの大規模化である。ショッピングセンターは,今のショッピングモールに比べ,かなり見劣りがする。二つ目の理由として,自家用車で移動する時代になり,大駐車場を伴った店舗に人を取られてしまったことがある。

 桜ケ丘は,私の住むアパートと駅を中心に反対側にあった。したがって,中学までの通勤は,バスで1回乗り換えて1時間近くかかった。理科の教育実習担当は,小森先生と,もう一人男の先生である。小森先生は,2年生の学年主任だった。また,実習生一人に一クラスが貼り付けられ,勉強以外の生徒とのかかわりを学ぶことになっていた。私が配属されたクラスは2年2組である。担任は石川先生という女の先生だ。教育実習初日,教員室で校長先生が教育実習生(教生)を紹介した。そして「学校が終わって,手ぶらで帰るようでは駄目だ。常に向上心を持ち,勉強を続けなければならない」と訓示した。なぜか,それはよく覚えている。教生は,各科目数人ずつ約20人いた。指導する先生方も,大変だったであろう。各人に日誌とスケジュール表が配られた。その後,石川先生と共に,2年2組へ挨拶に行った。生徒を前に自己紹介をしたが,何を話したか覚えていない。生徒は,思っていたよりずっと小さく,幼く見えた。石川先生は,毎日の日誌記事に,丁寧な感想を書いてくれた。小森先生も同様である。有り難いことだ。

 理科は,4人の教生がいた。私は工学部出身ということか,土木科の大学院生河合君(同じ年齢)と2人組となった。2人の理科の先生が,2人ずつ受け持つ形である。私と河合君の指導教員は小森先生だ。小森先生は,教育実習の二日目に,授業でやることを説明し,あとは我々に任せきりだった。先生は,空いた時間を使って,家庭訪問や生徒指導に当たっていたのである。任されたのは,主に理科室における実験実習である。教室の座学では,実習に関連のある部分を教えることになった。授業については,実施計画書を作って提出する。それをもとに担当者で会議を開き,内容を詰めた。授業内容を考えるのは,初めてのことだったので,テキストの「虎の巻」を見ながら計画書を書いた。なかなか難しかったことを覚えている。

 

 小森先生は,タンクタンクロー(古い漫画である。知らない方はググっていただきたい)のような風貌だった。先生は,先にも述べたように,この時とばかり,家庭訪問や校外に生徒指導のため出かけた。例えば,女子生徒が30代の男の住んでいるアパートに,しょっちゅう出入りしているという情報が入り,様子を見に行った。また,ショッピングセンターの屋上に,男子生徒のグループが集合するということを耳に挟み,現場を押さえに出かけた。どうも他校の生徒と会うらしい。しかし,教生はそれに同行しないので,どんな修羅場になるのか,私には想像できなかった。

 小森先生は,ごくたまに,私と相棒の河合君と一緒に話をした。先生は囲碁が好きだと言う。河合君は囲碁ができるらしい。二人は,囲碁の定石の話をしていた。私には,ちんぷんかんぷんだ。また,先生の同級生が「複数人と同時に話ができるトランシーバーの特許を取った」という話をした。河合君は,勇んで「こうですね」と言ってチョークをつかんだ。そして,黒板に正弦波を書き,それに,同位相,同周期で,垂直な偏波面の正弦波を書き加えた。さすが,土木だ。電磁波のことを何も知らない。それは,電界と磁界だ。私は「まさか」と言って,電磁波に,矩形パルス状に時間分割した信号を入れる絵を描いた。そして「信号を時系列で分割して,同期を取って複数に分け,それぞれ別々にアナログ信号に変換するのではないですか?」と言った。小森先生は「そうだそれだ。友人も同じことを言っていた」と答えた。ひょんなところで,学科の違いによる常識の違いを垣間見たのだった。

 

 ある日,理科担当のもう一人の先生が,私の授業を参観した。メモを取っているようだ。私は,特に気にもせず,いつものように授業をした。どうせ,うまい授業などできないと思っていたからだ。内容は,担当する実験と関連したものだ。実験は,水の表面に細かい粒子の粉をかけ,その広がりから,水分子の大きさを予測するものだった。そこで,水分子の大きさの授業を行った。分子の大きさが3×10-10mというところを,実際に1の前に0を10個つけて,3で割って見せて,こんなに小さいと説明した。私はその部分が,気に入っていて,自画自賛していた。そういうときは,うまく生徒に話しかけることが出来るものである。あやふやな知識を教えるときは,ドギマギしてしまう。その先生が,私の授業に,どのような感想を抱いたのか,聞くことはできなかった。帰り際に,男子生徒が私の所にやってきた。彼は,5cm四方の紙を私に手渡した。その紙には,授業の感想がびっしり書いてあった。字は,とても小さく,今の私には,見えなかったかもしれない。「ゆっくり話すので,先生らしかった」,「黒板の書き方の注意」など,10項目くらいあった。なんとも有り難いと感激した。

 ある時,その先生を囲んでの意見交換会があった。教室の机を合わせて,全員向かい合う形にし,先生と理科担当教生4人で話し合った。その場で,私は,一言もしゃべらなかった。先生は,最後,不愉快そうな顔で私を見た。私も,別に意図して話さなかったわけではない。テーマに対して,特段の意見がなかったからである。毎日,必死に教育実習を行っている。初めてのことばかりで,目の前のことで一生懸命だったのだ。「何故」とか「こうしたら」とか考えている暇がない。それに,私の性格で,無理して発言しようとは思わなかったのである。

 

 当時,計算機の能力は低かった。高級言語は,主にFortranである。それでも,機械語アセンブラ)でプログラミングする必要がないので,たいそう楽だった。カードにパンチ機で穴を開け,カードリーダーで読み込ませる。モニターもなく,すべてプリントアウトされるという代物である。メモリはキロビットのオーダーだったと記憶している。実行も,バッチ処理だった。私が工学部で卒業研究をやっていた頃は,計算機は,近似計算を行う手段であった。すなわち,多元連立方程式微積分,微分方程式の近似計算である。現代のPC は,CGを含め考えられることは何でもできる。それと比べれば,当時の計算機事情は,隔世の感どころではない。とにかく,タイプライターの文字,数字,記号だけを,紙にしか出力することしかできない時代である。一回でうまく計算できることは少ない。計算機は,大量の,無用な用紙を山のように吐き出した。それが,大変もったいないのである。紙の裏には何も印刷されないので,計算用紙やメモ書きに使った。

 担当外のクラスで,理科の実験の際,このメモ用紙に実験の段取りと注意点を書いておいた。それを読んだ後,ふと気が付いて「この用紙は計算機のプリントアウトした紙の裏である」と紹介した。計算機など,一般の家庭では,まったく縁のない時代である。これが,好奇心旺盛な男子生徒を痛く刺激したらしい。中学校の男子は,最先端の技術に目がない。そうしたところ,そのクラスを担当している男の教生に,生徒がそのことを話したらしい。教育実習が終了した後,懇親会があった。そこで,彼は私に,理系の学部の人はうらやましいと,盛んに言う。彼は,市内の教育大学の学生だった。教育用の設備は整っているが,物理や化学などの先端研究はできないということである。私は,それを聞いて,少し誇らしく思った。

