SENSAIまさの備忘録

繊細気質まさの過去を振り返る

これまでのこと28ー1 私とマンガー小学生時代

 私が物心ついた頃のマンガとの関わりは,先に書いた。ここでは,小学校時代から現在まで,話を続けていきたい。マニアックなので,少々長くなる。最後まで,お付き合いいただければ幸いである。

 

 小学校の時,マンガ入門書を手に入れたこと,歯医者の息子に感化されて自分でもマンガを描き始めたことは,すでに書いた。それ以外に,記憶に残っていることを綴りたい。

 ただ,残念ながら私には日記をつける習慣がなかった。だから,かなり記憶が抜け落ちている。その点,中島梓栗本薫)氏の「マンガ青春記」集英社(1986)は,氏の日記をもとに書かれており,記載されているマンガの表題やマンガ家は,膨大な数である。そのほとんどは,私も見たり聞いたりしたことのあるものだ。彼女とは,世代が近いのである。しかし,私には,それぞれに具体的にどうかかわったのか,まったく記憶がない。だから,私のこの本文で触れるマンガやマンガ家の数は,彼女の本に出てくるものの1%にも満たない。私も,日記をつけておけばよかったと思う。返す返すも残念である。ただ,40代以降のto do listを見ても,まったく記憶にない物が多かった。だから,日記をつけていても,読んだマンガの題目だけの記録であれば,何の役にも立たないかもしれない。

 余談だが,中島氏は,著作物の校正は一切しないという。紹介した本も溢れ出る言葉をそのまま文字にしている感があり,天才とはかくありきと思わせる。

 

 

 歯医者の息子と知り合ってから,自分もマンガを描き始めた。A5くらいの小さな画用紙に,鉛筆で描いた。当時,潜水艦のマンガが好きだった。そのマンガは,小沢さとるの「サブマリン707」である。子供は,兵器が好きだ。戦闘機や戦車,戦艦など大好きで,名前をよく覚えている。潜水艦というのは,なかなかお目にかからないものだから,強く興味をそそられたのだろう。そのマンガを真似て,潜水艦ものを描いた。「サブマリン707」の真似事である。自己満足するだけで,人に見せようとは思わなかった。

 そんなとき叔父が見て,なかなか面白いと言ってくれた。勿論,すべてが稚拙なマンガだった。叔父の話は,“小学生にしては”ということだろう。特に絵には自信がなかった。歯医者の息子の絵も下手だが,何故か見栄えがした。ちょうど,字の「へたうま」のような感じである。一方,私が描く人物は,バランスが悪かった。言わば「へたへた」である。私には絵の才能がなかった。それもあって,漫画を描くことにそれほど夢中になることは無かった。残念なことである。

 ところで,「漫画の描き方」を読んではいたけれども,ペン入れしようとは考えなかった。マンガを描く道具を手に入れる方法が,全く分からなかったからである。私は,いつもそうだ。とことんやることが出来ない。仲間を募ったり,必要なものを揃えたり,マンガ雑誌に投稿したりするには,どうしても,どこかで他人の力が必要である。それは緊張を誘い,結局,自分の殻に安住してしまう。その性癖は,いつまでも残った。それでも,何の根拠もなく,マンガ家になる夢を持っていた。どんな夢でも見ることが出来る,幸せな時代である。

 

 小学校時代は,月刊マンガ誌の最盛期だった。どの雑誌にも,たくさんの付録がついていた。雑誌の間にその付録を挟んで縛るものだから,丸々と太っていた。厚紙を使った組み立て付録,ボードゲーム,マンガの別冊などが,付録としてついてきた。マンガの別冊付録は,本誌より一回り小さかった。しかし,枚数は,50ページ以上もあった。本誌に10ページほどのマンガを描き,その続きを別冊に描くのだから,マンガ家も大変だったであろう。先に述べた,手塚の「マンガの描き方」は,そのような別冊付録として付いて来たものである。付録で思い出すのは,近所の神社のお祭りに並ぶ,テキ屋の店だ。その中に,雑誌から付録だけを取り出して売っている店があったのだ。どうやって付録を手に入れたのだろう。不思議な商売である。

 小学校の頃は,雑誌は,たまに買って読む程度だった。1冊買ってもらったら,それを何度も読むのである。雑誌を消耗品として,毎月買うのは,小学生には難しい。先に触れた「サブマリン707」は,週刊少年サンデーに連載されたものをまとめて,別冊として出版されたものだ。それは,付録と違い,本誌と同じ大きさだった。紙質も,本誌と同じでよくない。

