SENSAIまさの備忘録

繊細気質まさの過去を振り返る

これまでのこと27 歯医者の息子

 小学校1年生のとき,歯医者の息子と同級生になった。当時,彼はまごうことなき中流家庭のお坊ちゃまである。2階建ての「歯科医院」兼「自宅」には広い庭と池があった。日本庭園風の立派な庭である。正面から,外階段を上った2階が歯科医院の治療室だ。2階の治療室の奥と,1階すべてが家族の居住スペースとなっている。1階の居間には,漫画単行本がたくさんあった。見たこともないおもちゃも置いてあった。プラモデルもふんだんにあった。初めて触れる中流家庭の家に,強いカルチャーショックを受けた。私の家も新築で,総2階の木造建築だったけれども,洋風の彼の家は敷地面積が広く,数段豪華だった。

 1階から入ってすぐの居間は,広い洋室である。その奥に畳敷きの和室があり,TVが置いてある。家族がそこで食事をした。父親の母と思われる,お婆ちゃんが一緒に住んでいた。1階には,恐らく彼女のための和風の居室があったろう。彼の部屋は2階にあった。洋式のフロアー仕立ての6畳間?である。窓際に机も置いてあったが,彼は床のテーブルで,マンガを描いていた。なかなか手が器用で,プラモデルを作るのも上手だった。覚えている部屋はそれだけだ。

 

 彼の母親は,気難しい感じの人だった。よく彼の家に遊びに行ったが,行くと必ず「今度は『まさ』ちゃんの家で遊びなさい」と言った。「何で他人の子の面倒を見なければならんのだ」と言わんばかりである。何故か,いつも不機嫌な顔をしていた。

 彼は何度か私の家に遊びに来た。彼の母親が,私の家で遊べと言うのだから仕方がない。初めて来たとき,母がインスタントコーヒーを牛乳で溶いて出してくれた。こんなもの,おぼっちゃまの口に合うだろうかと心配した。しかし,彼はそれを珍しがって,大変喜んでくれた。私は嬉しかった。

 歯科医の父親は,お祖母ちゃん似である。細くて優しい感じの人だ。しかし,歯の治療の時以外にあまり接点がなかった。

 彼には妹が一人いた。いつも,一緒に遊びたそうに我々に近づいて来る。そのたびに彼は,迷惑そうな顔をした。そして母親に,どこかに妹を連れて行ってくれというのだ。妹とは,小学生の頃から会っていない。もう,お婆ちゃんになっているだろう。

 彼のお婆ちゃんは,いつもきちんと和服を着ていた。小柄で痩せた,品のいい人だった。子供にはたいそう優しかった。1度「ウルトラマン」を見せてもらったことがある。当時,私の住んでいる街には,TBS系の地方局がなかった。そこで,何やらチューナー,アンプのようなものをかませて,隣県から流れてくる電波を拾って,観ることが出来た。

 その頃,私はもう高学年になっていた。確か,歯の治療に来たところ,治療してくれた彼のお父さんが,寄って遊んで行けと言ってくれたのだ。そして,治療室の裏口から,彼の居室に連れて行ってくれた。彼はびっくりして「何しに来た?」と言った。高学年になって,彼とはクラスが違っていたから,久し振りだったのである。

 しばらく遊んでから,彼が「ウルトラマン」を見ていけよと言う。私は,逡巡していた。彼の母親は,迷惑そうにして「帰れ」と言う。ところが,お婆ちゃんが「いいじゃないの,見せておやりよ」と言ってくれた。そして,僕は初めて「ウルトラマン」を観た。

 その日は,怪獣が2匹出て来る豪華版だった。2匹は,最初は別々に登場する。それが,暴れながら,運命のようにいつしか鉢合わせし,戦いを始めるという話だった。調べると,第19話「悪魔は再び」の青い怪獣アボラスと赤い怪獣バニラだ。

 放送時間は,19:00から30分であったから夕飯どきである。だれか家に電話してくれたのか,夕飯をご馳走になったか,記憶がぼんやりしている。番組が終わって,暗い道を,ウキウキしながら帰ったのを覚えている。彼のお婆ちゃんのおかげで,今でも忘れない思い出である。「ああ,亡くなってもこうやって記憶に残るんだ。私も,他人や子供に善行をしておかないと」と思う今日この頃である。

 