 

                                  つづく

これまでのこと19 就活顛末記2

 会社に着くと,驚いた。意外に多くの同級生がいたのだ。いよいよ,試験が始まった。能力テストは特に問題なし。専門の試験は,準備をしていかなかったので,あまりできなかった。続いて,性格テストである。私は,尖った自分を評価してもらおうという考えに取りつかれていた。自分の性格を誇張しようと,意識的に回答した。普通に考えたら,その回答は負の評価にしかならないだろう。気が小さい。失敗するといつまでもウジウジする。緊張しやすい。文系人間である。仕事に意欲はない。退社後に好きなことをしたい。ありとあらゆる負の側面を,いやというほど際立たせた。これは,目立つなぁと,一人悦に入っていたのである。採点担当は,結果を見てびっくりしたのではないか。調べたわけではないが,恐らくこのような回答をしたのは,日本広しといえども,私だけであったと確信している。もっとも,最近,素の自分を見せようとする学生に出会った。当時も,私と同じことを考える学生が居たかもしれない。

 一方,面接で一番苦労したのは,その会社を選んだ理由である。慌てて考えたのが「御社の創業者は人を使うのが上手である。私をうまく生かしてくれるのではないかと思った」である。会社そのものに対する,思い入れがまったく感じられない。そもそも「どんな仕事をしたいのか」に触れていない。果ては,大学では一桁台の成績だとか,尊敬する人物は,ウィトゲンシュタイン(独語ではヴィ…)だなどと,あらぬ嘘までついている。そして「それにしては,専門の成績が良くないね」と返される始末である。「正直に,ありのままの自分を見せる」筈だった。しかし,所々に邪念が入り,自分をよく見せようとした。なんとも情けない話である。

 

 帰りの特急で,中学校の同級生とばったり会った。背は低いが,運動神経の良い男子である。中学では,バスケットボールをやっていた。とても優しい子だった。一緒に座って,彼の壮絶なこれまでを驚きを持って聞いた。彼は,高校を出て理容師になった。理容チェーン店の本店で修業した。弟子時代,カットの修行のため,毎日夜中までトイレットペーパーをはさみで切る練習をした。また,理容大会に同僚が出場した。モデルになったのは、店長であった。そして,焦りから店長の耳を切ってしまった。同僚は慌てたが,店長は「黙ってそのまま続けろ」と言ったそうだ。トルコ風呂に贔屓のトルコ嬢がいて通い詰めた。私は,そういった,刺激的な経験談を拝聴した。私の知らない,社会人生活の苦労話を聞いて,自分の能天気ぶりを大変反省した。就活の話をしたとき「まさなら大丈夫だよ」と優しく言ってくれたのが印象に残っている。今回の入社試験は,恥ずべきことで,考え直さなければならない筈であった。しかし,私はそれに気づいていない。しかも,同級生の言葉を真に受けて,ひょっとすると会社に受かるかもしれないと思うのだった。

 

 帰ってしばらくして,A教授室に呼ばれた。入社試験は,不合格であった。「成績等は問題ないが,性格が…」と言われたそうだ。「君,何をしたんだね」と聞かれたが,性格検査の件は言うことは出来なかった。今思えば,性格だけではなく,専門試験や面接も含めて,総合的に評価されたのであろう。私の入社試験に対する考え方は,明らかに間違いである。しかし,その時私は大変落胆し,大きな精神的ショックを受けた。会社のお眼鏡にかなわない場合は仕方がない。さっさと次に進む筈であった。しかし,自分自身を騙していたようだ。周りと違う人間ほど,会社は興味を持ってくれると確信していた。その自信が,折れてしまったのである。

 次の日,傷を癒す間もなく,私は,就職担当のB教授に呼び出された。落胆していた私は,これからのことなど考えられなかった。B教授の,今後どうするつもりかという質問にはっきり答えることが出来なかったのである。B教授は,いらいらし,私を叱り始めた。叱られると,ますます縮こまってしまう。話をしているうちに,地元に残るのはどうか,という流れになった。そこで,実家近くの会社はどうかという話になった。大手電機メーカーが100%出資している会社である。しかし,すでに推薦期間を過ぎている。B教授は,その場で会社に確認の電話をした。残念ながら「すでに地元大学の修士学生を採用する予定」と言ってきた。教授は,「本学の学生はモノが違うのに」と不機嫌そうに言った。

 さて,改めて,受ける会社をどこにするか悩んだ。B教授は業を煮やして「ここにしましょう」と押付けがましく言った。全く名前の聞いたことのないCという会社であった。しかも,事業所のある場所は,かなり田舎である。私は返答を渋っていたが,結局,何日か後に試験を受けに行くことになった。C社は創業間もない会社だ。独自の先端的な,集積回路を設計,製作する会社である。B教授は,電子回路工学が専門であった。そのため,C社が直々に求人に来ていたのであろう。

 試験当日,C社までの行程を十分下調べし,出発した。東京行きの特急を途中下車し,下車した駅からバスで結構な距離を行く。バスには,数人しか乗っていなかった。いい天気だ。バスはどんどん,山の方へ走っていく。ほどなく,民家がまばらとなり,畑が一面に広がる地域にでた。防風林すらもない,真っ直ぐな一本道である。なんと田舎であることよ。私は,心細くなった。先に受けた会社の入社試験が,東京のど真ん中であったため,なおさら寂しく感じた。そろそろ,目的のバス停に到着するはずだ。緊張して,運転手のアナウンスを待つ。それらしいバス停の名前を言ったので,急いで,降車ボタンを押した。しばらくして,バス停らしき標識が見えた。さて,と思った時,あれ?私の見間違えかと慌てた。バスは止まらずに,バス停を通り過ぎたのである。100mくらい走ってから,運転手が「あっ」と叫んだ。そして,道の左端に寄せて止まった。私は,慌ててお金を払って,降車した。そう,恐らく通常は,そのバス停で降りる客など殆どいないのだ。運転手は,いつもの感覚で素通りしてしまったのだろう。私は,だだっ広い畑の中の一本道に,ポツンと一人取り残された。仕方がないので,とりあえず,通り過ぎたバス停に向かって,とぼとぼ歩き出した。しばらく行くと,工場のような建物が遠くに見える。特に道を間違えることもなく,C社にたどり着いた。遠くから事業所の建物が見える地域である。道に迷うような,込み入った道路などなかった。こぢんまりとした事業所である。小さな,講堂のような部屋に案内された。筆記試験をやったはずだが,ほとんど覚えていない。作文には,また懲りずに,尖ったことを書いたという記憶がある。その後,面接が行われた。しかしこちらも,まったく記憶がない。一通り,入社試験が終わると,どうやって帰るのか聞かれた。「この後の特急で帰る」というと,「用事もあるので,駅まで車で送っていこう」と言われた。願ってもないことである。C社の人(役員と思われる)二人が乗った自家用車に便乗させてもらった。

