SENSAIまさの備忘録

繊細気質まさの過去を振り返る

これまでのこと26 防衛大学校を受験する

 私の父は,自衛官だった。警察予備隊が発足したときに入隊し,定年まで勤めあげた。高小卒でノンキャリアの父は,退職時の階級は,1尉であった。ノンキャリアとしては,ほぼ最高位の位であろう。頭が良かった父は,主に事務方(当時の写真の付箋には,業務隊総務科と書いてある)にいた。

 当時,自衛官の定年は50歳である注1)。かなり若い。兵隊であるから,老人では役に立たない。だから,常識では当然だ。しかし,今の人間の寿命や社会慣習から考えれば,ずいぶん早い。したがって,退役後は再就職するのが普通である。自衛隊の中には,再就職のための相談窓口があり,求人も受け付けていた。父は,大手損保会社の地方支店に再就職した。おかげで,退職後は,共済年金と厚生年金の両方,かなりの高額を支給されていた。

 

 小学校の低学年だったろうか,先生が親の職業調査をした。先生が言った。

「親が公務員の人は手を挙げて」

 先生が説明する。

「公務員というのは,国や県や市に関するお仕事をしている人です。例えば,学校の先生や役所,消防署,警察署などに勤めている人です」

 自衛隊は国のために戦う。だから,公務員のような気がする。しかし,役所とは全く異なる仕事である。しかも,自衛隊の隊員を称するに「公務員」という言い方を聞いたことはなかった。自衛隊員は「自衛官」と呼び,立派な国家公務員である。しかし,小学生には理解できず,結局手を挙げなかった。逡巡した記憶が,妙にはっきりと残っている。

 

 高3のとき,父に防衛大学校を受験するように言われた。試験日は秋頃だという。次年度から,防大に理系コースを創設予定であり,初めての入試があるらしい。そこで,試験日をかなり早くして,少しでも入学生の質と量を上げようとしていたようだ。手あたり次第に,高校生に宣伝していたのだろう。そして,自衛官の子息が,まず狙われたわけである。私は理系だったので,ちょうどよいと思ったのだろう。私は嫌だったが,入らなくてもいいからと言われ,しぶしぶ受験した。

 筆記試験は,住んでいる街にある,会社のビルの中で行われた。あまり,いい出来ではなかったと思う。何分,田舎のことである。もう秋だというのに,私は受験準備など殆どしていなかった。ただ,中学の同級生もいて,楽しかった。

 

 さて,厄介なことに,面接試験もあるという。試験は,隣県の田舎町の大きなビルの中で行われた。詳しい場所は,忘れてしまった。どうやって,そこへ行ったのかも覚えていない。どうせ防大に入る気はないのだから,面接は攻撃的に行こうと思った。今思えば,殊勝なことである。

 最初に,集団面接があった。5~6人のグループで,与えられたテーマについて討論を行う形式である。司会者と採点者の2人の自衛官がいたように記憶している。短い文章を,何分か黙読してから,それについて討論が進められた。先に記したように,私は攻撃的に行こうと思っていた。だから,いの一番に意見を言った。これは,すばらしい判断である。現在でも,グループ面接で積極的に意見を言うことは,高く評価される。それ以外は,テーマも,その後の討論も,まったく覚えていない。かなり最近まで,よく覚えていた。しかし,このところ,すべてこんな調子である。多くの記憶が,心もとない。年を取るということは,悲しいことだ

 その後,しばらくして,個人面接があった。小さめの部屋である。それでもかなり広い部屋だった。1人で座って,3人の面接官に向き合った。最初は,なぜ防大を受けたかという問いである。私は,特に考えもせず「父が自衛官で,尊敬しているからだ」と答えた。本当は,そんなことを思ったことはない。これと言って,面接官受けのする答えが,思いつかなかっただけだ。その後,どんなやり取りをしたのか,まったく記憶にない。

 

 最後に,身体測定があった。身体測定など,聞いていなかったから嫌だった。あとで考えてみれば,兵隊になるのであるから,体を調べるのは当然である。大戦前は,20歳で徴兵検査があった。甲種,乙種合格など,悲喜こもごもの本を,読んだ覚えがある。当時もやはり,兵隊に行くのは嫌な人達がいたのだ。ただ,景気の悪い時代や大恐慌の時などは,兵隊になりたい人間が多かったという。食事もよかったし,高給が支給されたからだ。また,大戦中は「兵役を免除されること=障碍者」というレッテルを張られ,恥ずかしい思いをしたと聞く。