 私と彼が一緒に写っている写真が何枚かある。一つは,私の家である。窓から二人で顔を出しているところを,同じ壁沿いにある別の窓から撮ったものだ。二つ目は,花見の写真である。Gと母方の祖父,Gの実家の爺さん(誰だかわからん)が一緒に写っている。なかなか貴重だ。

 彼の家の庭には池がある。そこで遊んだ記憶がある。ゴジラのプラモや船を浮かべて,映画の真似をした。私を撮ったカラー写真がある。モデルのように,庭の大きな岩の前に立っている。彼が撮ってくれたものだ。当時,カラー写真は珍しかった。何故か,彼に写真を撮られるのが嫌で,私の顔は妙にふてくされている。

 また,父の車のボンネットにもたれて,二人並んで立っている写真がある。父が車で山形市の南,上山(かみのやま)市の方へ連れて行ってくれた時のものだ。さすがの歯医者のお坊ちゃんも,自宅に車はなかった。上山は,斎藤茂吉の故郷である。当時は地方競馬場があった。道路はまだ舗装されておらず,彼が車酔いをしたのを覚えている。

 

 彼と遊んで帰る時だったと思う。玄関を出て,何気なく1歩を踏み出すと,「にちゃっ」と足が沈みこんだ。慌てて足を上げると,そこには私の長靴の跡がくっきりとついていた。玄関前のコンクリートが生乾きだったのだ。私は,こっそりとその場を逃げ出した。まあ,大したことはないだろうという気持ちもあった。家に帰って,そんなことはすっかり忘れていた。

 次の日,学校に行くと,彼がササッと寄ってきた。「まさくん,きのう玄関のコンクリート踏んだでしょう?」と言う。「それは子供の靴跡だった。昨日は,家に来たのは「まさ君」だけだ。だから踏んだのは,君しかいない」理詰めで迫って来る。私は,勿論「どきっ」とした。そうか,あれはやはりまずかったのか。しかし,そこは情けない私である。平然と知らぬふりをした。

 

 彼は,その環境もあってか,なかなか自己中心的だった。私も兄弟がおらず自己中だったが,彼の方がずっと上手である。彼と遊ぶときは決まって,彼のやりたいように事が運ぶのだ。その対人関係も,人によってころりと変わる。私よりも気に入った友人がいるときは,私が邪魔者扱いされる。彼は,2人で遊ぶのが好きだった。そして,集団になると大人しくなった。

 彼が,別の友人を連れて,私の家に来たことがある。もう高学年で,クラスが違っていた。私が見ていないとき,私の作ったプラモデルを見て「下手くそだね」とその友人に話していた。彼はこっそり言ったつもりだったろうが,私には,はっきり聞こえたのである。もちろん,手の器用さは彼にかなわない。それはよく分かっていた。

 

 彼は,大変手が器用だった。プラモや漫画など上手に作ったり描いたりできた。さすが,歯医者の息子である。先にも述べたように,高学年の時に,予期せぬ形で彼の部屋へ行った。そのとき彼は,床のテーブルでせっせと漫画を描いていた。模造紙のような紙に直線を引いて,マンガのコマを作っている。コマは,縦に3本,横に5本の線を引き,同じ大きさのものを縦に4個,横に2個作ってあった。そのコマの中に,紙芝居のように絵を描くのである。当時のマンガはすでに,コマ割りも工夫されていたから,それを思えば,少し単純ではある。しかし,彼は,漫画の描き方を知っていた。鉛筆で下書きをし,その上から,黒インクでペン書きをするのである。子供であるから稚拙だが,不思議に絵,特に人物のバランスがよく,見栄えがした。字が下手でも,何かいい感じの文字の書ける人がいる。それに共通したものを感じた。

 彼のおかげで,私にも火が付いた。それから,私もマンガを描くようになったのである。最初は,お気に入りのマンガ家の絵を模写した。それから徐々に,ストーリのあるものを描き始めた。ただ,彼のように,バランスの良いカッコいい絵が描けなかった。それでも,小学生の頃は,小さめの画用紙に鉛筆書きで,潜水艦の物語を描いた。小沢さとる氏の完全なコピーである。しかし,中学になり,インクで描くようになると,一度も最後まで描ききれなかった。描いた絵が気に入らず,途中で飽きてしまうのである。才能がないと言うのは,こういうことを言うのだろう。

 

 私が4年生の時,夏休みの作文で銅賞をもらった。これは,先に「父のこと」で触れた,父の指導が入った作文である。担任の先生が,私に言わずに全国作文コンテストに送っていたのだ。その賞を,全校朝礼の時,ひな壇に上がってうやうやしく頂いた。だから,全校生徒がそれを見たわけである。