 

 しばらくして,C社から合格通知が届いた。しかし,私は,その時すでに冷静になっていた。そして,何故C社を受けることになったのか自問自答した。今回の会社選びには,自分の意志が全く反映されていない。B教授に言われるままに,入社試験を受けた。しかも,出来たばかりの小さな会社である。私は,大手電機メーカーを狙っていた。したがって,私にとって,C社に入社することは,痛く自尊心が傷つくことになった。今思えば,なかなか良い会社である。社員200人強の小さな事業所に変わりはないが,40年以上経った今でも続いている。大手精密機器メーカー100%出資で,資本金10億円だ。小さいが,きらりと光る,自分にはもってこいの会社だ。私は,総合電機メーカーの大きな組織では,生きていくことは出来なかっただろう。大きな会社では,自分の好きな仕事ができる訳ではない。また,器の小さい私では,重要なポストに就く可能性は低い。就いたら就いたで,ストレスも半端ではない。しかし,その当時の私は,会社のことなど何も知らない子供であった。

 しばらく考えた後,私は入社を辞退することに決めた。急いで,長い,断りの手紙を書いて郵送した。例によって,自分は文系人間で,哲学をやりたい旨を記した。

 

 そうして,4年生の冬休みが来て,私は実家に帰っていた。夜に突然電話が来た。大学の,研究室からだった。直接卒論の指導してもらっていた,助手の先生からだ。

「君,内定先の会社を断ったのか?」

私は,事の顛末を説明した。

「黙ってそんなことをしたら駄目じゃないか。A先生が先方の社長に,採用に対するお礼の電話をしたら,すでに辞退の手紙が来たと言われたそうだ。急いで,A先生に電話しなさい」

私は,びっくりした。会社の辞退なんて,個人的なことで,大学は関係ないだろうと思っていた。よく考えたら,大学の推薦で受けたのだから,大学の先生に報告すべきだったのだ。私は,急いでA教授に電話をかけた。開口一番「駄目じゃないか,君~」といわれた。あまり怒ることのない先生だったが,今回の件は,かなり戸惑ったようだ。誠に申し訳ないことをした。ちょうど両親もいたので,私の電話の後,母が電話に出て詫びた。実はこの件は,両親にも話していなかったのである。大学も両親も,さぞ驚いたことであろう。

 

 私は結局,その年は就活を行わず,次の年に既卒として改めて就活することにした。私の勝手な思い込みから,初めての就活は,さんざんであった。では,心を入れ替えて,再就活に臨んだのか?いや,まったく反省せず,同じように失敗を繰り返すのである。なんとも情けないことだ。それについては,またの機会に記すことにする。

これまでのこと18 就活顛末記1

 私は,大学の工学部4年生になった。いよいよ,就活をしなければならない。私が工学部を選んだのは,まことにいい加減な理由からだ。その原因は,小さい頃に遡る。

 

 私は,漫画が好きだった。幼稚園の頃には字が読めるようになったので,小学館の学年シリーズを毎月買ってもらった。特に漫画を好んで読んだ。小学校に入るとすぐ,歯医者の長男と友達になった。彼は,自分で漫画を描いていた。将来は漫画家になるんだと,自負していた。鉛筆書きの他愛ないものである。しかし,僕はびっくりした。小学校1年生で,自分の職業を決めているのだ。(もちろん彼は,歯医者の跡取り息子である。どこで折り合いをつけたのかわからないが,結局父親の歯科医院を継いだ。)彼に感化されて,自分もこっそり漫画を描くようになった。漫画家になるなど,これまで考えもしなかった。しかし,彼のおかげで,もしかすると自分もなれるのではないか思ったのだ。お気に入りの漫画家がいた。その絵が好きだった。自分の絵は,その作家の絵と酷似するようになる。ありがちなことだ。中学になると,漫画家もそうだが,ストーリーの巧みな作家も好きになる。描く漫画も,マニアックなものになった。中学では,さすがに真剣にプロを目指す輩も出てきた。(彼は,高校を出るとすぐ,有名漫画家のアシスタントになった。そして,21歳で,少年ジャンプに連載を始めた。私は,大変衝撃を受けた。)私も,ペンとインクで書くようになる。ところが,ストーリーの大枠はできるが,最後まで絵を描き切ることが出来ない。描いているうちに,自分の絵が気に入らなくなり,途中で止めてしまうのだ。全く,根気がないのである。友人でもいて,一緒に描くなどすればよかったのだが,私は一人を好んだ。

 中学も卒業間近の頃,学校誌に何か書かなければならなくなった。仕方がないので,漫画用にメモしておいたショートストーリーを,小説仕立てにして提出した。題目が思いつかなかったため,空白にしておいた。しばらくして,学校で,国語の先生が私のところへ来た。「表題を○○にしたから」と言う。私は,こわばった笑顔で,いい加減に頷いた。何のことかすぐにはわからなかった。しばらくして,提出した小説のことだとわかった。「○○?なんでそうなるのか,よくわからないなぁ」と思った。当時,永島慎二の「漫画家残酷物語」に入れ込んでいた。それをまねて,青春の挫折やペーソスなどを題材にした,漫画のストーリーを色々考えていた。また,簡単なことを,わざと回りくどい言い方をして,哲学的雰囲気を出すのに凝っていた。それが,色濃く出た,ショートショートである。これは,冊子になったときに,評判が良かった。学校誌に小説など描く輩はいなかったので,珍しかったのであろう。それを見た,文学好きの男子生徒が,私に話しかけてきた。それから,彼とは大の仲良しになった。それ以来,彼とは,べったりとなり,高校1年まで続いた。しかし,彼が高校2年で転校してからは,親しい友人を作る気も起きず,ほとんど一人になった。

 高校生になると,ますます絵が描けなくなった。理想が高すぎて,つたない自分の画力に落胆した。せっせと下書きをするが,ペン入れを2ページもすれば気に入らなくて,止めてしまう。ストーリーも大人びたものが好きになった。また,中学での学校誌以来,文学に興味を持った。しかし,いかんせん,集中力が持続しない。言い換えれば,ワクワク感が,文章を読むことによる疲労で萎えてしまう。芥川賞受賞作品のような,単行本一冊が,私には,大長編に感じられるのであった。それから,哲学に興味を持った。ちょこちょこ勉強していたところ,倫理社会に簡単な哲学者の紹介が出て来て,倫社が好きになった。これだけは,勉強せずとも,点が取れた。

 

