SENSAIまさの備忘録

繊細気質まさの過去を振り返る

これまでのこと23 母のことⅡ~私の誕生以前

 先に,母のことを書いた。母が亡くなるときに「私が感じた戸惑い」を中心に据えた。したがって,母の思い出が,まだ沢山ある。そこで,先に書かなかったものを中心に,ここに紹介したい。すべては,私の目で見,耳で聞いた話である。だから,私の思いが陰に陽に入っている。それは結局,私自身を語っていることになるのだろう。

 

 母は,昭和2年1月4日,新潟県旧高田市(現上越市)に生まれた。母は,自分の生年月日には,強い疑いを持っていた。実際はもっと早く生まれ,正月三が日が終わってから役所に届けたのではないか,というのである。しかし,当時そのようなことが出来ただろうか。今は,出生届用紙の右半分が出生証明書である。普通は,出産に立ち会った,病院の医師が記入する。調べてみると,介添え者なしで出産した場合,出生証明書は,それを証明してくれる人物ならば,誰が書いても良いようだ。場合によっては,証明書なしでも届け出ることが出来る。母の言うことは,案外本当なのかもしれない。

 高田は,江戸初期1614年に,松平忠輝徳川家康の6男)が居城「高田城」を築いた場所である。高田藩は,この時が実質的な立藩となり,明治維新まで続く。ただ,江戸幕府の思惑により,藩主は転々と変わっている。

 高田は,日本有数の豪雪地帯である。歩道に屋根をかけた「雁木(がんぎ)」で知られる。商店街によくみられる,庇(ひさし)のついた歩道が,一般の住宅にあるのだ。主屋の1階部分の軒を,外に大きく突き出した形をしている。従って,雁木は私有物であり,その歩道は,私有地である。それを隣通しでつなぎ合わせて,みんなで使っている。母の長兄の家が上越市(旧高田市)稲多(いなだ)にある。行政の保存政策もあり,雁木通りが,当時のまま残っている。現在はその長兄の長男が一人で住んでいる。

 私が幼稚園の頃,長兄の家に,何度か遊びに行った。雁木が続く古い通りで,家々は間口が狭く,奥に細長くなっている。隣の家との間には,隙間がない。屋根の傾斜は,道路側とその反対側の2方向だけである。屋根に積もった雪は,道路側と家の裏に下ろすのだ。また,道路の一方の端には,結構幅のある水路がある。下ろした雪を,そこに流すのだ。その時も大雪で,歩道から道路を見ると,雪が山のように積まれ,雁木よりも高い場所を除雪車が走っていた。雪がそれだけ降ったというわけではなく,屋根の雪を下ろしたために高々と積まれることになったのである。その雪にトンネルを掘って,道路の反対側行くのだ。室内は天井が高く,太い真っ黒な梁が見えていた。家には,歩道側にロフトのような2階部屋があり,その窓からも,雁木の上を伝って外へ出ることができた。

 高田城の南西にある金谷山(かなやさん)には「大日本スキー発祥之地」と書いた石碑が建っている(1930年建立)。1911年,オーストリア・ハンガリー帝国の軍人,レルヒ少佐が日本を視察がてら,金谷山でスキーを指導した。当時は,竿1本で操作するものだった。そういう経緯もあり,石碑に対して「発祥」というのはおかしい「伝来」が本当だろうという意見がある。

 内陸の城下町「高田」のすぐ北には,「直江津」という港町があり,両者は,古くから強い結びつきがあった。1960年代にそれぞれの市街地が拡大し,連坦が進んだ。そこで,2つの市が対等合併し,1971年上越市が発足した。それぞれの街に歴史があり,その呼称には強い思い入れがある。それもあって,互いに揉めることがないように「上越市」という地域を表す名称になった。これは,平成の大合併よりずっと早い時期である。

 

 母は,4男4女の4番目の子で,第3女である。4姉妹とも,祖父と目がよく似ている。垂れ目で,大きい。母は,エキゾチックな美人であった。祖母(母の母親)は,脳溢血で亡くなった。50代の若さであった。私は,祖母の顔を見たことがない。遺影はあったはずだが,記憶していない。母は,高等小学校を卒業後,女学校への進学を希望した。しかし,残念ながら合格できなかったという。やむなく,専門学校に通ったと聞いた。