 その日の放課後,玄関から出て帰宅しようとすると,彼が私を呼び止めた。そして,「まあちゃんは,作文が得意なんだね」と言う。どういう気持ちでそう言ったのか,そのときはわからなかった。彼は,思いやりのある人間だということが,後に感じられることになる。それまでは,私は「彼は,わがままだから人の上に立つのは無理だ」と思っていた。

 

 彼は,成績が悪くなかったはずだ。しかし,地元の公立高校を避けて,私立高校に推薦入学した。本人は,受験して落ちるのは嫌だし,受験勉強そのものが嫌いだと言っていた。そして,そのまま,その高校の系列の大学歯学部に進学し,父の跡を継いだ。

 進学当時,私は彼を,意気地のない奴だと思った。しかし,今思えば,堅実だったのかもしれない。受験勉強など,その後の人生にほとんど関係がない。残るのは,どこどこ高校,大学に入学したという学歴だけだ。中には,それが役に立つ仕事もあろう。しかし,仕事のできの良し悪しは,その人の才能であり,人格である。学歴は全く無関係だ注1)

 だから,受験勉強などせずに,一途に歯科医を目指した彼は,人生の勝者と言えるかもしれない。

 

 還暦祝いと銘打った,中学の学年同窓会に出席した。お盆の時期だった。家内の実家に泊めてもらって,参加した。私の両親は,すでに亡くなっており,その家は他人に貸していた。その当時すでに,私には旅行や他人と会話をする元気はなかった。同窓会には,陽気な同級生の強い勧めで,仕方なく出席した。私は,緊張しやすい性格を,お調子者の性格で覆い隠し,何とか社会の中で生きてきた。齢60を過ぎて,流石に疲れてしまっていたのである。

 その時,数十人は集まっていただろうか。私の時代は,9クラス(3年時に8クラスに減った)あった。だから,この学年だけで,生徒が300人以上いたことになる。(全校で,1000人以上いた。)したがって,知らない顔が多い。それに加えて,参加者の体形が変わり,顔つきが分かりにくかった。同級生でさえも,認識できない人がいた。同じテーブル同士で話をしているとき,同級生だと聞いて「ええっ」と驚いたものだ。私の持っていたイメージと,似ても似つかない顔とスタイルだったのである。

 一通り,同席での会話が終わり,各々席を立って,別のテーブルに散っていった。私は,おしゃべりをする気力もなく,そのまま座って,静かにしていた。そのとき,誰かが近づいてくる。顔を見ると,なんと歯医者の息子である。彼は,容姿に特別変化がなかった。いくらか年を取ったという程度で,すぐに彼だと分かった。「○○です」と言って笑っていた。私は,

 「あ,どうも」

 と言っただけで,次の言葉が出なかった。全く予期していなかったせいで,何を話していいのか分からなかったのである。彼も少し考えてから「どうも」と言った。そしてすぐに,私のテーブルから離れて行った。私の戸惑いを察したからだろう。子供の頃は,勝手気ままな奴だと思っていたが,立派な大人になっていた。わざわざ,私に声をかけてくれたのだ。素気無いあいさつだけで終わり,申し訳ないことをした。そう思っても,後の祭りである。

 次に会う機会があれば,是非ゆっくり話がしたい。

 

注1)

 有名大学,特に東大理Ⅲに入れた者は,「大学入学試験の勝者」だ。ぺーバーテストによる入学試験は,かなり公平な選別方法である。「勉強すべきもの」や「採点の仕方」が明確だからだ。その結果は,素直に褒められてよい。

 一方,最近の面接重視の選抜法は,合否の基準がはっきりしない。学校推薦,自己推薦,AO入試などは,若者の減少に伴う,単なる受験生の囲い込みである。アメリカの有名大学も面接重視で,就職試験に似ているという。意欲やコミュニケーション能力の高い人物の方が,将来大学の価値を上げてくれると見ているようだ。

 だから,大学入試の後,すなわち大学入学後の人生は,あらためてゼロからのスタートである。ただ,日本の場合は,卒業した大学によって,就職の有利,不利がある。また,上位の大学に入った者は自信がつき,勉強意欲が高いと言える。それでも,社会に出て,立派に仕事ができるかどうかは,卒業した大学とは無関係である。本当に能力のある人間は,社会で活躍できるだろうし,起業して成功することも可能だ。