 さて,そのようなことから,自分は文系だと思っていた。しかし,大学文系を出たとして,どんな職業があるのだろう。私には,そのとき「営業」しか思いつかなかった。私の性格では,営業職は容易ではない。緊張しやすいこと,一人が好きなことは自覚していた。もし,しっかりした社会人に将来を相談できれば,職業の選択や進学意欲が大きく変わっていただろう。しかし,大人に相談することなど,考えつかなかった。一方,私はなぜか,数学でいい点が取れた。高校数学などは,ルールに縛られたクイズのような感覚だった。本当の数学は,もっとずっと奥が深い。むしろ,哲学である。数学同好会の同級生がいた。彼らは,数学オリンピックのような問題に挑戦していた。それは,自分には無理だと思った。どう解答を導くのか,皆目わからない。また,数学は集中力の持続が最も重要なことは明らかだった。いずれにせよ,高校数学は苦手ではない。そこで私は,理系,特に就職が良さそうな工学部に行こうと考えた。エンジニアなら,何か物を作っていればいいだろう。対人関係に気を使わなくてもよさそうだ。そして,会社が終わる夕方5時から,好きな漫画や文学,哲学をやろう,と考えた。もちろん,今思えば,浅はかな考えである。エンジニアであっても,対人関係は重要であり,商品の研究,開発は,片手間にやれるものではない。そもそも残業が多いし,退社したらへとへとである。とにかく,私は,ものを知らない。同級生が理学部を受験すると聞いて,「理学部なんて行って,就職はできるの?」と彼に言った。大学は,就職予備校と思っていたのだ。

 

 前置きが長くなった。そういうわけで,何とか大学工学部4年生となった。当時,文系の友人たちは,今と変わらない就活をやっていた。しかし,工学部では,ほとんど推薦制だった。各企業に人数割り当てがあって,早い者勝ちであった。もちろん,中には自由応募の人もいた。私が配属された研究室の先輩は,希望する会社に入社できなかったため,留年して再挑戦した。研究室の教員たちを相手に,何度も面接の練習をしていたのを覚えている。私は,何となく大手電機メーカーを希望した。誰もが知っている,大手だからという単純な理由である。また,ほかの学生があまり話題にしない会社ということもあった。学生にとって,行きたいと思うトレンディーな会社は,競争が激しい。それは嫌だった。研究室(卒業研究で所属していた)のA教授に申し出たところ,幸い推薦してもらえることとなった。

 就活の準備は,何もしなかった。それは,以下のような不遜な考えからである。「ありもしないことを,面接で言っても後が心配である。地の私を見てもらい,会社が判断すればよい。これぞ,まさにマッチングである」何しろ,その会社を選んだ理由が,さもない理由だ。だから「会社で何をしたいのか」「なぜその会社でなければならないのか」という,まさに就活の肝の部分を,まったく考えなかった。今でも,そういう学生がいて,エントリシートを出した段階で落とされている。実は,私は会社を過大評価していた。つまり「性格テスト」「能力試験」「専門科目のテスト」それと「面接」でちょっと話をすれば,会社は何でもお見通しであろうと思っていたのである。今なら,私も多少社会経験を積んでいる。短時間の試験や面接で,人ひとりのことが全て分かる筈がない。

 さて,いよいよ試験の日が来た。試験は,東京で行われた。移動手段は自分で準備した。旅費が支給されたかどうか,記憶していない。試験の前日に出かけて,宿泊場所は会社が用意した。かなり古風な旅館であった。次の日,私は仕立て下ろしのスーツを着て,会社へ出かけた。当時は,リクルートスーツなどは無く,各人各様のスーツを着ていった。私は,明るいグレーの縦縞のスーツである。今は,みな真っ黒なスーツを着ていて,集団になっていると不気味である。当時の方が,健全な気がする。実は,私はこれまで長髪であった。学生のことである。床屋に行くのが面倒なので,自分で適当に切っていた。長髪と言っても,襟足の生え際でそろえる程度の長さである。さて,就活ということで,リクルートカットにした。そうしたら,A教授が,さっぱりした私を見て,絶句した。別人のように思えたようである。絶句された私の方が,逆に驚いた。

 

                                 つづく

これまでのこと17 山川先生(小学校)Ⅱ

これまでのこと16 からの続き

 

 この話は実話をもとにしたフィクションである。氏名は仮名であり,敬語を省略した。

 

 クラスの男の子の間で,ちょっとした,いけないことが流行った。錠を開ける合鍵づくりである。クラスのガキ大将を中心にした10名ほどの集団だ。あるとき,手先の器用な生徒が,簡単な合鍵を作ったことがきっかけだった。いわゆる南京錠という,持ち運べるハンドバックのような鍵である。南京錠の仕組みは単純で,小学生でも合鍵が作れてしまうのだ。合鍵の作り方は至極簡単だ。比較的柔らかい針金を二つに折る。そのうち一本を,折ったところから,適当な距離で垂直に外側に曲げる。それを今度は,適当な長さで,内側に折り曲げる。そしてまた,残りの一本と平行に曲げる。そうやって,突起を作る。突起の高さは,鍵穴の大きさに合わせる。これが,鍵の中の回転部を回す突起になる。この突起を2つか3つ,高さを種々変えて作れば,たいていの鍵は空くのである。このままでは弱く,鍵を回そうとすると,変形して回せない。そこで,最後の仕上げに金槌で針金をたたき,適当な厚さにつぶすのだ。

 鍵なしで開錠することをピッキングという。現在,これは「特殊開錠用具の所持の禁止等に関する法律ピッキング防止法)」で禁止されている。開錠道具を所持するだけで犯罪である。しかし,私が小学生の頃は,このような法律はなかった。

 私も真似をして合鍵を作り,家にある南京錠を開けて楽しんだ。学級のつわものは,たくさんの鍵を束にして,腰にぶら下げじゃらじゃらいわせ,悦に入っていた。

 

 さて,具合の悪いことに,学校の普段使わない部屋は,すべて単純な南京錠で鍵をかけてあった。木造2階建ての古い校舎である。いたずらっ子たちが,そこに目を付けるのは,至極当然のことだ。誰かが,学校の○○教室の鍵が開いたと自慢した。さあ,それからが大変である。我も我もと各鍵のかかっている部屋にトライし始めた。次々と鍵が開いていく様子は,痛快である。秘密の扉を開ける気分で,ワクワクした。

 その中に,男の子たちが興奮する部屋があった。体育用具が置いてある用具室である。狙うのは始業前の朝だ。先生方も生徒たちも朝は通らない。5~6人の集団で,こっそり部屋へ入り,体操マットを引きずり出して,その上で遊んだ。何回か遊んでいるうちに,ついに先生に見つかってしまった。わいわい騒いで遊んでいれば,見つかるのは時間の問題である。見つけた先生から,山川先生に連絡がいった。

