SENSAIまさの備忘録

繊細気質まさの過去を振り返る

これまでのこと3 転園(幼稚園)

 今回は,私が幼稚園時代の話である。いかんせん記憶の曖昧な部分があるので,時系列など内容に過誤があるかもしれない。その点は,ご容赦願いたい。私は,幼稚園の2年目,すなわち6歳で転園した。父が転勤で,その実家に住むことになったからである。

 

 私は5歳で,田舎の幼稚園に入った。そこは,海に近かった。園舎は,神社の敷地の中である。その神社の神主が園長をしていた。60年も前であるが,この園は今日まだ存続している。ただ,場所が変わっている。私が入園した頃は,園舎は,社殿の広い前庭にあった。それは,神社に向かって左手にあり,社務所と棟続きになっていた。園舎の反対側には,ブランコや滑り台などの遊具があって,私たちは,社殿前の広い庭で遊んだ。ときには,社殿の裏,山手側に回って遊ぶこともあった。社殿裏山は竹林である。もちろん怒られたに違いない。現在,園舎は境内の外にある。当時の先生は,おばあさんと中年の女性の2人だった。

 

 私の家のそばには,何kmにも渡る長い堀がある。それは,あたかも川のようであった。運河は,荷物を港まで運ぶために作られた。江戸時代から明治初期にかけて,海岸線に沿って所々に作られたが,明治中期にそれらが一続きにされた。幅は15mほど(現在の資料による)だが,その当時,実際に運河として使われていたかどうかはわからない。これが,大潮のときに台風が近づいたりすると,すぐに氾濫するのである。水浸しの家の前で,長靴を履き,三輪車をこいでいたことを覚えている。三輪車の車輪半分くらいが水につかった。

 家を出るとすぐに,堀に沿って走る道路に出る。その道路を右手に向かい,少し歩くと,木製の橋がある。住民の便のために架けられた,小さなものである。もう2~300m歩くと,バスも走る大きな道路と繋がっている立派な橋がある。木の橋に行く途中,右手に魚粉を使った肥料工場がある。そこは,ひどい匂いを発していた。臭いなぁと思いながら歩いた記憶がある。橋の欄干の隙間は広く,子供が余裕で抜けることができた。また,床には,砂利の混じった土が盛ってある。中央が盛り上がり,欄干側に低くなっている。それが私にはたいそう怖く,堀に落ちないように,真ん中を歩くようにした。ある日,終業(というのが幼稚園にあるのかどうか知らないが)のとき,周りの園児が騒いでいた。しかし,なぜか私だけ座って大人しくしていた。理由など分からない。「送辞などを読まされた」と母から聞いているので,早熟な変わり者だったのだろう。園の先生がそれを見て,私だけ早く帰ってよいと言った。私は一人で,家までの道を歩いて帰った。途中,橋を渡る。いい天気だった。ひょいと堀を見ると,ひょろ長いウナギのような魚が,緑色の水面に浮かびあがり,息を吐いて(吸って?)また潜っていった。それが妙に生々しく記憶に残っている。橋については,この場面以外に覚えていない。何度も渡ったはずだが,不思議なものである。

 

 母に「怪傑ハリマオ」の格好にしてもらった。頭にターバン(母のネッカチーフ?スカーフ?)を巻き,サングラスをしている。手にはおもちゃのピストル。今でいうコスプレである。大いに気に入った私は,颯爽と家の外へ出て,長屋を一周した。したかった。しかし,家の裏手を歩いている時に,向こうから近所のお兄ちゃんが歩いてきた。私は,恥ずかしさのあまり慌ててサングラスとターバンをむしり取った。恥ずかしさといったが,そのときの感情がどういうものか,理解してはいなかった。5歳の子供が,照れを感じたのだとしたら,早熟だったからだろう。そのまま家に帰ったが,母は,たいへん不機嫌になった。私が外に出て,すぐ帰ってきたと思ったらターバンやサングラスを取ってしまっていたからである。ターバンを巻くのに,結構苦労したのだ。その時のコスプレ写真が残っている。察するに,休日で父も家にいたのであろう。写真を撮るのはもっぱら父であった。しかし,私には,母とのやり取りしか記憶に残っていない。

