SENSAIまさの備忘録

繊細気質まさの過去を振り返る

これまでのこと5 母のこと

 母は,日本海側の海岸に近い雪国の出身である。言葉は,京風だった。父は,東北の内陸に住んでいて,生粋の東北弁である。母は,嫁いできてから大分経って,会話のアクセントは東北なまりになった。しかし,発音は京風のままだった。いわゆる「なまる」ことができなかった。

 

 私の父は自衛官だった。私は北海道のある町で生まれた。そこに自衛隊の駐屯地があり,父が赴任していたからである。私を生んだとき,母は28歳であった。母は悪阻(つわり)が酷く,生まれるまで自分の実家の妹に手伝いに来てもらった。また,乳の出が悪く,医者が,がりがりに痩せた私を見てミルクを飲ませるように言った。しかし,私は哺乳瓶についたゴムの乳首が嫌で,なかなか飲まなかったと聞いている。まるっと禿げ上がった赤ん坊のころの写真が残っていたが,今はもうない。母親と,小学校のシーソーに乗っている写真も覚えている。

 

 北海道は1年で転居した。東北の太平洋側の駐屯地そばに住んだ。2軒長屋が平行に2つあり,4家族が住んでいた。3歳くらいまでは,記憶がない。写真をいくつか覚えている。ニッカポッカのようなズボンをはいて立っているもの。まだよだれかけをかけて,猫の首をつかんで笑っているもの。花見に行った時に母と父と一緒に撮ったもの(父は制服だった)。3枚しか覚えていない。

 

 何歳のときかわからないが忘れられない記憶がある。私は,車が回る,大きめの自動車のおもちゃ(木製?)の前面にひもを付けて,引きずって歩いている。石ころがごろごろしている土の道路だ。しばらく歩くと駐屯地と住宅地の境にある堤防に上がる。堤防の上を,また,たらたらと歩いた。夕方になって,家に帰ると,母にえらく叱られた。自動車の前輪の一つが取れてなくなっていたのである。私は,探して来いと言われ,さっきまで歩いてきた道を,自動車の車が落ちていないか見まわしながら,とぼとぼと歩いた。夕日が強く印象に残っている。車は見つからなかった。その後どうしたかはまったく記憶にない。

 

 ちょっと外へ出ると,一面田んぼだった。母とイナゴを取りに行ったのを覚えている。いなごの佃煮を作るのである。当時,田んぼには,鳥よけのビニールのテープが長く張りめくらされていた。5ミリ幅で,片面は赤,もう一方の面は白い。風になびいて,きらきらするのが,鳥よけに効果的だったのだろう。ベルトの無くなった,腕時計のおもちゃがあった。母は,そのテープを適当な長さに切って,お手製のベルトを付けてくれたのを覚えている。また,赤とんぼがたくさん飛んだ。それを採ってきて乾燥させ,粉状にした。そして,のどの痛みに効くと言ってその乾燥トンボを飲まされた。私は,風邪を引くとすぐ,扁桃腺が腫れるのであった。

 

 当時,昭和30年代,まだ「おこもさん」がいてよく家に来た。乞食である。ある日,母と私の二人だけで家にいた日,「おこもさん」が戸をたたいた。母は,急いで私とトイレの前に隠れた。戸は鍵がかかっていた。外で「おこもさん」が叫んでいた。「いるのはわかってんだ。居留守使ってるべ?!」母は,私の顔を見てニコッと笑った。

 

 母は洋裁が好きだった。機械編みを習いに行き,自分で私のセータなどを編んでくれた。私も編み物教室について行った。砂利道を,一緒に手をつないで歩いて帰る場面を覚えている。毛糸を機械編みする際,編み終わった毛糸が機械から垂れ下がって来る。その編み終わった毛糸は,自然に縮んで,編み機の邪魔になる。また,編み上りがよくわからない。そのため,縮んだ毛糸生地の部分を複数の重りで下に引っ張り,ぴんと張る。その重りが,3×3×5cmの直方体の金属で,端に毛糸にぶら下げるための金属の手がついている。重りの部分はごつごつしていて黒い金属,熊手のような手の部分は,銀色に光っている。金属は恐らく鉄が使われていたと考える。それがずっしり重く,自動車に見えなくもなかったので,私は何個か使ってよく一人遊びをした。

 

 バナナを買ってもらって,なめながら食べたのを覚えている。私が,水疱瘡にかかったからである。当時,バナナはたいそう高価であった。私は,かじって食べるのがあまりにも惜しく,いつまでもなめていたのである。夏であった。縁側が開け放ってあり,外を通りかかった近所の女の子に,「あ,バナナ食べてる」と指をさされた記憶がある。

 

 母の郷里には,何度か行ったことがある。母方の祖父は,藍染め職人であった。古いかやぶきの平屋で,かなり大きい。私が小さかったから,大きく感じたのかもしれない。天井は,驚くほど高かった。大きな太い梁が,そのまま見える。家には,猫が居ついていた。猫は,いつも祖父の膝の上でのんびりしていた。大きな囲炉裏があり,そこで食事をするのである。食事が終わると,祖父は茶碗にお湯を入れ,口をゆすぐ。そして,そのままガラガラとうがいをする。そのとき,私はびっくりした。祖父は,それをごくんと飲み込んだのだ。

 

 

 町の病院の,緊急処置室。入院設備のある小さなビル。今,目の前のベッドで,母が臨終を迎えている。母はそのとき82歳だった。しかし,むくみでふっくらしており,もっと若く見えた。血圧は大きく下がり,心拍も遅い。私は,ベッドの横で佇んでいる。状況が,現実として呑み込めていない。不安感はあるが,浮ついた感覚である。何をしていいかわからない。特に,医者,看護師,家内の目が気になる。

 

 私は,このままではおかしい,何かするべきだとうっすら考えた。そして,母の肩に手をやり,軽くたたきながら,がんばってと心でつぶやき,母の顔を見つめていた。しばらくして,血圧が急に下がりだした。そして,心停止。顔がすっと土色に変わった。医者と看護師が「○○さん,がんばって」と蘇生を試みるが,もうびくとも動かなかった。私は,それをただ見つめているだけだった。

 

 私は,早速,職場へ電話するためにスマホをポケットから取り出した。忌引きをとるためだ。そう,僕は親不孝な「変な」やつなのだ。