 教室で,ひとしきり怒られたあと,かかわった生徒が教室の前方に立たされた。全部で7~8人の男子生徒たちだ。先生は,数の多さにびっくりしたようだ。またじっくり怒られてから,端から一人一人,罪滅ぼしに何をするか話せと言った。私は,思った。「確かに悪いことだ。しかし,それがどの程度悪いかは,管理する側が決めることではないのか。僕たちに何をするかを聞くのは,お門違いである」そう,私も6年生になり,そういう大人びた考え方ができるようになったのだ。そもそも,各部屋の鍵が,これほど簡単に破られる(しかも小学生に)ことは,管理責任者として失格ではないか。と,今は思うが,その時は,さすがにそこまでは考えなかった。もちろんいけないことである。しかし,なんと可愛いいたずらではないか。物を盗むわけではないのだ。現代の,クラス全体で一人をいじめるような陰湿な行為より,数百倍も健康的だ。いじめ方も堂に入っている。自分がやられたら一番嫌なこと。一番恥ずかしいことを,練りに練ってやる。まるで,マフィアやヤクザではないか。SNSもそれに拍車をかけている。それに比べれば,当時の私たちは,本当に,のびのびとしている。

 各生徒は「用具室を掃除します」「用具室の床を毎日拭きます」など,様々な贖罪のやり方を競った。私は,それはおかしいと思ったので,自分の番が来たとき

「先生のおっしゃる通りにします」

とびくびくしながら小声で言った。先生は,すかさずむっとした口調で,

「なに?先生が悪いっていうのか?」

と言った。私は「え?そんなこと言ってない。何でそう取る?」と思いながら,ドギマギし,体がこわばった。

 この後どうなったかは,まったく覚えていない。もちろん合鍵遊びは終焉となった。

 

 私の小学校の各種委員会委員長は,6年生がやることになっていた。各クラスに委員長がいくつか割り振られ,先生が独断で,決めていた。私は,過去の委員をやった経験から,図書委員会の委員長だけは嫌だと思った。その委員会は,うるさいおばさん先生が指導教員だった。その先生は,図書委員会の会議の時,窓際に折りたたみいすを出して,怖い顔をして座っている。そして,会議では,しょっちゅう口をはさみ,委員長が怒られるのであった。また,図書の仕事そのものも,実に面倒なのである。

 山川先生が,委員会の委員長を発表していく。私は,図書委員会委員長だけは,やめてくれと願った。先生が黒板に書きながら言った。

「図書委員会の委員長は…」

私の名前が呼ばれた。目の前が真っ暗になった。私は「なぜ自分の希望を聞いてから,選出してくれないのか」と,腹立たしかった。低学年では,学級委員長以外は,長のつくものはない。大体は,クラスの投票で各委員が選ばれた。学級委員長は,いささか面倒だった。しかし,それ以外は,特に負担に感じるものはなかった。例の図書委員以外は…。私には,たとえ先生であろうと,嫌なものは嫌と思う自我に目覚めていたのだ。では,先生に直訴できなかったのか。小学生で,しかも気の弱い私には,まったくそういう考えは思い浮かばなかった。

 そんな具合だから,私は最初からやる気がなかった。図書委員会の会議の日は,地獄のような気分だった。ほかの委員会は,生徒会議室を使ったり,教室を使ったりしていた。机を並べて,四角く囲い,対面で会議をする。委員長も委員も座って議事を進行する。しかし,図書室の机は,周囲にグルッと5~6人が座れる,長方形の大きなものだった。したがって,大きくて,重く,円卓にできない。机を動かすことなく,委員はその机のまわりに座った。そして,委員長と副委員長は,立って議事進行をやるのである。あのうるさいおばさん先生は,その傍に座って,目を光らせている。

 事前の打ち合わせは全くなかった。移動式の黒板に,その日の会議のテーマが箇条書きに書いてある。それに従って,議事を進行していくのだ。しかし,図書委員の仕事など,まったく記憶にない私には,議事の内容の意味さえつかめない。おばさん先生に,叱責されながらの会議であった。

 何度目かの会議の朝,ついに私は,行動した。会議は放課後行われる。その日の授業は,悶々として何も耳に入らなかった。そして授業が終わった後,私は決心した。今日は,行かない。もろもろの経験から,山川先生のところへ,話に行く気にはなれなかった。しかし,黙って休むのも具合が悪い。そこで,下足箱のある玄関でちょうど出会った,同級生の渡君に,ことづてを頼むことにした。

「渡君,今日は体調が悪いから,図書委員会の会議を休むよ。山川先生に伝えてくれ」

渡君は,きょとんとしていた。

「え?なに?会議?何のことそれ」

私は一通り,私の立場を説明した。渡君は,どうも要点をつかめないでいた。私は「とにかく頼む」と言って,家に帰った。渡君は,どちらかというと,気の小さい生徒である。私は,これは駄目だなと感じた。その日は緊張で,眠れなかった。私が行かない会議は,どうしたろうか。おばさん先生は怒っていることだろう。辛い一夜だった。

 次の日の朝,クラスの朝礼で,開口一番山川先生が言った。

「まさ君,黙って図書委員会を休んだの?連絡しないとダメじゃないか(笑)もう6年生なんだからそれくらいできるだろう」

…それだけだった。この「大した話ではない」という雰囲気は,どこから来るのだろう?

 私は完全に意欲を失った。その後の図書委員の仕事を,さぼりにさぼった。委員が図書館にいるときに着ける腕章まで,返すことを忘れ,大騒ぎになったりした。私はもちろん,返したはずだと嘘をつき続けた。

 

 とうとう2年間,私は山川先生に,呼び出されたり,引き留められたりして,個人的に叱られることはなかった。

 

 先生の中途半端な態度は,どこから来たのだろう。ほかの子に比べれば,大それたことをするような子ではないと思ったのだろうか。それとも,私のことを思って,この子はこういう性格だから,叱らないようにしようと考えてくれたのか。父親は,私の性格を見抜いていた。社会人になって,付け届けなど,うまく立ち回って出世するのは無理だろうと考えていた。心配して,山川先生にそれとなく話をしていたのかもしれない。今となっては,分からない。過去を回想するようになって,ずいぶん前に亡くなった父,母に問うてみたいことがたくさん出てくる。残念ながら,今はもう詮無いことである。

 

 結局,私は先生を嫌いになった。多感な青春に,ほんのわずか足を踏み入れた年代である。小学校5,6年生の2年間は,黒歴史として私の頭に刻み込まれてしまった。

 

 先生には申し訳ないことである。

これまでのこと16 山川先生(小学校)Ⅰ

 この話は実話をもとにしたフィクションである。氏名は仮名であり,敬語を省略した。

 

 小学校5年生の時,山川という若い男の先生が担任になった。私の小学校では,3年ごとに担任が変わる。私のときは,1~3年生では女の先生,4年生では海野先生という,別の女の先生が担任だった。しかし,次の年の春,海野先生は,ほかの小学校へ転任した。そこで,5年生から山川先生が担任となったのだ。