 一通りの検査が終わった。その中で,鼻の中を見た老医師が,鼻糞をピンセットでつまみ出しながら,「~だな」と言って,検査表に記入した。私は,そのとき何と言われたのか分からなかった。最後に別の自衛官(医師ではなかったと思う)が,診察結果の書かれた用紙を見た。例の鼻の医師が記入した,手書きの文字を見て,なんだと聞く。私は,分からないと答えた。判別不明の,書きなぐりの文字だった。

 今思えば,慢性の蓄膿症だった。私は,中学の頃から,鼻の奥に違和感があった。喉の方に,鼻から何かが落ちてくるような感覚があったのである。しかし,町の藪医者の見立ては,鼻の骨が曲がっているから,ということだった。骨が悪いんじゃ,どうやって治すんだろう。「治りますか?」と聞くと,医者は自信無さげに首を縦に振った。そんなもの,病気でも何でもないのである。しばらく通ったが,どうにも治りそうにないので,行くのを止めた。

 中年になって,海外で仕事をして,ひどく疲れた。帰国後,黄色い,臭い鼻汁がだらだらと出てきて止まらなくなった。耳鼻科に行くと,蓄膿症だと言われた。それで,合点がいった。これまでの鼻の違和感は,蓄膿症の慢性化した症状だったのだ。その後,落ち着いているが,完治はしておらず,体調が悪いと,またひどい症状がでる。

 

 さて,身体測定も一通り終わったかに思えた。ところが,まだ周囲がざわついている。何事だと思った。注射でもあるのだろうか。

 一画に,カーテン状の仕切りで覆われた場所がある。そこから出て来た高校生たちが,ニヤニヤ笑っている。「…まで見るんだ」という声がした。私には,それが何を意味しているのか分からなかった。さて,私の番になった。仕切りの中に入って行く。マスクをした若い医師が座っている。その前に立った。医師は,私の身体全体を眺めてから,厳かに言った。

「ズボンを下ろして」

 え?え?何?私は,オロオロとズボンを下ろした。すかさず,医師は,私のパンツを下げた。中学入学以来,父母にも見せたことがない,〇ンコが露わになった。すると,医師は,私のそれをぐっと握り,ゴシゴシと2度上下にしごいた。一体この人は,何をしているのだろう?それから「後ろを向いて,お尻を出して」と言う。医師は,尻の穴まで診るのだった。私は,思わず医師に聞いた。

「痔なんですが,治りますか?」

 私は,高校に入ってから,便の硬い時があり,切れ痔で悩んでいた。恥ずかしくて,これまで病院に行けなかったのだ。医師は,こっくり頷いただけだった。その声が,外に聞こえたらしい。何人かの生徒の嘲笑が聞こえた。

 

 そして,人生最初で最後の「性病」の検査が終わった。なんとも衝撃的だった…。

 

 その後,しばらくして,父が言うには,私の成績が1番良かったので,入学式で新入生総代をやらせたいと相談しているという。私は,おいおい止めてくれよと思った。筆記試験は,あまり出来なかったはずである。だから,全合格者中の1番とは考えにくい。もし筆記が出来たとしても,東京のような大都市の生徒にはかなわない。それは,よく分かっていた。まあ,入る気がないのだから,あれこれ考えても仕方がない。

 

 結局,私は他の総合大学に合格したので,防大には行かなかった。

 現在,世界情勢は不安定である。防大の試験当時は,大戦から30年近く経っていた。世情は安定しているように見えた。また20世紀の終わりには,ソビエト連邦が崩壊し,冷戦が終了した。しかし現在でも,米中露の3大常任理事国は自己中心的であり,拒否権を連発して国連の機能不全を招いている。クーデターや内戦,テロ,2国間の戦争など,紛争はおさまる気配がない。やはり,防衛大学校に入らなくてよかった。私には荷が重すぎる。また,私は今,まどみちおの「うばいあえばたりぬ,わけあえばあまる」的な平和主義者である。

 

 とまれ,集団面接といい,恥ずかしい身体測定といい,初めてのことが多かった。おかげで,防大受験は,私に強烈な印象を残したのだった。

 

注1)現在(令和6年)の自衛官の定年年齢は以下の通りである。

          統幕長,陸海空幕長

 62歳

                将,将補

 60歳

                  1佐

 57歳

2・3佐,1・2・3・准尉,曹長,1曹

 56歳

                  2・3曹

 54歳

                   士

 任期制