 

 さてこのような毎日であったが,園内で遊んでいたのだから園友とそれなりに仲良くしていたのであろう。というのも,一緒に通園した子供たち以外に顔がほとんど思い浮かばないのである。いわゆる,友人という認識が全く記憶にないのだ。幼いからと言ってしまえばそれまでだが,この後転園してからの周囲の園児への強烈な意識と対照的である。

 

 そして私は,1年その園にいて,翌年4月に父の実家のそばの幼稚園に転園した。そこも神社の神主が園長をしている幼稚園だった。ただ,市街地にあり,神社も幼稚園も,3倍ほど規模が大きい。

 

 まず,最初の衝撃は,先生以外だれ一人近寄ってこないことだった。話しかけてくる園児が一人もいない。私は,まったく園児たちと話をすることなく一日を終える。私の6年の生涯で,これは初めての出来事だった。さみしいとか孤独だとかではなく,強烈な衝撃を受けたのだ。同じ年の子がたくさんいるのに,話しかけるどころか,目を合わせることもしない。動く風景の中に,私一人がぽつんといる感じだった。私は,1年経たずにその園をやめるのだが,その間,他の園児と日常会話をした記憶が全くない。

 

 実は,見て見ぬふりをしていたのだ。それもまた,私には大きな衝撃だった。1㎞ほど歩いたところに教会がある。その教会の隣にかなり広い空き地があった。手入れをしていない公園だったのかもしれないが,覚えていない。ある日,私のクラス全員で,その空き地に虫取りに行った。草がぼうぼうと生えている土地(私有地ではないので公園だったのかと思う)で,パッタの類を素手でとろうというのである。虫かごは持っていた。園児たちは仲良しグループで,空き地に散った。私は勿論,一人である。なかなか見つかるものではないが,暫くして,大きなコオロギを見つけた。急いで手でつかんで虫かごに入れようとしたその時である。さっと数人の男児が私を囲んだ。「○○ちゃん(女の子)は,まだ一匹もとれていないんだ。○○ちゃんにそれをやれ」と脅された。僕も一匹もとれていないんだと言うより先に,コオロギをむしり取られた。私は何が起きたのかよくわからず呆然と立っていた。その時の感情は表現できない。その後,再度バッタを探したがとうとう見つからなかった。家に帰ると,一匹も見つからなかったと強がって見せた。

 

 ある日,全員が工作をすることになった。車輪や様々な形の木片を思い思いに使って,釘で打ち付けて作る(と思うが,金槌を使った記憶がない。接着だったのか?)。木工工作の真似事のような時間である。私は,小さな自動車を作った。完成して,ほっと一息ついたとき,トイレに行きたくなった。作ったものをその辺に置いていくのは危ない。そこで工作机(こんなものが教室にあったか怪しいが)の下に隠していくことにした。トイレから戻って,机の下を覗くと,無い。自動車が忽然と消えている。慌てて周囲を探し回るが,見当たらない。私は途方に暮れた。一緒に探してくれる友達もいない。残っている材料は,薄っぺらい,細長い木片だけだ。仕方がないので,木片を集め,胴体,翼,尾翼にして飛行機らしい形にした。今思えば,私の工作物を分解して部品として使うとは考えにくい。何故なら,皆ほとんど工作物を完成させていたからである。また,分解されたとしても,その残骸すら見当たらなかったのは不思議だ。恐らく,だれか(達?)が隠したものと考える。意地悪をされたのである。

 

 それからしばらくして,保護者参観があった。両親が,そろってやって来た。日曜日だったのだろう。覚えているのは,木工作品が飾られている様子だ。廊下に机が並べてあり,その上に,所狭しと作品が置いてあった。作品には,短冊が貼ってある。それには,題名と作製者の名前が書いてあった。父は目ざとく私の作品を見つけ,おやっという顔をして言った。

 

 「なんだ,お前のだけみすぼらしいなぁ」

 

私はその場面を,そして父の言葉を60年経った今も忘れることができない。その日は,やけにいい天気だった。