 当時,単行本として出版されるのは,特別人気の高いものに限られた。多くは,ハードカバーの立派な本である。当然,高価だ。今のように,連載されたものをまとめて,マンガ単行本として出版する習慣はなかった。

 そうしたところ,昭和42年になって,月刊誌「少年」が休刊となった。鉄腕アトム鉄人28号を連載していた雑誌である。私は,びっくりした。小学生のことであるから,月刊誌が売れなくなっていることを知らなかったのだ。時代は,マンガ週刊誌へシフトしていた。私が中学に入る頃には,少年ジャンプが創刊され,いよいよ週刊誌の時代に入ったのである。

 

 たまに買ってもらうマンガ雑誌で覚えているのは,貝塚ひろしゼロ戦レッド」,松本零士「スーパー99」等である。「スーパー99」は,潜水艦がテーマで,小沢さとる以外のマンガ家が書いた物として,興味を持った。他にも沢山読んだはずだが,1話完結という漫画が少なかったため,あまり記憶に残っていない。

 一方「おそ松くん」や「まるでダメ男」のようなギャグマンガも見ていた。マンガ週刊誌を買うことは無かったので,級友が学校に持ってきたものを見せてもらったものだ。友人たちはギャグマンガを見て,けらけら笑っていた。一方,私は面白いと思っても声を出して笑うことは少なかった。せいぜい,ニヤッとするだけだ。大学4年生になって,初めて大笑いを経験することになる。それについては,そのときにまた書こう。

 小学館の学年雑誌は,父が定期購買してくれたので,毎月楽しみだった。早くから字が読めたので,幼稚園年長のときに,「小学1年生」を読んでいた。そのまま繰り上がって,5年生の時には「小学6年生」を読むことになった。そこで6年生の時に,もう一度「小学6年生」を読んで,学年雑誌と別れた。記事は全く覚えていないが,マンガはいくらか覚えている。藤子不二雄は,常連のマンガ家で「パーマン」を覚えている。

 通っていた床屋には,マンガ週刊誌の少年キングが置いてあった。あまり人気のない雑誌だったが,行き当たり上,読んでいるうちに,「エリート」というマンガが好きになった。平井和正(原作),桑田次郎(作画)である。最新号まで読んでしまうと,次週が気になる。週末になって,読みたくて仕方がなくなった。そこで,母に無理を言って,少年キングを買ってもらったことがある。早速読むと,案外あっけなく,また次週に続くのであった。こんな感じで毎週続くのかと思うと,急につまらなくなった。マンガ週刊誌を買ったのは,その時だけである。

 

 私の学童期は,TVアニメの黎明期だった。鉄腕アトムが始まり,すぐに虜になった。狼少年ケンエイトマン(TBS),スーパージェッター(TBS),0戦はやと,宇宙少年ソラン(TBS),W3,ジャングル大帝,ハリスの風,魔法使いサリー,冒険ガボテン島などを覚えている。当時,私の住んでいる街では,フジTV系と日本TV系しか見ることが出来なかった。だから,TBSは観れなかったはずだが,何故か覚えている。時期を遅らせて,地方局から再放送されたのかもしれない。いずれも,マンガで読むことは少なかった。歯医者の息子が,鉄腕アトムの単行本を持っていたので,読ませてもらったくらいだ。マンガの多くは連載物であるため,月刊誌や週刊誌で間欠的にしか読めず,あまり記憶に残っていない。

 アニメについては,手塚が立ち上げた虫プロダクションについて,本人やアニメータが詳しく紹介しているので,毎週30分枠のTVアニメ「鉄腕アトム」の功罪を,私はよく知っている。

 

 私は,友人の家へ遊びに行くということが出来なかった。その家の友人以外の人と合うのが怖かったのである。ある時,意を決して,写真屋の同級生の所に遊びに行った。道中,ドキドキしながら歩いたのを覚えている。彼は,優しい話し方をする,自己主張をしない男の子だった。行って,家に入れてもらったはいいが,遊びもせず,おやつを食べながら彼が持っていたマンガ雑誌を熱心に読んでしまった。彼も隣にいて「まさ君はマンガに目がないね」と言った。私は,自分の目を指して「目はあるよ」と返した。つまらない記憶であるが,何故かよく覚えている。そのときのモノクロ写真も残っている。誰が撮ったのだろうか。

 また,他の同級生の誕生日に呼ばれていったことを覚えている。そのとき,写真屋の彼も呼ばれた。出かけるとき,母親にプレゼントとして果物の缶詰などを持たされた。同級生の家に行くと,写真屋の彼も来ていた。彼のプレゼントは,マンガ雑誌だった。一緒に赤塚不二夫の「おそ松くん」を読んで,皆で笑いながら「まさ君もこういうのを持ってきてくれるといいのに」と言われて,なるほどそういうものかと思った。

