SENSAIまさの備忘録

繊細気質まさの過去を振り返る

これまでのこと25 割烹着(かっぽうぎ)と炊飯窯(すいはんよう)

 私が小学校に入った頃,父は家を新築した。祖父母の平屋では,狭くなったのである。当時は,叔父(祖父Gの子供)も住んでいた。叔父は,父より15歳年下である。だから,父にとって叔父は,弟というには年齢が離れすぎていた。祖母の実家は資産家である。祖父Gと再婚したときに,祖母は,土地と平屋を買ってもらったと聞いている。平屋の奥は60坪ほどの庭になっており,そこに父は2階屋を建てた。祖父母は,そのまま平屋に寝泊まりするつもりだ。食事は新しい家で一緒にした。

 

 そして,母の専業主婦としての新たなフェーズが始まった。

 

 新しい家が建って,母は,台所という自分の城を持った。玄関に入ると,正面に1間ほどの幅の廊下が1本,左右に伸びている。向かって左はすぐに行き止まりで,向かった方向に2階への階段がある。階段の向い側はトイレだ。玄関正面は,廊下を隔てて,6畳間,その右隣にふすまを隔てて8畳間が並んでいる。廊下は正面から右へ,続き間に沿って真っ直ぐ伸びている。8畳間の奥は押し入れと床の間があるので,廊下は8畳間よりも奥ゆきがある。

 廊下の右端が,母の台所である。ちょうど廊下の幅分だけ,シンクとガスコンロの台があった。シンクに向かって正面が,廊下の端で,大きな窓がある。今思えば,かなり狭いキッチンである。台所に向かって左側面は,8畳間の押し入れ分だけ白い漆喰の壁になっている。その壁沿いに,後に冷蔵庫が置かれた。

それ以来,母といえば,台所で背中を見せて調理をしているイメージができた。いつも白い割烹着を着ていた。

 

 台所の右側面は,ガラス戸である。その奥は,数坪ほどの建屋だ。ガラス戸を入ってすぐは,3畳ほどの広さの木の床で,そこに,脱衣所,洗濯機,炊飯用の陶器の大きな壺(炊飯窯)があった。そして,床の左側が,木製の洗い場と風呂である。湯沸かしは最初に薪で,その後ガスに変わった。建ててからしばらくは,下水道が通っていなかった。だから,排水はそのまま水路に垂れ流しである。

 炊飯窯というのは,70~80㎝の背丈がある素焼きの壺(蒸しかまどともいう)である。飯を炊くためのものだ。表面に細かな凹凸があり,緑色に染めてあった。火力は,恐らく木炭で,中に釜を入れてご飯を炊く。上は短躯の筒状穴であり,蓋がついている。

 写真は小田製作所のミニ蒸しかまどである。現在の市販品は3合や5合炊きの小さいものだ。写真の左側がそのかまどである。かまどの上半分を開け,中に写真の右側にある炊飯釜を入れる。それから開けた上半分をかぶせ,上の口は蓋を外しておく。かまどの下の部分に木炭を入れ,火をつける。そして,炊き上がるまで待つ。炊き上がると上の口から蒸気がゴーゴー吹きあがって来るので,火を取り,上の口と下の火入れの部分に蓋をして蒸らす。あとは,素晴らしい炊き上がりのご飯が出来上がるのを待つだけだ。そのご飯を「おひつ」に入れて家族そろってご飯を頂くのである。

小田製作所のミニ炊飯窯


 しかし,1960年代後半に,ガスや電気の炊飯器が販売され,さらに保温もできる炊飯ジャーが売られるようになると,火を起こしてご飯を炊くことはなくなった。家の炊飯窯も,おひつと共に,いつの間にか消えてしまった。


 母は昭和の専業主婦そのものだった。祖父母の世話,子供の世話,家事全般を毎日せっせとやっていた。私の記憶においても,母は常に台所にいた。体のいい家政婦である。休日には,母は,父と私と3人で繁華街,百貨店,旅行に出かけたが,あまり嬉しそうには見えなかった。

 母の話では,結婚当初,祖母につらく当たられたという。夜泣いて,実家に帰りたくなったそうだ。私が記憶しているのは,新しい家が建ってからである。その頃には,祖母は優しいだけだった。もちろん,幼い自分には,嫁姑の確執を感じとることは出来なかったのだろう。また,新しい家に移り,母が一手に家事全般をやるようになって,嫁姑のフェーズが変わったのかもしれない。

 

 ただ一つ,よく覚えていることがある。夕飯を食べ終わると,決まって祖母は

 「ああ,母さんのご飯はうまい。ごちそうさまでした」

 と大きな声で言うのだ。夕餉に集まった家族は,特に母は,こそばゆいような苦笑いをするのであった。私は,何故そんな大きな声を出す必要があるのか,分からなかった。今思えば,祖母の最大限の感謝の気持ちを表すための,お世辞と本音が混ざった自己表現だったのだろう。男にはなかなかそういうことは言えない。

 

 何の話をしていたのか覚えていないが,祖母に言ったことがある。

 「ばぁちゃんには,いろいろ遠慮があるべ」

 それを聞いた祖母は,嬉しそうに答えた。

 「よぐわがるなぁ。んだんだ」

 私は,それほど深刻には考えずに言ったのだ。しかし,祖母の本当に嬉しそうな顔を見ると,自分が考えている以上に,ずいぶん気を使っているのだなと,気の毒になった。

 

 祖母は,糖尿病だった。当時,下水道がなかなか通らず,汲み取り式のトイレだった.

それが幸いして,病気が見つかった。汲み取りに来た業者が,糖尿病患者のいる家のし尿に特徴が似ていると言うのだ。粘度が高いという。心当たりは祖母しかなく,病院で検査するとやはり糖尿病であった。かなり,症状が進んでいたため,インスリン注射が必要だった。当時は,今のような便利な器具は無く,注射器で皮下注射をした。そして毎日,母が祖母に注射をすることになった。

 ある時,私が高校生の頃と記憶しているが,母が用事で外出するため,私が祖母に注射をすることになった。私は嫌がったが,やむを得ない事情である。意を決して,祖母の左上腕の皮膚をぐいと引っ張り,何とか注射した。終わって,祖母がぼそっと言った。

 「あー,いい。まっちょにしてもらうど,いだぐ(痛く)ねぇ。お母さんだど,いだくて」

 「まっちょ」というのは,私のことである。私の名前が「まさ」だからだ。私は「母が嫌いなのか?」と思った。もちろん,祖母の本当の気持ちは,当時の私には分からなかった。

 

 祖母と私は,その時8畳間にいた。鴨居に白い割烹着が掛かっている。廊下越しに,風呂場のガラス戸が開いていた。そこには,緑色の炊飯窯が鎮座していた。