 4年生の時の担任,海野先生は,国語の先生である。作文教育に力を入れていた。先生は,なぜか私に目をかけてくれた。先にも触れたが,私の作文をほめたのが,海野先生である。先生は,私が書いた,夏休みの作文を痛く気に入ってくれた。父が手を加えた,例の作文である。その作文は,私に知らされないまま,全国夏休み作文コンクールに応募された。それが,銅賞を獲得したのである。私は,大変嬉しかった。先生のおかげで「自分は文章を書くのが得意なのだ」という,あらぬ自信をつけた。

 

 さて,山川先生は,体育の先生である。背の高い,すっきりとした体形のナイスガイだ。男子生徒は一様に喜んだ。小学校では,男の先生が少なかった。

 

 ある日,ガキ大将が号令をかけた。日曜日の午後に,学校のグランドで野球の練習をするというのだ。5年生であるから,軟式のボールを使う本格的な野球である。近々,ほかの学校の生徒と野球の試合をやる。そのための練習ということだった。しかし,グランドに集合してみると,社会人のおじさんたちが,野球の練習をしていた。日曜日は,一般の人にグランドを貸し出しているらしい。仕方がないので,山川先生に頼んでみようということになった。山川先生は,新婚ほやほやで,学校の近くの借家に住んでいた。そこで,生徒10人ほどが,徒党を組んで山川先生の家に向かった。

 私が覚えているのは,昭和の木造平家である。玄関から庭に回ると,茶の間の縁側がある。そこに先生が浴衣姿で座り,隣にはきれいな奥様が正座していた。私の記憶の中では,一等キラキラ輝いて見えた瞬間である。先生は,大勢の子供たちの訪問に,びっくりしたであろう。みんなで,わいわいと事情を話した。先生も戸惑ったようだが,まずは様子を見に行こうということになった。

 先生は,浴衣姿のまま,子供たちと学校のグランドに出かけた。しばらく,野球をしている大人の人と話をしていた。そして,私たちのところに来て,正式にグランドを借りているので,やめてもらうのは難しいと言った。今でこそ,少し気を利かしてくれたらと思う。つまり,かわいい小学生のために,ちょっと時間を割いて野球を教えるなどしてくれてもよかったのではないか。しかし,そんな気の利いた時代ではなかったのだろう。残念ながら,練習は中止となった。

 晴天のある日,学校から帰って,玄関で「ただいま」と,元気よく声を出して家に上がった。しかし,返事がない。母は,居間にいる様子である。「ただいまってば~」と言って,私はランドセルを下ろしながら,茶の間から居間に入っていった。はっと見たら,山川先生が背を向けて座っているではないか。テーブルの向こうには,母がいた。山川先生が振り向いて,ニコッと笑い,

「いつもそうやって帰って来るのか?」

と言った。私はびっくりして,ドギマギしてしまった。家庭訪問の日だったのだ。見たことのない,私の態度が,山川先生には新鮮だったのだろう。私は繊細気質で,大人の前では,ほとんどしゃべることが出来ない子供だった。そのあとどうしたのか,皆目覚えていない。山川先生以外の先生を含めて,家庭訪問中に出くわしたのは,その日だけだった。

 社会科の授業の時のこと。昭和40年代初期の話だ。教科書に楽観論な文章が,書いてあった。「これからの農業,特に稲作は,大規模な機械によるものに変わっていくだろう」山川先生の実家は農家だった。先生は,若い人が農業を継がず,これからの農業は心配だ,という趣旨の話をした。先生の力説ぶりが,私の印象に強く残った。家に帰って,親にその話をすると,驚いていた。子供だと思っていた息子が,社会情勢の話をするのが,面白かったようだ。私も,教科書に書いてあることに反論する先生が,大変新鮮だった。教科書には,事実と異なる部分もある,という教訓を初めて得た授業であった。

 

 日吉という同級生の男の子がいた。三角おむすびをひっくり返したような頭で,髪を短く刈っていた。短躯だが,明るく活発な生徒だった。頭が非常によく,私の知らない知識をたくさん持っていた。勉強もよくできた。さらに驚いたことに,彼は参考書を自分で買って持っていた。私は,教科書以外に,そういった書籍があるのを全く知らなかった。山川先生が,教えているとき「先生,そこは違う。何々ではないか」と言う。先生が,理解できない顔をすると,参考書を持って教壇へ行き,参考書のその部分を指さして,先生に見せるのである。先生も「ほう」とか言って,感心している。「社会」だったと思う。理系の科目と異なり,社会には,資料の違い,将来展望など,指摘できるところが多い。私はそれを見て,かっこいいと思った。早速,親にねだって,参考書を買ってもらった。そのうち,私も日吉君と一緒に前へ出て行き,参考書の該当ページを指さすようになった。先生の間違い(本当に間違いだったのか疑わしいが)を正して,悦に入っていた。今思い出すと,なんとも失礼で,恥ずかしいことである。私は,繊細気質ではあるが,一方お調子に乗るのが好きな性格も併せ持っていた。

 

 こんな風に,5年生の頃までは,私は山川先生に好意的だった。それこそ,輝いて見えたのである。しかし,6年生になると,陰りが見え始めた…。

 

 先に触れた日吉君は,活発で好奇心が旺盛なためか,破天荒で注意力に欠けるところがあった。服装などかまわないところもあり,危なっかしかった。恐らく山川先生も,彼の優秀さに目をかけていた。よく,日吉君を廊下で捕まえて,何か注意をしていた。具体的に何を注意していたのか,私にはわからない。おそらく,その破天荒な行動に対してであろう。それを見ていて,私はうらやましかった。自分も個別に呼んでもらって,何か言って欲しかった。海野先生のように,かまって欲しかったのである。

 恐らく,山川先生にとって私は,最も嫌いなタイプであったろう。気の小さい,繊細気質である。真面目に見えて,本当はそうではなく,ただ人に批判されるのが嫌でそういう振る舞いをしているのだ。

 

 ある日,算数のテストがあった。その中に,記述問題がある。数式を書いて証明するのではなく,ある結果の理由を言葉で書く問題である。わたしは,それをどう書いていいのか悩んでいた。私の前の席が日吉君である。試験も終わるころ,日吉君が何を思ったのか,席を離れて山川先生の方へ歩いて行った。机には,試験答案がそのまま置いてあった。私は,見るとはなしに,彼の答案に目をやった。丸見えである。日吉君はそういうところがあった。悩んでいた記述式の問題の部分が目に入った。上手に書いてある。その時ピンとひらめいた。急いで,答えを書いた。文章は,日吉君とは異なるが,きっかけをもらったことに変わりはない。試験が終わった休み時間に,女の子が私のそばに来た。

「まさ君,日吉君の答案見たでしょう?カンニングよ」

私は,びっくりした。試験の最中に私の行動を見ている人がいたのか。

「見えたよ。でも写したりしていない」

と私は言った。「先生に言うから」とその子は言って,自分の席に戻って行った。先生から,放課後にでも何か注意されるかもしれない。それでも私は,見えた答えの文章がまったく異なるので,それほど心配はしなかった。しかし,先生から呼ばれることはなかった。ただ,今思うと,先生は私に真偽を聞いてもよかったのではないか。つまり,私が先生に正直に事の顛末を話すということで,この件は,はっきり区切りがついたのではないかと考える。今でも何かもやもやしたものが残っている。

