SENSAIまさの備忘録

繊細気質まさの過去を振り返る

これまでのこと28-3 私とマンガー高校生時代

 高校生になると,道具をそろえることが出来るようになった。模造紙やケント紙に下書きをし,ペン入れをした。四角い枠線を引くために,紙の余白部分に穴をあけておくことを覚えた。ペンの種類やインクの知識,失敗した線を消すホワイトの存在も知った。ペン先もいろいろある。私はGペンを好んで使った。Gペンは,細い線から太い線まで幅広く引けるからだ。手塚治虫は,手紙などで使われる「かぶらペン」を使っていた。女性マンガ家は,細い線が好みで,丸ペンをよく使うらしい。

 また,インクは開明墨汁を使った。手塚の「マンガの描き方」に紹介されていたのである。墨汁はベタベタして,糊が入っているような感触だった。私は,そのベタベタが嫌で,後に製図用インクを使うようになった。こちらは,さらっとしていて,乾くのが速い。しかし,製図用インクは紺色に近く,ベタ(黒く塗りつぶすこと)を塗ると濃淡ができた。その点,墨汁は真っ黒だ。そこで,線を引くときは製図用インク,べた塗りには墨汁を使うようになった。

 今でも開明㈱の墨汁は売っている。しかも,マンガ墨汁として製品化されている。滲まず,乾きも早く,乾くと耐水・耐アルコール性になる。また,消しゴム掛けにも強いと銘打っている。それだけマンガを描く人間が増え,開明墨汁が有名になった証である。

 始めは,マンガを描く道具に固定観念があった。しかし,雑誌に印刷できるのであれば,何を使ってもいいことが分かって来た。例えば,製図用の同じ太さの線が引けるペンや,サインペン,マジック,また色付けをする道具など様々な筆記用具があり,その特性を生かせる部分に使う。スクリーントーンは,斜線や点などの模様が印刷された紙である。それを切って必要な場所に張り付ければ,手描きの必要がない。修正液などの修正用の文房具も,様々な種類のものが売っている。大きな失敗は,そこに新しい紙を張り付けて,描き直しても良いことを知った。

 ところが,最近は,そういった道具すら必要なくなった。つまり,パソコンのソフトを使って,マンガを描くことが出来るのである。その利点は,計り知れない。① そのまま,デジタルデータとして,出版社に送ることが出来る。印刷に回すことも出来る。② 線引きが楽になる。震えもなく,太い線,細い線が自由に引ける。また線のタッチも自由自在である。③ 彩色は非常に楽だ。広い範囲でもワンタッチで,しかも均一に塗れる。もちろん,濃淡をつけることも可能だ。色も多種多様で,絵具では出すのが大変な色も作れる。はみ出しても簡単に修正できる。何より道具が必要ない。④ 修正が楽である。ホワイトを使ったり,紙を張って書き直したりする必要がない。しかも,1枚に絵の1部だけ書いて,最後にそれらを重ね合わせることが出来る。だから,下書きも可能だ。消しゴムで,下書き線を消す重労働がない。⑤ 保存が可能で,同じ絵を何度も使いまわし出来る。⑥ 背景も,写真を絵画のように変えて使える(もちろん著作権があるから,自分で撮った写真に限る)。⑦ 顔や人体の造作を決めれば,いろいろな角度をつけた絵を自由に作れる。

 思いつくままに,利点を挙げた。このようにデジタルツールを使えば,これまでにない便利さである。この辺は,理系の論文を書く過程に似ている。かつては,文章はインクで手書きだった。もちろん,図も自分で描いていた。製図用の道具(ロットリングとか雲形定規とか懐かしい)を使ってせっせと描いたものである。図の中の文字も,テンプレートを使って書いていた。それが今では,ワープロでそのまま印刷できるように作成し,ネットから投稿する。郵便小包で,郵送していた頃が懐かしい。20~30年で,投稿システムが,全く変わってしまった。テジタル化の速度はすさまじい。