 少し後になるが,私が小学生から中学校の頃,母は文学全集を買って読んでいた。なん十巻もあるものだ。私も時々読もうとした。しかし字が小さく,しかも上下二段組みになっており,完読は不可能だった。これを書くにあたり,どんな全集だったのかネットで調べた。筑摩のものがそれに近い。購入当時,まだ出版中で,時々新しいものが出版され,家に届くのであった。母の勉学意欲の高さを示すエピソードである。

 私が幼稚園のとき,母の生家に泊まったことがある。祖父が一人で住んでいた。祖母が,早くに亡くなったためである。茅葺の一軒家で,周囲を防風林で囲われていた。隣家に行く道路以外は,すべて田んぼと農業用水路だった。祖父は,藍染めを生業にしていた。私の背丈ほどもある大きな甕に,真っ黒な液体が入っていた。私は朝,居間で目を覚まし,敷かれた布団に座り,テレビの幼児番組を見ていた。また,大きな囲炉裏を囲んで,何人かで朝食を食べた。祖父は,食べ終わった茶碗に白湯を入れ,それを口に含み,ガラガラとうがいをする。そして,ごくんとそれを飲み込むのだ。猫が2匹,放し飼いになっていた。よく,祖父の膝の上に乗っていた。一匹は,黒っぽいトラ猫だ。縄張りをのしのし歩いていた。あるとき,私と目が合い,威嚇するようにじろりと睨みつけた。

 

 その後,母と父が出会うまで,母が何をしていたのか聞いていない。

 

 父は自衛官である。入隊したのは,警察予備隊(現自衛隊)の発足時だ。すでに,27歳である。父は,20歳の時に徴兵された。太平洋戦争真っただ中である。そして,海軍で訓練を受ける。幸い前線へ出兵することはなく,終戦を迎えた。終戦時,広島の呉にいたと聞いた。そうだとすれば,原子爆弾のきのこ雲を見ていたはずだ。

 父は,高田の自衛隊駐屯地に赴任した。そして,母と知り合う。父は母を大変気に入り,プッシュプッシュで結婚の承諾を取った。売り文句は「食べる心配はさせない」ということだった。母は「好きで一緒になったわけではない」と自嘲気味に言っていた。ただ,間違いなく,お金に困らなかったと述懐していた。父は,祖父G(父の母親の再婚相手で別姓)を引き連れて,高田の実家へ行った。高田の祖父に結婚を承諾してもらうためである。ところが,Gは,よもやま話ばかりして,肝心の結婚の話をしない。そこで父はやむを得ず,自分から話を切り出した。祖父Gは,唐傘職人である。人当たりはよかったが,世渡上手な性格ではなかった。祖母は最初の夫(父の実父)Fが好きで,その名字を変えなかった。Gとは籍を入れていなかったものと思う。

 父の実家は,山形市である。母の育った高田とは言葉のアクセントがまるで違う。高田の言葉は,関西弁に近い。しかも,山形には,東北特有の訛り(なまり)がある。母は,山形市に嫁いで,最初に言葉に苦労したという。祖母の言葉が,なかなか理解できなかった。しかも,怖かった。山形の人々の会話が,まるで喧嘩をしているように聞こえたらしい。知らない土地に行って,最初に文化の違いを感じるのは,言葉であろう。山形は,月山をはさんで,海側(酒田,鶴岡など)と内陸(山形,米沢など)では言葉が異なる。海岸は,北前船が寄港し,山形の米を運んだ。だから,関西の言葉に近い。一方,内陸は生粋の東北弁である。言葉に抑揚がなく,特有の訛りがある。山形で初めて聞く言葉は,母にとって衝撃だったのだろう。

 

 結婚してすぐに,父は北海道の美幌駐屯地に転勤となった。2人は,そこで新婚生活を送ることになる。そして,私が誕生した