 

 私は朝,登校して気が付いた。今日は,6年生全体でスポーツ大会の予行演習やる日だった。したがって,運動着を用意しなければならない。しかし,時間割とは無関係だったため,すっかり忘れていたのである。しかも,具合の悪いことに,私は学級の体育委員だった。運動着を忘れたとあっては,何とも恥ずかしいことである。今から,家に取りに行っても,始業時間には間に合わない。そこで,私は一計を案じた。急いで職員室へ行き,山川先生の机に向かった。

「先生,朝体調が悪くて,今日の予行演習を休もうと思ったのですが,今よくなっているので,参加してもいいですか」

と先生の前で言った。もちろん嘘である。私は高学年になって,嘘をついてその場を切り抜ける,という癖がついていた。山川先生は,私の顔をじっと見て「わかった」と言った。

 放課後,6年生は体育館に集合した。私は,平服のまま参加した。すると,なんと準備体操の時,各学級の体育委員は演壇に上れと言う。私は,しぶしぶ平服のまま壇上に立った。みっともなさすぎる。スピーカーから,山川先生の声がした。

「それでは,準備体操をします。ラジオ体操第一です。恥ずかしながら,我が〇組の体育委員は,運動着を忘れてしまいました。ごめんなさい」

体育館が笑いであふれた。私だけが,私服で壇上にいる。だから,誰を指しているのかは一目瞭然である。私はびっくりした。「どういうこと?運動着を忘れたことを知っていたの?」私は,体操をしながら頭がくるくる回った。私は,うそを見破られていたことに,大変ショックを受けた。それよりも,嘘とわかっていたら,朝,私に言ってくれればいいではないか。叱ってくれればいいではないか。大勢の前で恥をかかせる必要があるのか?

 そんな気持ちとは裏腹に,みんなの笑いで事が済んだという安堵感も,実はあったのである。

 

                                   つづく

これまでのこと15 野球同好会(社会人)

 私は会社で,いっとき野球同好会に所属した。20代後半のことである。私はテニスの経験は長い。だから,野球に特別な興味はなかった。しかし,不思議に球技は何でもできた。いわゆる器用貧乏というやつである。そして,同僚の誘いもあって,何となく入会したのだ。そのうち,体に合わせたユニフォームやストッキングなどを購入した。野球キチガイの人たちは,思い思いに好きな背番号を付ける。彼らは,プロ野球の選手がつけている番号を好んで選んだ。私は,特に背番号には興味がないので,適当につけた。

 

私は,小さいころから父親とキャッチボールをした。だから,投げたり捕ったりすることは普通にできた。しかし,バッティングについては,危険なため練習できなかった。中学生以上になると,授業でソフトボールをやる以外は,実際に野球をやることはなくなった。ところが会社にはいると,昼休みに同僚とキャッチボールをするのが日課になった。おかげで,グングン上手くなり,グラブさばきやピッチングも板についてきた。しかし,筋力があるわけではないので,ボールのスピードは大したことはない。強いて言えば,素人よりは伸びのある速球が投げられる程度である。

野球は団体競技である。一人一人がチームの勝敗に対して責任がある。私は,繊細な性格なので,それが大の苦手であった。チームに迷惑をかけたくないと思うため,緊張してしまう。投手と一対一になるバッティングは,みんなの注目を集めるため,ドキドキして集中できなかった。バッティングが苦手なのは,練習不足よりも,その嫌なイメージが大きな原因かもしれない。

 

野球に対する思い入れは,日本人の特質だろう。私が小中学生の頃,テレビで見るプロスポーツは,野球,相撲,プロレス,プロボクシングしかなかった。毎朝,新聞に号外が入ってきた。前夜のプロ野球結果が書いてある。私は,それで勝敗を確かめるのを日課としていた。東北に住んでいた私は,小さいころから巨人ファンである。プロ野球チームの中には,東北に本拠地を置くものはなかった。テレビの野球中継は,例外なく巨人戦だけだ。しかも,巨人は主軸に王,長嶋という超人気バッターを擁(よう)し,日本シリーズ9連覇中の時である。これで,巨人ファンにならない筈がない。したがって,野球は好きだった。また,野球はグラブとボールさえあれば,友人と気軽にできる。しかし,それ以外のスポーツ(相撲,プロレス,プロボクシング)は,自分の生活,体力とかけ離れすぎている。真似ごと遊びはするが,あこがれるスポーツではなかった。

 中学生以上の年齢になると,野球を自分からやろうとは思わなくなった。クラブ(今の部活)の野球部の体質が,まるで軍隊のようだったからである。当時のクラブは,押し並べてそんな具合だった。その中でも,団体スポーツはひどかった。コーチ,監督の暴力的な指導,上級生による下級生へのしごき,暴力が当たり前のように行われていた。それで怪我をした者が,たくさんいた筈である。しかし,それによって社会的問題になるのは,死亡した場合だけだった。今は,表向きは暴力厳禁である。しかし,暴力はまだまだ潜在的にあるようだ。いずれにせよ,中学,高校生活をクラブ一辺倒で終わるのはまっぴらごめんであった。

 

 会社の野球チームに後藤という人がいた。後藤氏は,実験器具の準備,製作や測定など技術的な助手を行う技術職員だった。私より10歳ほど年上,工業高校卒である。家は,兼業農家である。稲作の繁忙期に休みを取って,田圃の仕事をする。後藤氏は,同じプロジェクトではないため,顔を知っている程度であった。何かの宴会がホテルで行われた時,たまたま隣に後藤氏が座った。二人で話をしている時,ウェイトレスが近くに来た。そして,ウェイトレスが素通りする刹那,こともあろうに,後藤氏は,彼女の尻を触ったのである。「きゃっ」と言って,ウェイトレスがにらみつけた。後藤氏は笑っていた。私はびっくりした。昭和後半の話であるから,そのような行為は明らかに犯罪である。

誤解を招くのを覚悟で書くが,彼ら高卒の社員とは,話をしていてもかみ合わないことがある。大卒以上の社員には常識である知識がある。しかし,彼らは,それを知らないことが多い。私の持つ,一種のステレオタイプ,偏見なのかもしれない。ただ倫理観に関しては,そのようなことはない。後藤氏の倫理観は,時代遅れである。