 しかし,やはりできた絵は機械的な感じがする。それが嫌で,昔ながらの手描きを,頑なに守っている作家もいる。ただ,使う人間が少なったせいで,スクリーントーンなどは発売を終了したという。残念である。「キャプテン翼」の作者,高橋洋一氏は,手描き主義者である。マンガが100巻を達成したことから,連載を終了することにした。理由の一つとして,スクリーントーンの入手が困難になったこと,手描きをする若者が減りスタッフを確保できなくなってきたことを挙げている。

 

 高校時代の贔屓のマンガ家は,個性の強い人達になった。

 山上たつひこは,中学生の頃から気に入っていた。きっかけは,COMの「人類戦記」で,人物の立ち姿が綺麗だと思ったことだ。また,線も滑らかで,真似をしたい絵を描くマンガ家だった。ストーリも現代的で,垢ぬけていた。高校生になってから,よく手本にしたものだ。

 中学3年の時,「光る風」が少年マガジンで連載された。近未来のデストピア物である。米軍の支配下にありながら,自ら軍事国家になっていく日本を舞台にしている。カンボジアへの軍隊派遣を契機に,太平洋戦争と同じ道に進んで行く。今読むと残忍なシーンが多く,少年マガジンでよく連載できたと驚く。さすがに,編集者がかなり手を入れたと聞く。それでも暴力的なシーンが多い。彼は,後に小説を書くようになる。この頃のマンガの編集者は,著作への介入の度合いが高く,辟易したらしい。そこで,小説ならば手直しをされることもないだろうと考えたようだ。

 また,題目は忘れたが,彼の読み切りマンガを雑誌で読んだ。何度も整形したために,整形する前の自分の顔を,忘れてしまった人物の話である。その雑誌をすぐに購入して,何度も読んだ覚えがある。

 この人が,ギャグマンガを描くようになるとは,夢にも思わなかった。最初に「がきデカ」を見たときは本当に驚いた。私が大学生の頃である。そのきっかけとなるマンガがある。青年向け雑誌に連載された「喜劇新思想体系」だ。これは下ネタ満載の,不潔極まりないマンガである。一方,「がきデカ」は少年誌の連載だ。だから,お尻を出したりするが,下半身ネタはない。それでも,これまでにないユニークなギャグマンガだった。この手のマンガは,さすがに真似しようとは思わなかった。

 「がきデカ」の大ヒットは,思わぬ影響を与えた。秋山治が「山止(やまどめ)たつひこ」というペンネームで,「こち亀」の連載を始めたのである。山上の名をもじったものだ。それほど「がきデカ」は爆発的人気を博した。「こち亀」のペンネームについては,後に山上からクレームが入り,本名の秋山治を使うようになった。

 

 それから,坂口尚。人物のデッサンが,しっかりしていた。線も細く,滑らかで美しかった。虫プロのアニメータであったので,絵のベースは手塚治虫である。しかし,彼が描くのは大人の物語だ。彼の絵も気に入って,よく模写したものである。

 坂口が作画した「クレオパトラ」が出版され,すぐに購入した。シネマアニメ「クレオパトラ」のマンガ版である。「クレオパトラ」は,手塚の原案,構成,監督で,虫プロが製作した。このマンガは,COM増刊号として,雑誌形式で出版された。かなり長いマンガで,さすがに締め切りに間に合わなかったのであろう。最後の方は,殆ど背景無しの書きなぐりであった。この「クレオパトラ」は,小島功の描く女性をモデルにしている。母がこの雑誌を見て,お色気マンガだと思い,嫌な顔をした。

 坂口のマンガは,それ以降読むことは無かった。しかし最近,‘80年代の作品「石の花」が目に留まった。ナチスドイツの進行を受けたユーゴスラビアの物語である。全編を読んではいないが,現在のウクライナ戦争を彷彿とさせる力作だ。

 彼は,‘96年,48歳で急逝した。惜しい人だ。

 

 宮谷一彦の絵には引き付けられた。COMに入選した処女作「眠りにつくとき」は,しっかりした構成のマンガである。それが,徐々に私小説的,政治的になっていき,最後は狂気を感じるほどであった。絵もリアルになり,垢ぬけた独特の雰囲気を持っていた。彼が「絵」の人だと言われる所以である。それが後年は,むさ苦しい絵に変わってしまい,全く興味を失った。彼自身も,殆ど描かなくなった。