 

 少女マンガには,興味があった。女子児童が持ってきた「マーガレット」や「少女フレンド」を近くで覗き見したりした。さすがに,男子はそれらの雑誌を買うことがなかったので,じっくり読むことは無かった。後に,中学生になった時,貸本屋を利用するようになって,少女マンガも読むようになった。小学校当時は,楳図カズオの恐怖マンガが印象に残っている。女の子もキャーキャー言いながら,怖いもの見たさで,読んでしまうのである。

 

 小学校の先生は,殆ど戦争体験のある人達だった。だから,先生方は皆,兵力を持たないと謳った日本国憲法を誇りにしていた。私は,父親が自衛官である。子供なりに微妙な気持ちがあった。だから,友人と父親の仕事の話をすることはなかった。

 そうであっても,マンガには戦記物が溢れていた。先にも書いたが,子供は戦争兵器が好きなのである。悲しい人間の性だ。貝塚ひろしゼロ戦レッド」,ちばてつや紫電改のタカ」などを覚えている。考えてみれば,「鉄腕アトム」であれ「鉄人28号」であれ,正義が悪を「力」でねじ伏せるのであるから,戦争マンガと同じである。

 

 確か,小学生高学年の頃,月刊誌COMが出た。67年創刊だ。近所の本屋で面白い本が出てるなと思った記憶がある。なぜか,ガロの記憶はない。月間漫画ガロは64年創刊であるから,とっくの昔に店頭に並んでいた筈である。白土三平の「カムイ伝」を掲載するために発刊した雑誌だ。絵のタッチが,殺伐としており,主人公も大人だった。辰巳よしひろが,劇画と呼んだものである。だから,子供には,劇画を縁遠いものと思ったのだろう。

 いずれの雑誌も,高校生の時には,私を大いに興奮させてくれた。ガロは,その後も長く続いたが,COMは,私が高校生の時に休刊した。刊行元の虫プロ商事が倒産したためである。COMに掲載された「トキワ荘物語」で,トキワ荘に詳しくなり,また憧れた。それまでも,トキワ荘については,見聞きしていたが,やはり高校生くらいの年齢にならないと,身近に感じられないのであろう。そんなこともあり,また価格も他の雑誌に比べて高かったので,COMをリアルタイムで買って読むことはなかった。高校生より歳が上になってから,古本屋で既刊の号を手に入れて読んでいた。

 

 ある日,教室で,男子が数人集まっている。その中の一人が持ってきた,マンガ雑誌が話題のようだ。雑誌「少年」に連載されている,白土三平の「サスケ」を見ていた。絵を見ても,特段変わったところがない。ある場面が話題だった。サスケのあとを,いつもついて歩く,小学生くらいの少年が,床にふせて苦しんでいる。サスケが診察?すると,その原因がツツガムシ病だとわかる。ツツガムシ病が認知されたのは,最近のことだ。だから,サスケの時代では,謎の風土病だった。それを,サスケは経験から知っていたということである。

 ツツガムシというのは,ダニの一種である。その幼虫が体に付いて,菌を感染させるのだ。サスケは,少年の陰嚢に虫が付いているのを見つけた。陰嚢だったか記憶が怪しいが,とにかく柔らかいところに吸着するらしい。

 その後,行動を共にしている,若い女忍者も具合が悪くなる。同じツツガムシ病だ。その若い女忍者が「恥ずかしい」と言うのを,服を脱がせ,裸にしてツツガムシの幼虫を探し,取り出す。そこが,エッチだということである。ただ,それだけだった。別に裸の絵が出てくるわけではない。ただ,何故か強い興味があるのだ。

 私は,その雑誌をじっくり読みたくて,仕方がなかった。勇気を出して,その持ち主に「貸してくれないか」と頼んだ。そしたら,私の心を見透かしたように「まあちゃん,あそこ気になるんだろう」と言われた。私は必死に「いや,そうではない」と否定した。結局借りることが出来なかった。

 彼は,雑誌をいつも,そのまま自分の机の中に置いて帰る。そこで,放課後,誰もいない教室で,その雑誌をこっそり自分のカバンに入れた。家に帰って,必死にコピーできないか,試みたが無駄だった。当時は,印刷でさえも,ガリ刷りの時代だったのだ。次の日の早朝,諦めて,そっと返しておいた。

 この強い衝動がなぜなのか,いつまでも分からなかった。私の少年期の,ヰタ・セクスアリスの記憶である。