その宴会の帰り,小さな居酒屋で後藤氏とその同僚,私の3人で飲みなおした。カウンターに座って飲んだ記憶がある。いろいろ話をしているときに,後藤氏は言った。

「あんたは,〇〇君より人間が小さいな」

〇〇君というのは,私と同期の社員である。学科は異なるが,同じ大学,学部の卒業生だ。「まぁ,その通りだろう」と正直思った。自分は繊細気質であり,コミュニケーション能力に欠ける。だから,誰と比べても,人間的にランクが低いと思っている。ただその時,無性に腹が立った。あんたに言われたくない,という気持ちである。あーでもない,こうでもないと言い合いになった。私は,これは後藤氏に何を言っても,聞く耳を持たないなと思ったので,話の途中でプイっと店を出た。そうしたら,後藤氏の同僚が,わざわざ追いかけて来て,私をなだめてくれた。今のは,彼(後藤氏)の言いすぎだというのである。優しい人だな,と思った。

 

 もう一人,会社の野球チームの山田氏は,私よりずっと先輩である。部長クラスだが,私とは違う課なので直接やり取りすることはなかった。彼は,よく言えば気骨がある。悪く言えば,傲慢で自己中である。チームでは,監督気取りであった。昼休みに,私がキャッチボールをするところを見ており,いいボールを投げていると思ったらしい。会社のスポーツ大会で,ピッチャーをやらせてくれた。ただ,その時,私は昼休みの慣れないピッチングの練習で,肩が痛かった。しっかり指導されたこともないのに,自己流で毎日投げ続けたためである。仕方がないので,大会の時は,スピードの遅い落ちるボールだけを投げた。バッターのタイミングを外すボールである。思い切り投げなくていいので,肩が楽でだった。山田氏にはそれが不愉快だったようだ。3回投げて,交代となった。「昼休みにいいボールを投げていると思ったのに」と恨めしげに言った。

また,会社の温暖化対策について,アンケート調査があった。その対応策は,山田氏の責任でまとめたものである。私は,結構辛辣な批判を書いてやった。山田氏はそれを見て,部長会議でこんなやつがいると言ったらしい。その時,ある部長が「彼の言う通りだろう」と言ったと聞いた。私が懇意にしてもらっていた人である。そんなことで,私に対して山田氏は,いい感情を持っていなかった。

 

 早朝,電話が鳴った。寝ぼけ眼(まなこ)で,電話に出ると「これから野球の試合がある」という。選手兼マネージャーからの電話であった。私は「出なくてもいいのでは」と思った。しかし,わざわざその日の早朝に電話するということは,人が足りないのではないかと考え,出かけることにした。グランドに着くと,帽子を忘れているのに気が付いた。野球規則は,まったく知らない。しかし,帽子を忘れたからと言って,出場できないことはなかろうと思った(ネットで調べると,公認野球規則には選手に帽子をかぶることを義務付ける記述はないようだ。ただ,ユニフォームの項目には,「チームと同一のユニフォームを着用していない選手は,ゲームに参加できない」という規定がある。厳格にとらえれば,一人だけ帽子をかぶっていないのは,この規定に反することになるのかもしれない)。

私は,センターを守ることになった。人材不足なのか,はたまた人が余っているので,マネージャーが譲ってくれたのか,私は知らない。特に誰も,私が帽子を忘れたことを言わなかった。私も,忘れたとは言わなかった。

 

しばらくしてから,ベンチで山田氏が言った。

「帽子を忘れてくるとはなぁ。あり得ないだろう」

「そうですね。考えられないっすね」

と後藤氏が言った。

 

 私は,最初「何か言ってるな」と聞き流した。近くの人を指さして,笑っているのだろうと思ったのである。しかし,嫌な沈黙が続くではないか。「あ,これは,私のことを言っているのか」と,ずいぶん間をおいてから分かった。「なるほどな」と思った。私は,繊細気質である。しかし,早朝電話で起こされて,眠かった。どうでも良い気分だった。「好きなだけ言ってくれ。帽子を忘れたのは事実だ」

 私は,守りには自信があった。特に外野の守りは,飛んできたボールを取るだけでいいので,気が楽である。さらに,人のプレーを見てシビレたことがある。中学の時,ソフトボール大会が終わってから,先生が遊びで,野球部の連中にソフトボールを使ったノックをしていた。それを見ていると,野球部の生徒の真正面に,強い打球のフライが上がった。その生徒は,打った瞬間,ボールを全く見ずに,背中を向けて走り出した。そして,適当な距離走った後,ボールの方を振り向いた。なんと,そのボールは,ピッタリ生徒の立止まったところに飛んでいき,グラブにすっぽり収まったではないか。私は,密かに感動した。一度そういうかっこいい守備をしてみたいと思った。真正面に飛んでくるボールは,距離感が非常につかみにくい。あまり上に上がった感じがしないので,前の方に行ってしまいがちである。ボールが頭上に近づくころ,もっと飛んで行くことに気づく。慌ててバックするも,後の祭りだ。ボールは,自分のはるか上を越していく。そういう失敗はプロの選手でもやることがある。

 ピッチャーは,山田氏である。いい歳なのに,どこにそんな自信があるのだろう。私は,「あのかっこいい守備ができないかなぁ」と不遜なことを思いながら守っていた。その時,フライが上がった。これがなんと,センターに真っ直ぐに飛んでくるではないか。

 

「センター!」

 

と掛け声がかかった。当たった瞬間「結構,打球にスピードがあるな」と思った。かっこいい守備のチャンスである。とにかく後ろを向いて,脱兎のごとく駆け出した。失敗しても「とりあえず,一度下がってから,前に出ればいいよな」と考えたのだ。どの辺で止まろうか迷ったが,グランドは狭く,すぐに建物にたどり着いてしまった。「仕方がない,ここで待つか」と思い,グランドの端,建物の手前で止まった。そして,前を振り向いて,グラブを上げた。ボールはかなり高く上がったようで,なかなか落ちて来ない。しばらく待っていたら,いい感じで私に向かって落ちて来た。そして,持ち上げたグラブを全く動かすことなく,ボールの方からスポンと入って来たではないか。自分でもびっくりである。

 

「ナイス,センター!」

 

と掛け声が飛んだ。私は,にんまりした。「やった,一世一代のかっこいい守備」と思いつつ「一つ間違えばやばかったなぁ」とひやひやの気分であった。全くのマグレである。その回に,もう一度ボールが飛んできた。これは,左斜め前で,距離感はわかり易い。どうもライトが取れそうだと感じたので,ゆっくり追っていった。しかし,ボールが近づいてみると,自分のところではないか。私は,慌てて走って捕球した。そんな具合で,私の守備は,大変危なっかしかったのである。かっこいい守備は,本当にマグレだった。

 

この守備が終わり,ベンチに帰った。するとまた,誰に向かって言うともなく,山田氏と後藤氏の声が聞こえた。

 

「真正面のフライは,難しいけどねぇ」

「ですね。ボールがよく見えているんでしょう」

 

「へぇ,野球のこととなると,素直に褒めるんだ」と,私は意外に思った。帽子を持って来なかったことも忘れて,いい気分になった。

 

 それ以来,野球の試合には,一切参加したことはない。

 

        (これは事実をもとにしたフィクションであり,名前は仮名である)