 中島梓の「マンガ青春期」にも,彼の名前が出てくる。中島氏は別の著書で,宮谷の「ライク・ア・ローリングストーン」を元ネタにした。それを見た編集者が,音沙汰の無い宮谷を探したらしい。「おかげで,また本が出せた(「人魚伝説」)」と本人から,長い手紙が届いたそうだ。

 

 高校生の頃は,以上の3人の絵をさかんに模写した。そして,ストーリを考えてはマンガ描きを始めるのだが,毎回,10枚くらいも描き進むと飽きてしまい,放り出してしまうのだった。やはり,自分の描く絵が気に入らないのである。結局,最後まで,雑誌に投稿することは出来なかった。

 

 この時代(‘70年前後)は,手塚治虫の低迷期にあたる。‘60年代前後の劇画ブームに,必死について行ったものの,’70年に入ると人気に陰りが生じた。高校生だった私も,流石の手塚先生も時代に置いて行かれたかと思ったものである。手塚は,まだ40歳代半ばだった。「新宝島」でデビューして20年ちょっとである。マンガ界の変化の激しさは,すさまじかった。

 しかし,手塚治虫は凄かった。‘73年,少年マガジンで「ブラックジャック」の連載を始めると,一気に盛り返し,「三つ目がとおる」などをヒットさせ,復活を遂げた。その後,大人向けに問題作を描くなど,アニメとともに奮闘した。

 ところが,その後あっという間にスキルス性胃がんで亡くなった。60歳という若さだった。NHKで手塚の日常を追ったドキュメンタリー番組を見た。それは,まさに昭和のモーレツ会社員を思わせた。1日の殆どをマンガ描きとアニメ制作,それらの関連行事に集中しており,一体いつアイデアを考えるのか,本などを読む時間があるのか,不思議で仕方がなかった。

 

 この時期,興味が再燃したのは,豊島区南長崎(当時椎名町)の「トキワ荘」である。手塚治虫が住んでいたアパートだ。手塚が引っ越した後,若いマンガ家が次から次へと住むことになり,マンガ家の梁山泊と言われるようになった。寺田ヒロオ(手塚が住んでいた時からすでに入居していた),藤子不二雄(手塚の住んでいた部屋を提供された。手塚は敷金をそのまま置いていった),石ノ森章太郎赤塚不二夫(石ノ森と同居),鈴木伸一水野英子(石ノ森,赤塚と3人で合作漫画を描くために,出版社が用意した。そのマンガ製作が完了するまでの短期間だけ)が住んだ。また結成した新漫画党のメンバーとして,森安なおやつのだじろう園山俊二らが出入りしていた。「トキワ荘」については,中学生の頃に知った。しかし,より詳しくなったのは,高校生のときである。特に,藤子不二雄Ⓐの「まんが道」を読んで,一層の憧れを持った。

 上記のマンガ家以外にも,何人か住んだり訪れたりしていたようだ(Wikipediaより)。トキワ荘は,棟上げから30年後,老朽化により82年に解体された。住人がみな人気漫画家になってアパートを巣立った後,漫画ファンがよく訪れていたと聞く。2020年に,外観を復元し「豊島区立トキワ荘マンガミュージアム」として,南長崎花咲公園に開館した。

 

 私は,岡田史子のマンガを見たときから,いつも気になっていた。「漫画に詳しい」と自認する人がいる。しかし,彼女を知らないとすれば,それは100%もぐりだ。漫画文化がmatureする過程で生まれた,不世出の夭折の天才である。失礼。「夭折」というのは嘘だ。実際は,たった4年で「引退」したのだ。70年前後の古い人だが,強烈なオーラを持ったマンガ家である。

 岡田史子の雑誌デビュー作は,マンガ雑誌COM創刊2号(‘67年)に載った。彼女は,北海道に住む,17歳の少女だった。COMの読者の創作マンガ投稿欄「ぐら・こん」に投稿し,入選したのだ。これまで,入選作品は,選者の論評と共に2ページだけ縮小して載せる決まりであった。ところが,編集者の強い意向により,岡田の入選作だけ7ページ全てが載った。そのときの評点中,ストーリ性は0点である。その代わり,テーマが100点だった。「ぐら・こん」の関係者は,こういう新しい個性を待っていたのだ。選評は「漫画と言えるかどうか分からない作品。未熟で,独りよがりが強い。今後,プロとしての技術が身につけば,新しいマンガの分野として位置づけられる可能性を秘めている」ということだった。

 それまでは「ぐら・こん」は投稿マンガ欄だけだった。それが,岡田史子等の実験的な漫画が増えてきたため,「児童まんがコース」,「青春・実験まんがコース」,「基礎コース」の3つに分かれることになった。「ぐら・こん」を主宰する中心は,峠あかね(後のマンガ家,真崎守)である。一方,投稿マンガの選者は,大野ゆたか(マンガ家)だった。

 COMは,マンガマニア向けの同人誌的な雑誌だ。もう一方のコアな雑誌「ガロ」に比べCOMは上品だが,よりマニアックだった。当時全盛を極めた,少年・少女マンガの延長線的な作品が中心だった。一方,ガロは完全に青年を対象とし,劇画を主体とした「娯楽誌」の趣である。岡田は,最初ガロに原稿を持ち込んだらしい。しかし,ガロのコンセプトにそぐわないとして採用されなかったという。

 彼女のマンガには,哲学的で意味ありげな言葉が並んでいる。そして,何を言いたいのか最後まで分からないことが多い。実は,今読んでもやはり分からないのである。彼女は,マンガの中心軸となる,「読者が理解できる」ことに全く無頓着だった。それに加えて,話の運びが素人なこともあり,難解なのである。だから,岡田史子のファンと言っても,かなりマンガにのめり込んでいる,コアな読者だけである。売れることが第一の商業誌では,儲けにならない作家だ。したがって,発表は,その可能性を信じた雑誌COMが中心だった。

 何故,彼女は人気があるのだろう?ストーリは一応あるが,起承転結が明確でなく,所々に出てくる象徴的なコマが何を意味しているのか理解できない。現代アートに対峙するときの感情と似ている。そして,内容は哲学的なのである。生と死がテーマだ。登場人物一人一人の言葉が,哲学っぽい。若い人には,そういうところがたまらなく良い。

 アート作品については,その技術の高さを知ることは出来る。しかし,作者の意図するテーマをすぐに理解するのは難しい。作品の題目を見て,その意図をぼんやりと感じることは出来る。しかし,細部に至るまで作者の持つ感覚をつかむのは,ほとんど不可能だ。

 彼女が活躍したのは,‘67~’71年のたった4年間である。その後も何篇か発表している。しかし,もう話題になることはなかった。彼女を語るときは,最初の4年間に発表された作品が主である。

 メディアやネットの情報によると,先のCOM編集者と心中を試みたとされる。北海道の雪山に行ったが,死にきれなかったらしい。その後,両者は結婚したようだ。しかし,すぐに離婚し,別の一般人と結婚,子供を持つ。だが,その男性とも離婚し,あとは一人で暮らしている。彼女は,12歳(小?中学生?)で母親を亡くしており,それがメインテーマの「生と死」を深く考えるもとになった。そう,本人が語っている。

 マンガ製作の時は,いつも岡田史子が頭の片隅にあった。他人が出来ないことをやりたい,という気持ちが強かったためだ。それは,若さの特権であろう。しかし,彼女を模倣することはなかった。理解できないストーリを真似することは不可能だ。また,絵も魅力的ではなかった。

 彼女のマンガは,雑誌で数編読んだだけだった。大学生の時,彼女の作品を集めたもの(「ガラス玉」「ほんの少しの水」朝日ソノラマサンコミックス(‘76, ’78年))を見つけて手に入れた。しかし,改めてどの短編を見ても,相変わらず理解不能であった。